第十九話 異邦の対話
神殿の奥へと続く石畳の廊下には、厳かな静寂が満ちていた。燭台の炎が揺らぎ、壁に刻まれた精霊の紋様がわずかに影を落とす。リナリアは老司祭に導かれ、奥の部屋へと足を踏み入れた。部屋の中では、既に激しい口論が交わされていた。
「帝国の力を軽んじるな! 奴らは剣だけでなく、知恵と金でこの地を飲み込もうとしている!」
「ならば、我らの信仰を捨てよと? 我々は、古の教えを守り続けてきた。この土地の人々が、どれほど長くエルフの加護のもとで生きてきたと思うのだ?」
「過去の誇りだけでは、生きてはいけない!」
声を荒らげるのは若い男。背筋を張り、拳を握りしめ、村長と向き合っている。対する村長は深い皺を刻んだ顔を険しくし、しかしその目には揺るぎない意志が宿っていた。リナリアは静かにその場に目を向ける。村の長と、これからの世代を担う者。どちらもこの土地を守るために、最も大切なものを手放すことができないのだろう。
「リナリア様……」
老司祭が彼女を促すと、村長と若者の視線が一斉にこちらへと向いた。室内にいる信徒たちは、誰もが深く頭を垂れ、軽々しく声をかけることをためらっている。彼らにとって、リナリアは畏敬すべき存在。フェレリエルとともにある少女。しかし、実際に目にした者は少なく、彼女がどのような存在なのか確信を持つ者はいなかった。
リナリアは静かに歩みを進め、中央の座へと腰を下ろす。ルミナは彼女の傍らに立ち、その異彩を放つ姿で周囲を圧していた。エルフとも獣人ともつかない。白く滑らかな肌、長くしなやかな耳、まるで神話の中から抜け出たような存在感。信徒たちは彼女に対してすら、視線を向けることを躊躇していた。若者が息をつき、苦々しげに口を開いた。
「リナリア様……あなたは、帝国の圧力がどれほどのものか、ご存じでしょうか?」
「この町にはまだ影響は少ない。だが、交易路を通じてすでに帝国の文化が流れ込んでいる」
若者は焦燥をにじませながら言った。
「帝国の商人たちは巧みに物を流通させ、安価で質のいい布や穀物を市場に持ち込んでいます。村の者たちはそれを買わずにはいられません。しかし、その裏で何が起こっているか……」
村長が重く口を開いた。
「彼らは取引と引き換えに、我々の信仰を変えようとしているのだ。我々の神ではなく、帝国の唯一神を信じるようにと」
「ただの商売ではない。帝国は、経済力を使って人々の心を塗り替えようとしている」
リナリアは黙って彼らの言葉を聞いていた。交易と経済を使い、人の意識を徐々に変えていく。信仰を直接奪うのではなく、豊かさという名の安寧を与え、信じるべきものを別のものへと置き換える。それは剣や力ではなく、もっと静かで、しかし確実な手段。彼女は静かに口を開いた。
「それが事実なら、あなたたちはどうするつもりなの?」
若者が息を呑み、口を閉ざした。その場の空気が張り詰める。
「……リナリア様に無礼を働くな」
老司祭が低く嗜めるように言った。そのとき、部屋の扉が開かれた。
「失礼します」
冷静な声が響いた。場にいた者が振り向くと、一人の男がゆっくりと歩みを進めていた。帝国の装束を身にまとい、神聖国セントリスの紋章が刺繍された白い長衣を羽織っている。その後ろには、甲冑をまとった警護の兵が二人。案内役の男が慌てて前に出る。
「お待ちください。このような場へ勝手にお入りいただいては困ります!」
「それは失礼。ですが、私はただお話を聞きにきただけです」
書記官は穏やかな微笑を浮かべ、軽く会釈をした。
「私はローゼン帝国の書記官、ユーリウス・エドヴァルド。貴殿方の信仰について、少しばかりお話を伺いたいと思いまして」
リナリアは彼の目を見据えた。書記官はゆっくりと歩を進め、彼女の前に立つ。そして、値踏みするような視線を向けながら、僅かに首を傾げた。
「なるほど……確かに、特別な方のようですね。しかし……」
彼は僅かに笑みを深め、軽く肩をすくめる。
「あなたはただの少女に見えます。耳も、いたって普通ではありませんか?」
その言葉が落ちるや否や、室内の空気が張り詰めた。信徒たちは息を呑み、次の瞬間にはざわめきが広がる。リナリアを敬う者たちの間に怒りの感情が燃え上がり、数人の男たちが立ち上がった。
「無礼だ!」
「リナリア様に向かって、そのような言葉を……!」
彼らが詰め寄ろうとすると、帝国の警護の兵が前に出た。鎧がかすかに鳴り、剣の柄に手がかかる。鋭い視線が信徒たちを射抜き、一瞬で場の緊張が極限まで高まった。
「これ以上、無闇に近づくな」
冷たい声が響く。信徒たちは押し黙りながらも、なおも書記官を睨みつけていた。部屋全体が騒然とし、老司祭が一歩前に出る。
「お待ちなさい。この神殿で争いを起こすつもりか」
その言葉に、信徒たちは歯を食いしばりながらも動きを止めた。リナリアは微かに息を吸った。この場をどう収めるべきか――そして静かに書記官を見つめた。
「……敬われているのですね」
書記官はまるで面白がるように呟き、わずかに口元を歪めた。そして、ふと視線を横へと逸らし、ルミナを見やる。彼女の異質な姿。エルフとも獣人ともつかない、滑らかな白い肌と長い耳、どこか人ならざる空気を纏う存在。書記官の目の奥に、一瞬だけ迷いの影が差した。だが、彼はそれを振り払い、再びリナリアへ向き直る。
「それに、エルフの神が実在する証拠を、私はまだ何も見ていません」
室内に、張り詰めた沈黙が満ちる。信徒たちはリナリアを見つめる。村長も、若者も、神官たちも。その中で、リナリアとルミナだけがまっすぐ書記官を見据えていた。




