第十八話 星霧の森より降りし者
馬車が町へと入ると、雑踏の中に溶け込んでいく。交易の要所として栄えるこの町には、多くの旅人や商人が集まり、行き交う声が絶えなかった。露店の軒先では果実や香辛料、毛織物が並び、値段をめぐるやり取りが飛び交っている。荷を積んだ荷車が石畳を軋ませ、旅支度を整える者たちが忙しそうに駆け回っていた。
広場の片隅では、ローゼン帝国の装束を身にまとった書記官と、その案内を務める男が話を交わしていた。書記官は白い長衣をまとい、胸元には神聖国セントリスの紋章が刺繍されている。案内人は町の役人らしく、落ち着いた声で彼に耳打ちした。
「御者台に座っているお方は、星霧の森の神殿より来られた信徒です」
「星霧の森の神殿……?」
書記官は軽く眉を寄せた。帝国の版図が広がる中でも、その名はなお残っていた。かつてはエルフたちの隠れ里と呼ばれ、今も独自の信仰を守り続ける地である。
「かなりの位の高い方のようです。直々に御者台にいらっしゃるということは、後ろに乗っている者はただの巡礼者ではありますまい。おそらく星霧の森の住人かと」
書記官の視線が、馬車の横を歩く一頭の獣へと向かった。白く、わずかに赤みがかった毛並みが光を帯びるように輝き、歩くたびにその肢体がしなやかに揺れる。鹿にも似た優雅な肢体、オオカミのような精悍な面差し、そして兎を思わせる長い耳。神話の中から抜け出たかのような気高さを纏い、その存在自体がただならぬものだった。
人々はその姿を目にすると、息を呑み、そっと道を譲る。誰もが声を上げることなく、ただその神秘的な光景を見つめていた。
町の長い参道の奥に、大きな神殿が構えていた。木と石を組み合わせた堅牢な建築で、かつてエルフたちがこの地を訪れていた名残を感じさせる。入り口には精霊の紋様が彫られ、神職たちが慌ただしく参拝者を迎え入れている。
「ここで降ろします」
御者の男が手綱を引くと、馬車は静かに止まった。リナリアが降り立つと、すぐに神殿の神官が近寄り、恭しく頭を下げる。
「お待ちしておりました。どうぞ、お入りください」
リナリアは頷き、神殿の階段を上り始めた。ルミナはその隣に寄り添い、変わらず四つ足の神獣の姿を保っている。
周囲の神官たちは静かに後を追った。人々は階段下で見守りながら、星霧の森の者が訪れることに驚きと畏敬の念を抱いていた。今となっては非常に珍しいことであった。かつてはエルフたちが旅をすることも珍しくなかったが、時代が移り変わるにつれ、彼らの姿を見ることはなくなった。
神殿の扉の前に辿り着くと、リナリアは一歩足を止める。そのとき、ルミナの姿が変化した。空気が揺らめき、光が舞うようにその体を包み込む。長い毛並みがすっと縮まり、しなやかな四肢が細くなっていく。長かった耳は肩ほどの長さにまでまとまり、背中には滑らかな絹のような髪が流れた。
そこに立っていたのは、一人の女性。神殿の神官たちはその光景を目の当たりにし、驚愕に言葉を失った。これまで伝承として語られてきた神獣の変容。その奇跡が、今、目の前で起きていた。参拝に訪れていた者たちの間から、低く祈りの声が上がる。膝を折り、手を組み、静かに頭を垂れる者もいた。神殿の奥へと続く道が開かれ、まるで彼女たちを迎え入れるかのようだった。
ルミナは何事もなかったかのように、リナリアのそばに並び、その瞳を静かに向ける。リナリアは彼女の手を取り、ゆっくりと神殿の扉を開いた。
神殿の内部は外の喧騒とは異なり、厳かな静寂が支配していた。天井は高く、木の梁には古い刻印が施されている。壁には森の神々を描いた壁画があり、ろうそくの灯りがその表面を柔らかく照らしていた。奥では何人かの若者たちが集まり、司祭や神官たちと向き合っていた。誰もが険しい表情をしている。言葉を交わす者もいれば、黙ったまま手を握り締めている者もいる。
「おぉ。これはリナリア様、お久しゅうにございます」
一人の老司祭が近づき、深く頭を下げた。
「今、この地では信仰の在り方をめぐり、多くの者が悩んでおります。どうか、お耳をお貸しください」
リナリアは神殿の中央へと足を進める。ルミナは彼女のそばに静かに並び、何も言わずにその様子を見守っていた。人々が集い、信仰の未来をめぐる議論が始まろうとしていた。