第二十九話 語られざるものたちの頁
ローゼン帝国魔法学校の図書館は、知識と沈黙が交差する場所。天井までそびえる書棚が無数に並び、魔法の灯火が柔らかく瞬いている。時折、ページをめくる音や、ペン先が紙を擦る微かな音が響くだけで、誰もがただ目の前の知を追い求めることに没頭していた。リナリアもまた、机の上に開かれた一冊の書物に視線を落とす。『魔導への階梯』――母フェリオラ・ウィンスレットが記した、魔法の探求に関する書物。
数日前、彼女はここでこの本と出会った。革装の表紙に触れたとき、ひんやりとした感触が指先に残り、それはまるで過去からの呼び声。母がこの本を書いたとき、何を考えていたのだろう?どんな思いで言葉を綴ったのだろう?文字を追えば追うほど、母の手が届かない場所へと伸びていたことを思い知らされる。書かれた言葉は難解で、まるで鍵のかかった扉のように、彼女を容易に通してはくれなかった。母がたどり着いた境地が、自分にはまだ遥か遠い場所にあることも痛感する。
――この先に、お母さんの求めた答えがある。だけど、それを知る資格が、私にはあるのだろうか?
リナリアはそっとページをめくる。その時、すぐ近くから低い声が聞こえた。
「……魂の断絶、記録される意識の痕跡か」
彼女は思わず顔を上げる。目の前の机に、一人の青年が座っていた。黒のローブを纏い、細い金縁の眼鏡をかけた彼は、机に積まれた分厚い古書の束の間で、静かにペンを走らせていた。
――いつもいる人。
リナリアはこの数日、彼の姿を何度も見かけていた。毎日、同じ時間に現れ、同じ席に座る。目の前の本以外には何の興味も示さず、ただひたすら筆を走らせている。まるで彼自身が、図書館の一部であるかのよう。今の言葉に、リナリアの胸がざわついた。『魂の断絶』――それはまさに、母の研究が触れようとしていた領域。
机の上に広げられた青年のノートには、魔法陣の図や、精密な手書きの文字が並んでいる。ふと、彼の手元に目をやると、筆先が止まっていることに気づいた。リナリアは迷う。話しかけるべきか、それとも聞かなかったふりをするべきか。気づけば口を開いていた。
「……アンデッドに関する研究、ですか?」
灰色の瞳がこちらを向いた。金縁の眼鏡の奥から、冷静な視線がリナリアを捉える。睨むわけでも、警戒するわけでもない。ただ、彼の中にある思考が、一瞬止まったことがわかった。
「……君は?」
低く落ち着いた声。それは、誰何するというより、純粋な疑問の響きを持っていた。リナリアは戸惑いながらも、静かに答えた。
「ただの読書をしている者です。あなたの言葉が、少し気になっただけ」
青年はじっと彼女の顔を見つめた。その視線は、彼女が何者なのかを測るようでもあり、慎重に答えを探るようでもあった。やがて、彼は小さく息を吐いた。
「この研究に興味があるのか?」
「少しだけ……」
青年はノートを閉じ、背凭れにゆっくりと身を預ける。図書館の灯火が微かに揺れ、彼の横顔を陰影で彩る。
「君は学生ではないな」
リナリアは苦笑した。彼は毎日ここにいるのだから、当然気づいていたのだろう。
「ええ、違います。でも、知りたいことがあって、ここに通っています」
青年は、彼女の言葉を聞くと、静かにノートの表紙を指先でなぞった。
「……俺も似たようなものだ」
その言葉に、リナリアはわずかに目を見開く。彼の声音には、淡い疲労と、拭いきれない執着のようなものが滲んでいた。
「俺はクラウス。帝国魔法学校で講師をしている」
講師――。彼がただの研究者ではなく、正式な学院の一員であることに驚きながらも、リナリアは軽く頷いた。
「リナリアです」
クラウスはその名を一度口の中で転がし、再びノートを開く。
「……俺の研究は、死者の意識の痕跡についてだ。魂が完全に消えたとき、何が残るのか」
それは、まるで自分に言い聞かせるような言葉。そこには何かを確かめたいという切実な願いが滲んでいた。リナリアは、無意識に母の本を抱きしめる。この人は――同じものを求めているのかもしれない。それを確かめるには、まだ時が足りなかった。彼女は静かにページをめくる。クラウスもまた、無言で筆を走らせる。
静寂が戻る。けれど、それはもう以前と同じものではなかった。知識の探求を共有する者たちの間に生まれた、新たな静けさ。




