第二十六話 帝都エルゼグラード
朝の光が宿の窓から差し込み、昨夜の冷えをゆっくりと溶かしていく。エルゼグラードまでの道のりはあとわずか。リナリアたちは宿の一室で最後の準備を整えていた。
「さて、出発ね」
リナリアはベッドに腰掛けながら、そっと白兎の頭を撫でる。小さく丸まっていたルミナの身体がわずかに震え、毛並みが滑らかに波打つように伸びていく。やがて、骨格が変化し、細くしなやかな腕が現れた。純白の毛は流れるような銀髪へと変わり、紅の瞳がゆっくりと開く。頭に残った長い耳は兎の形を保ったまま、微かに動いた。
「おはよう、リナリア」
ルミナは静かに微笑みながら、リナリアの手を軽く握った。
「もう行くのね」
「ええ、あと少しよ」
リナリアはルミナに微笑み返しながら、荷物を肩にかける。こうして、彼女たちは宿を後にした。
宿を出てほどなく、彼らは再び商隊の荷馬車へと合流する。リナリアとジークが荷馬車に乗り込むと、ロシュが陽気な声をあげた。
「おいおい、ジーク、お前の連れだって? そんな話、聞いてなかったぜ?」
ロシュの視線は、初めて見るはずのルミナに向かっていた。
「昨日の晩にジークに会いに来たの。都会では獣人同士のつながりも大切だから」
ルミナはさらりと言って、すっとリナリアの隣に座る。違和感を抱かせないように、ごく自然な振る舞いを意識していた。ロシュは目を瞬かせ、ジークとルミナを見比べると、急に手を叩いて笑い出した。
「ほう? なるほどな……都会の獣人ってのは積極的でうらやましいねぇ!」
「……まぁ、そんなところだ」
ジークは肩をすくめる。ルミナは微笑を崩さず、上品な仕草で髪を整えた。
「いいねぇ、お前、いい女を捕まえたな!」
ロシュがからかうように言うと、リナリアがすぐに割って入りルミナに抱き着く。
「違う違う違う! ルミナは私の友達なの‼」
「おいおい、本気で動揺するなよ」
「だって! だって昨日の夜は、ルミナは私と一緒に寝たんだから!」
リナリアの必死の弁明に、ロシュと他の商隊の者たちは大笑いした。
「お前、そういうのは余計に誤解を生むぞ」
ジークが呆れながら言うと、リナリアは「むぅ」と頬を膨らませる。ルミナは微笑んだまま、そっとリナリアの肩に手を置いた。
「リナリア、気にしないで」
「もう……ルミナは落ち着きすぎよ!」
そんなやり取りを交わしながら、荷馬車は帝都へと向かっていった。
道はこれまでとは異なり、平らに整備され、石畳が続くようになった。道端に広がっていた田園風景は次第に姿を消し、代わりにコンクリートの建物が増えていく。街道沿いには、貿易商や馬車が行き交い、人々の活気が満ちていた。獣人の姿も珍しくなくなり、ドワーフたちが商談を交わしている場面も見られた。辺境の村とはまるで別世界。
馬車が丘を越えると、視界が一気に開けた。眼下には、広大な工事現場が広がっていた。いくつものゴーレムが、まるで神の手のように大地を引き裂き、岩を砕き、森を飲み込んでいく。その腕が振り下ろされるたび、大地が呻くように揺れ、崩れた岩が粉々に砕けていく。
ローゼン帝国の自然は、帝国の魔導の力によって容赦なく整地され、均されていた。ゴーレムの足元に広がる魔法陣は、青白い光を静かに放ち、まるでそこに古代の神秘が宿っているかのようだった。
「あれが帝国魔導師団だ」
ロシュが呟く。リナリアはゴーレムたちを指揮する男に目を向けた。黒い長衣を纏い、金属の装飾が施された肩当てをつけた魔導師。彼の背後には護衛らしき兵士が控えていたが、それ以上に異様なのは、彼の目。まるで、人間を見ていない。眼下の作業を見下ろすその視線には、感情がなかった。
「これ……彼らの家の大地を奪ってるのよね……」
ルミナがリナリアの隣で静かに呟いた。その声は小さかったが、ロシュは聞こえていたのか、ほんの少し口を引き結んだ。魔導師の視線が、ぴたりと馬車の方へ向いた。それは、何かを探しているような視線。単なる通行人を見るのではなく、「何かを感じ取った」かのように、一瞬、時間が止まるような錯覚を覚えた。彼の目が、何かを探るように細められる。
「……っ」
リナリアは無意識のうちに息を詰めた。彼が見ているのは、こちらなのか? それとも偶然なのか?ルミナもまた、一瞬だけ身を強張らせた。しかし、馬車はそのまま速度を緩めることなく通り過ぎていった。
「あれは……」
リナリアは魔導師の姿が遠ざかっていくのを見ながら、小さく呟いた。その薄暗い不安は、しばらく胸の奥に残った。やがて、馬車の前方に巨大な門が見えてきた。帝都エルゼグラードの入り口。城壁は驚くほど高く、門の上部には帝国の紋章が掲げられていた。門前には多くの旅人や商隊が列をなしており、検問が行われている。ロシュは手綱を引き、ゆっくりと馬車を進めた。
「さて、ここで俺たちはお別れだな」
ロシュはジークの肩を軽く叩く。
「お前ら、これからどうするんだ?」
ジークは腕を組み、ちらりとリナリアを見た。
「帝都を歩いてみるつもりだ」
ロシュは満足げに頷く。
「そりゃいい。帝都は広いぞ。何を見るか、誰に会うかで、お前らの旅も変わるってもんさ」
リナリアとルミナも、ロシュに礼を言った。
「お世話になったわ、ありがとう」
「こちらこそ。嬢ちゃんたちも、気をつけな」
ロシュと商隊の面々は手を振りながら、馬車を進めていった。リナリアたちは帝都の門の前に立ち、深く息を吸い込んだ。
「……さて、行きましょうか」
エルゼグラードの街が、目の前に広がっていた。街の入り口を抜けると、遠くで正午を告げる鐘の音が静かに響いた。重く荘厳な金属の音が、空気を震わせる。上空では白い鳩が羽ばたき、小さな小鳥たちが軒先でさえずっている。馬車の車輪が石畳を叩く音は絶え間なく続き、蹄の音と混ざり合いながら街路を流れていく。すれ違う人々の笑い声、商人が客を呼び込む活気ある声が、まるで波のように寄せては引いた。
整然とした石畳の道がどこまでも続き、広場には噴水があり、その水面が陽の光を受けてきらめいている。軒を連ねる店々からは、焼きたてのパンの香ばしい匂いや、ミルクを煮込む豊かな香りが漂い、通りを歩くたびに異国の風が吹く。リナリアは街の壮麗な光景に目を奪われた。歴史の刻まれた石造りの建物、行き交う人々の多様さ、まるでこの世界のすべてがここに集まっているような圧倒的な活気。彼女はふと足を止めると、街並みを見上げた。
「ここが……エルゼグラード……」
リナリアは小さく呟いた。それは、単なる都市ではない。彼女の母——フェリオラが生きた場所。エリオーネと出会い、運命が交差した場所。彼女は今、その歴史の入り口に立っている。
「……エルゼグラードが私を迎えてくれるなら、きっと何かが待っているはず。」
リナリアは胸に高鳴る鼓動を感じながら、石畳を踏みしめた。




