第二十八話 眠る記録
学園の広大な敷地の中、リナリアはゆっくりと歩いていた。
「図書館はどこかしら……」
呟くように言いながら、周囲を見渡す。道案内の標識を探し、見つけては進む。その繰り返し。ローゼン帝国魔法学校は、ひとつの町のように広大。いくつもの校舎が連なり、建築様式はそれぞれ異なっていた。古びた石造りの棟もあれば、魔導の光を放つ新しい校舎もある。すれ違う学生たちは、好奇心を込めた視線をリナリアへ向けたが、彼女は気にすることなく歩を進めた。
やがて、一つの大きな建物の前に立つ。長い回り道をしたつもりが、気づけば最初にいた中庭のすぐ近く。正面の扉は重厚な木製で、金属の装飾が施されていた。まるで閉館中のように静まり返り、人気もない。リナリアは、一瞬だけためらったが、恐る恐る手をかける。重い音を立てながら、扉がゆっくりと開いた。きしむ音が響く。
中に足を踏み入れると、広がるのは静寂。幾重にもそびえる書棚が影を落とし、沈黙の空気が漂っていた。長机には灯が揺れ、静かにページをめくる音だけが響く。幾人かの学生が座り、ノートにペンを走らせていた。彼らはリナリアに目を向けることもなく、ただ静かに、自らの探求に没頭していた。
受付では、登板の学生が黙々と返却された本を整理している。ワゴンに積まれた本を一冊ずつ書棚へ戻していく。リナリアは、受付へ向かった。
「すみません、卒業名簿はどこにありますか?」
受付の学生は、顔を上げることなく一枚の札を手渡した。
「ここに知りたい名前を書いて」
淡々とした口調。リナリアは頷きながら、その札にペンを走らせる。
『フェリオラ・ウィンスレット』
『エリオーネ・ルヴェリエ』
書き終えると、学生にそれを渡した。学生は軽く呟く。
「検索せよ」
札が灰となり、ひとひらの光が消えた。リナリアは目を見開いた。その様子を気にも留めず、学生は立ち上がる。
「ついてきて」
静かな足音が響く。リナリアは後ろについて歩き出した。書棚の間を抜け、幾つかの通路を渡る。やがて、学生は立ち止まり、手を顎にあてた。
「ここから先の書棚は、百年以上前のものばかりだけど……あってる?」
リナリアは息を呑む。
「……たぶん、それで合ってると思うわ」
学生は軽く頷き、さらに奥へと進んだ。書棚が密集する静かな空間。その中の一つの前で、学生は歩みを止めた。高い——。二メートル半ほどの高さがある。上から二段目、左から……八冊目と九冊目。学生は指し示した書棚を見上げながら指さした。
「あの梯子を使ってください。持ち出しは禁止ですから、館内で読むようにね」
そして、ちらりとリナリアを見て、首をかしげる。
「……卒業名簿ではなくて、書籍としてまとめられてるなんて珍しいわね」
そう言い残し、学生は静かに立ち去っていった。リナリアの心臓が跳ねる。——書籍として?卒業記録のようなものを探していたはず。しかし、ここにあるのはそれとは異なるもの。慎重に梯子に手をかけ、ゆっくりと動かした。軋む音が静かな図書館に響く。細心の注意を払いながら、一歩ずつ登る。目の前にある、本の背表紙。指でなぞると、かすかな埃が指先にまとわりつく。そこに書かれていた名前——。
『魔導への階梯 フェリオラ・ウィンスレット』
『魔導への階梯 エリオーネ・ルヴェリエ』
リナリアは、そっと二冊を同時に引き出した。二人はいつも一緒だったことを証明するように、本もまた、寄り添うように並んでいた——。指先に伝わる革の感触。フェリオラとエリオーネの声が、まるで耳元で囁くように感じられた。彼女たちも、かつてこうして梯子を上り、二人並んでここにこの本を収めたのだろうか。笑いながら、お互いの本の位置を確かめ合って、そっと手を放したのだろうか。慎重に梯子を降りる。石の床が、ひやりとした感触を伝えてくる。腕の中にあるこの二冊だけは、どこか温もりを帯びていた。
——お母さんのぬくもり。
リナリアは胸の奥で呟いた。三歳の頃まで、確かにフェリオラと一緒に暮らしていた。けれど、その記憶は淡く、触れることのできない夢のよう。だからこそ——この本を抱きしめる腕の中にある重みは、彼女にとって、母を初めて抱きしめるような感覚。胸を締めつける。喉の奥が熱い。心臓が痛いほどに脈打つ。
——私と同じくらいの年頃のお母さんが今ここにいる。
リナリアは、深く息を吸い、目の前の机に二冊の本をそっと並べた。至高の魔法の領域に辿り着いた者が、最後に見出す悟り——。これがお母さんが到達した場所?私も、この本の先に進むことができるのだろうか?リナリアは、震える手でフェリオラの本の表紙を撫でる。
お母さんがこの本に触れたかもしれない。何度も、手でなぞりながら考えを巡らせたかもしれない。ひんやりとした革装の表紙には、微かに時の重みが滲んでいた。
そして、そっと一枚目をめくる。何も書かれていない白い表紙裏が現れる。そこには確かに母の気配があった。紙の上に刻まれた、見えない残響のように。リナリアは、無意識に指を滑らせた。この一ページをめくれば、母が遺した言葉に辿り着ける。震える指先で、もう一枚めくる。そこには、フェリオラの直筆が綴られていた。
『この言葉を記す時、私はまだこの世界にいる。
もしこの書を開く者がいるのなら、それは、私がたどり着けなかった道を行く者なのだろう。
——その時、私の声は、まだ届くだろうか?』
リナリアは息を詰まらせた。彼女は文字を指でなぞる。目を閉じ、指先で筆圧を確かめるように。母の手が、この紙の上を滑った。この文字を書き記すとき、母は何を思ったのだろう——。彼女はどこへ向かおうとしていたのか。何を求め、何を追い続けていたのか。その先には何があったのか——。心臓が高鳴る。母がこの本を開いたときと同じように、今、自分も何かを求めている。まだ見ぬ答えを探して——。深く息を吸い込み、その瞳に静かな決意を宿す。
「お母さんが求めた答え……その先に、私が辿り着いてみせる」
— 第一章終 —




