第二十話 神々の証明
神殿の奥に広がる会議の間では、未だ緊迫した空気が漂っていた。書記官ユーリウスの冷静な言葉に、信徒たちは怒りと困惑をにじませながらも口を閉ざしていた。
「それに、エルフの神が実在する証拠を、私はまだ何も見ていません」
その一言が、この場にいる者たちの心を大きく揺るがす。リナリアは彼をじっと見つめた。証拠を求める彼の態度は、ただの好奇心や学術的な探究ではない。彼は、星霧の森の信仰がどれほど確かなものかを問い、言葉で論破し、最終的にはその影響力を削ごうとしている。
「証拠とは、何を指しておられるのです?」
老司祭が、慎重な口調で尋ねた。ユーリウスは余裕の笑みを浮かべ、ゆったりとした仕草で手を広げた。
「例えば、目の前で神の奇跡を見せていただくのが最も簡単でしょう。神の名を呼び、祈りを捧げ、その加護が実際に及ぶのなら、私も信じる理由を見つけられるかもしれませんが……」
彼はわずかに肩をすくめ、皮肉げに微笑んだ。
「残念ながら、これまで帝国が調査した限り、そうした現象は確認されておりません。星霧の森の神が実在するというならば、なぜもっと広く人々にその恩恵を示されないのか。なぜ、エルフたちは長きにわたって閉ざされた森の奥に留まり、限られた者の前でしか姿を現さないのか……?」
室内の空気が冷え込んだように感じられた。村長が静かに唇を引き結び、落ち着いた声で返した。
「信仰とは、証拠を示すために存在するものではありません。信じる者の心の内に宿るもの。目に見えぬものだからこそ、人々の生きる支えとなるのです」
ユーリウスは小さく息を吐いた。
「なるほど。信仰とは目に見えぬもの――実に便利な考え方ですな。ですが、そうした考えが時として人を縛る枷ともなり得る。帝国の豊かさが人々にとって新たな希望となるのなら、なおのこと、古き信仰に固執する意味があるのでしょうか?」
「帝国の豊かさ……?」
若者が苛立ったように言葉を絞り出す。
「あなたは、帝国の繁栄の裏で何が起きているのか、本当にご存じなのですか?」
彼は鋭い眼差しを向けながら、拳を握りしめた。
「帝国はただ交易をもたらしているわけではない。彼らは市場に安価な物資を流し込み、人々がそれを買わずにはいられない状況を作っている。そして、いつの間にか我々の信仰が形骸化し、気づいたときにはもう後戻りできない環境が整えられている……」
村長が深くうなずき、重く口を開いた。
「気づけば、我々の土地は知らぬ間に帝国の支配下に組み込まれていく」
「それは必ずしも悪いことではないのでは?」
ユーリウスは淡々とした口調で言葉を返す。
「人々がより良い生活を送るために、必要な変化では? 帝国のもたらす文化や技術は、人々をより豊かにし、より快適な暮らしへと導いています。我々は剣を抜いてこの地を征服しようとしているわけではない。ただ、新しい可能性を示しているだけのこと」
若者の眉が怒りに震えた。
「それは詭弁だ! 帝国は取引という名の支配をしているだけだ。交易で人々の生活を掌握し、価値観を塗り替え、我々が古きものを手放すしかない状況を作り出している」
「時代は変わるものです。変化を恐れるのは、進歩を拒むことに等しい」
ユーリウスは冷静に言葉を紡ぐ。
「……ならば、リナリア様はどうお考えなのです?」
老司祭が問いを向けると、場の空気が張り詰めた。信徒たちは一斉にリナリアへと視線を向ける。彼女の言葉が、この場の均衡を左右するのだと理解していた。リナリアはゆっくりと息を吸い、ユーリウスを真っ直ぐに見つめた。
「私は……」
突然、神殿の扉が激しく叩かれた。
「申し訳ありません!」
息を切らした信徒が駆け込んでくる。その顔には焦燥の色があり、声がわずかに震えていた。
