第二十四話 雨に溶ける境界
冷たい雨が降り続いていた。水滴が草を濡らし、道を泥に変えていく。旅が始まって幾日かが経ち、空は厚い雲に覆われ、昼間だというのに薄暗い。雨粒がリナリアのフードを叩き、肩を濡らしていた。
宿の暖炉の火が、雨に冷えた身体をじんわりと温めた。リナリアは、濡れた外套を乾かしながら、持っていた砂金を宿の主人に預け、銀貨へと換えてもらった。小さな手のひらで銀貨を転がすと、その鈍い輝きが灯の下で揺れる。ふと、ルミナの気配が傍に寄るのを感じた。
夜が更けると、ルミナは静かにその姿を変えた。リナリアの枕元には、小さな兎がふわりと丸くなっていた。雨音に耳を澄ませるように、ぴくりと動く長い耳。白い毛並みはほのかな光を帯び、息遣いは静かで心地よい。リナリアは微笑み、その小さな額を優しく指で撫でた。
「おやすみ、ルミナ」
静かに囁くと、兎の耳がかすかに揺れた。ルミナは決してリナリアのそばを離れない。それが彼女の在り方。そして、翌朝。雨が止むことはなく、灰色の空の下、彼らは再び旅路へと足を踏み出した。リナリアは街道の先を見つめ、ルミナは四つ足の神獣の姿で静かに寄り添う。そして、意外なことに、旅の途中で出会った村人たちの関心は彼女ではなく、ジークへと集中していた。
旅の途中、荷馬車を引く農民と出会い、運よく乗せてもらえることになった。雨の中を延々と歩き続けるよりは、はるかに楽。荷台に腰を下ろし、リナリアはフードを深くかぶり雨をしのいでいた。ジークも隣に座ったが、彼の鱗は水を弾き、光を帯びるように輝いている。そして落ち着く暇もなく農民に話しかけられる。
「お前さん、何を食うんだ? まさか、我々の家畜なんか狙わないよな?」
「ドラゴンの血が混じってるなら、火を吐いたりするのか?」
「鍛冶場の火を貸してやったら、鉄くらい溶かせたりするんじゃねぇのか?」
荷馬車の上で、リナリアはフードを深くかぶりながら、笑いをかみ殺していた。田舎の農民らしい素朴な興味が、次々とジークへと向かう。ジークは片肘をつきながら、うんざりしたように肩をすくめた。
「肉は好きだが、生きたまま食うわけねぇだろ。火? そんなもん吐けたら、今ごろもっと楽に稼げてるぜ」
農民たちは「へぇ」と感心したように頷く。
「そりゃあんた、獣人はたまに見るが、ドラゴンの血を引くやつなんざ聞いたこともねぇ。こんなとこに来るなんて、何か理由でも?」
ジークは鼻を鳴らし、のんびりと答えた。
「理由? ねぇよ。行く当てがねぇだけさ」
農民たちは不思議そうに顔を見合わせた。
「そもそも、ドラゴンなんてもういないんじゃねぇか? お前さんが最後の一匹だったりしてな!」
冗談めかしたその言葉に、ジークの金色の瞳がわずかに暗くなる。
「……ドラゴンがこの世にいなくなったとは、誰が決めた?」
その低い声に、農民たちは思わず口をつぐんだ。雨音が周囲の静寂を埋めるように響く。リナリアは横目でジークを見た。彼の瞳の奥にあるのは、ほんのわずかな寂しさ。ドラゴンの血を引く者として、彼がどんな人生を歩んできたのか——リナリアは少しだけ、その重みを感じた。
雨が降り続く中、ついに帝国領内の国境へと近づいた。関所が視界に入る。石造りの建物に帝国の旗が掲げられ、何人もの兵士が道行く者を検問している。旅人や商人たちが列をなし、検問を待っていた。
「……すんなり通れるかしら?」
リナリアはジークに目を向けたが、彼は意に介した様子もなく、悠々と歩いている。周囲の視線がすでに彼に集中していることに、リナリアは小さく笑った。
「ジークがいるおかげで、私たちの印象が薄くなって助かるわね」
「なんだそりゃ」
ジークは面倒そうに頭を掻いた。関所の兵士たちも、まず最初に目を留めたのは、やはりジーク。
「貴様……出身地はどこだ?」
ジークは笑いながら堂々と答える。
「ずーっと東さ。海があるまで果てだ」
兵士は少し眉をひそめた。
「それが何か問題か?」
ジークは肩をすくめ、兵士たちを見渡す。
「俺はこんなに特徴的なんだ。お尋ね者だったら、お前らも知ってるはずだろ?」
兵士たちは顔を見合わせる。確かに、彼ほど目立つ存在が罪人であれば、すでに指名手配の札が出回っていてもおかしくはない。しかし、それらしき記録はどこにもない。
「……妙な真似はするなよ」
兵士は僅かにジークを睨んだが、それ以上は深追いしなかった。ちらりとルミナにも視線をやるが、ただの荷運びの獣と思ったのか、それ以上の興味は示さなかった。ジークは気にした様子もなく、リナリアたちに目をやる。
「行くぞ」
関所を通過し、帝国領内へ足を踏み入れると、リナリアはくすくすと笑った。
「帝国の役人たちは、あなたに気を取られて、私のことも、ルミナのことも何もたずねなかったわ」
ジークは振り返り、呆れたように眉を上げる。
「おいおい、俺はそんなに目立つか?」
「ええ、とても。助かるわ」
リナリアは肩をすくめ、軽く笑った。ジークはため息をつく。そんな彼の様子を見て、少し考えるように首を傾げた。そして、くるりと振り返りながら、ふっと軽やかに言葉を継ぐ。
「そういえば……あなた、私たちに剣を抜いたことがあったけど、本当に盗賊でも追いはぎでもなかったのね?」
リナリアはくすくすと笑いながら、ジークをちらりと見上げた。ジークは足を止め、軽く鼻を鳴らす。
「あれを本気の強盗だと思ってたのか?」
「どうかしら。でも、今のあなたなら信じてもいいかも」
リナリアは意味ありげに微笑むと、再び歩き出した。冷たい雨の向こうに、帝都エルゼグラードの影がぼんやりと滲んでいた。そこへと続く旅路を、彼らは歩き続ける。辺境の神が帝国に入ったことを知る者はまだいなかった。雨はなおも降り続いていた。




