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第三話 足跡なき森

 雪は止み、森は深い静寂に包まれていた。厚い雲が空を覆い、朝の(ひかり)は鈍く広がるばかりで、木々の奥深くまで射し込むことはない。夜の名残を帯びた空気が森の中に漂い、冷たさが凍りついた時間のように肌に絡みつく。冬の森が静かなのは当たり前だ。だが、この静けさは、あまりにも重たかった。

 リナリアは膝下まで沈む雪を慎重に踏みしめながら歩いた。冷気は肌を刺すようなものではなく、じわりと染み込むような、喉の奥まで凍らせるような冷たさ。雪に足を取られながらも、意識はどこか別のことを考えていた。エリオーネの言葉が、頭の中で何度も反芻される。


 「……十三年前」


 ただの事実として口にされた言葉。それ以上でも、それ以下でもない響き。お母さんが、この森に何をしたのか——リナリアは答えを知らない。けれど、確かに何かがあったのだと、子どもの頃から感じていた。森は昔とは違っていた。何が変わったのかは、はっきりとは分からない。ただ、幼い頃に感じていた森の息吹、木々のざわめき、小さな精霊たちの囁き——それらがすべて、遠いものになっている。


 それは、ただの成長のせいなのか、それとも——。


 考え込んでいたせいか、ふと足元を見るまで、自分がどこを歩いているのかも意識していなかった。何気なく視線を落とし、リナリアの足が止まる。そこにあるはずのものが、ない。昨日、ここを歩いたはずなのに、自分の足跡がない。風に消されたのか、新たな雪が覆ったのか。それにしては不自然。風が吹けば、踏み跡はまだらに消えるはず。雪が降っても、うっすらと窪みが影を落とすはず。けれど、ここには何もない。


 まるで、昨日の自分が存在しなかったかのように。


 リナリアは立ち止まり、静かに息を吐いた。白い吐息はすぐに空気に溶け、跡形もなく消えていく。耳を澄ますと、森はあまりにも静か。雪の上を駆ける獣の足音も、枝を渡る小鳥の羽ばたきもない。時折、積もった雪が枝から滑り落ちるだけで、森の気配そのものがどこか遠い。昨日と違う。いつもの静けさとは、何かが違う。


 ——おかしい。


 そう思いながらも、言葉にはしなかった。ただ、気づかぬふりをして足を踏み出す。雪に沈む足を引き抜くたび、粉雪が細やかに舞い上がる。何かを掻き消すように、光の届かない薄闇へと溶けていく。リナリアは慎重に(あゆみ)を進めた。けれど、胸の奥で広がるざわめきが、静まることはなかった。

 視界の隅で、何かが揺れた気がした。リナリアは反射的に目を凝らす。しかし、そこには何もない。木々は沈黙の中に佇んでいるだけ。風もないのに、枝がわずかに揺れ、積もった雪がさらりと滑り落ちた。


 ——気のせい?


 森の気配が、いつもと違う気がする。けれど、その違いが何なのかは分からない。リナリアは、ゆっくりと息を吸い込んだ。冷たい空気が肺の奥まで満ちていく。

 そのとき。森の雪が、ほんのわずかに盛り上がっている場所があることに気づいた。丘のような自然の起伏ではない。何かが埋もれているかのように、そこだけ不自然に雪が積もっている。リナリアは慎重に近づいた。雪の斜面を注意深く踏みしめ、足場を確認しながら、ゆっくりと掘り起こす。指先が雪に触れた瞬間、冷たさがじんと染みる。ふわりと舞い上がる粉雪が、薄闇に消えていく。

 そして。白の下から、黒が覗いた。

 リナリアは息を呑む。さらに雪を払いのけると、それは『手』。冷たく、凍りついたままの人の手が、雪の中から沈黙のまま姿を現す。指先はわずかに曲がり、まるで何かを掴もうとしたまま止まったかのよう。誰のものなのか。どれほどの時間、ここにあったのか——わからない。けれど、この森に「死」があったのだという事実が、ひどく現実的なものとして、リナリアの目の前に突きつけられていた。

 背筋を冷たいものが走る。遠く、灰色の空の下。リナリアは、その手をじっと見つめた。

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