「帝国の兵士たちが……神殿を取り囲んでいます!」
室内がざわめきで満たされた。
「なんだと……?」
村長が険しい表情を浮かべ、信徒たちが一斉に立ち上がる。
「どういうことだ、ユーリウス書記官」
老司祭が低く問いかけると、ユーリウスは肩をすくめた。
「驚かせてしまいましたか? ですが、これは私の権限の範囲内です」
「貴様……!」
若者が詰め寄ろうとした瞬間、帝国の警護の兵が剣の柄に手をかけた。
「動くな」
兵士の冷たい声が響く。室内が一瞬にして張り詰める。書記官は微笑を崩さず、再びリナリアに視線を向けた。
「念のために確認させていただきますが、あなたは……一体、何者なのでしょう?」
「……」
神殿に冷たい沈黙が落ちる。その中で、ルミナがそっとリナリアの隣に立った。彼女の姿は神々しく、どこか現世のものではない雰囲気を漂わせていた。
「帝国の兵が囲んでいるということは……初めから確保するつもりだったのね?」
リナリアは静かに言った。ユーリウスの微笑が、少しだけ深まった。
「どう受け取るかは、ご自由に」
神殿の外では、帝国の兵士たちが整然と並び、その手には剣と盾が握られていた。――決して、ただの「尋問」では終わらないことを、誰もが感じ取っていた。リナリアはゆっくりと立ち上がり、ルミナに視線を向けた。
「わかりました」
彼女は静かに言葉を紡ぐと、ユーリウスを見据えた。
「あなたに従いましょう」
信徒たちは驚きの声を漏らした。
「リナリア様……!」
老司祭が何か言いかけたが、リナリアは手を軽く上げ、それを制した。書記官が頷き、扉を開くと、冷たい風が頬を撫でた。外に広がる光景は、厳粛な静寂の中に緊張が満ちていた。帝国の兵士たちは、広場を取り囲み、行く手を塞いでいる。
リナリアはゆっくりと歩みを進め、ルミナと並んで神殿の階段を降りた。そして、階段の下へと降り立ったそのとき。ルミナの姿が揺らぎ、光が溢れ出す。金色の粒子が彼女の体を包み込み、空気が震えた。温かな輝きは陽の光と交わり、周囲の空間を歪ませるように広がっていく。
人々が息を呑み、後ずさる。ふわりと宙に浮かぶように、ルミナの体が変化を始めた。白く滑らかな肌が徐々に変質し、やがて柔らかな毛並みが鱗へと変わる。しなやかだった四肢が力強く伸び、指先には鋭い鉤爪が現れた。彼女の背中からは巨大な翼が広がり、風を切るように大きく動く。
長かった耳は鋭角に変化し、目元はより獰猛な曲線を描く。しなやかな尾が長く、力強く伸び、先端がまるで炎の揺らめきのように光を帯びた。金色の瞳がゆっくりと開かれる。ただそこに佇むだけで、圧倒的な存在感があった。人々の沈黙が、やがて歓声へと変わる。
「リナリア様の奇跡だ……!」
信徒たちが涙を浮かべ、膝をつく。参拝者たちは崇拝の念を込め、祈りを捧げた。村人たちも次々と歓声を上げ、感極まったように両手を天へ掲げる。
「帝国は出ていけ! ここは我らの土地だ!」
兵士たちはざわめき、剣を抜こうとする。だが、その刃を握る手は、ルミナの放つ威圧の前に震えていた。リナリアは、その背に躊躇いなく飛び乗った。
「証拠はこれで満足かしら?」
風が吹き荒れる。ユーリウスが眉をひそめ、口を開こうとした瞬間――
ルミナの巨大な翼が、はためいた。圧倒的な風圧が周囲を吹き飛ばし、帝国の兵士たちはよろめきながら手をかざす。砂埃が舞い上がり、目を覆う者たちの間を、ルミナが駆け上がる。
「さようなら、ユーリウス書記官」
リナリアの冷ややかな声が、空へと響いた。ルミナは大空へと舞い上がる。その軌跡を、村人たちは歓喜の声を上げながら見上げた。神殿の鐘が高らかに鳴り響き、帝国の兵士たちの怒声が掻き消されていく。リナリアとルミナは、光の中へと消えていった。




