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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第一章 銀樹の聖域の少女
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第十六話 暁の村に降る記憶

 東の空がゆっくりと白み始め、夜の冷たい気配を押し流していく。村の屋根から立ち昇る白い煙が、朝の炊事の始まりを告げ、家々の扉がゆっくりと開かれていく。鶏の鳴き声が響き、まだしっとりとした土の香りが漂う静かな朝。

 リナリアは村の神殿を出て、そっと足元の土を踏んだ。まだ人影の少ない村を歩き出す前に、深く息を吸い込む。冷えた空気が喉を通り、身体(からだ)の内側をゆっくりと満たしていく感覚が心地よかった。

 彼女の隣には、一頭の神獣(しんじゅう)が静かに立っていた。四つ足のしなやかな肢体は、どこか鹿のようでありながら、狼のような精悍さを持ち、ふわりと風をはらむ豊かな毛並みが背を覆っている。しなやかな肢体に対して、耳だけは長く、兎のように繊細に揺れ、時折風の流れを感じ取るように動いていた。その背には旅の荷が括られ、まるで長い旅を見越してすべてを背負ってきたかのような静かな佇まいだった。それが、ルミナ。リナリアの傍らにいる魔法生物。この姿なら旅を続けやすい。それでも、出会う者は足を止めずにはいられない。


「行きましょうか」


 リナリアは小さく呟く。彼女の声に応えるように、ルミナは耳をぴくりと動かし、歩みを合わせるように一歩を踏み出した。

 村の通りには、徐々に人々の姿が増えてきた。家々の扉が開き、女たちが水瓶を抱えて井戸へと向かう。石畳に響く足音、穏やかに交わされる朝の挨拶、家の前で薪を割る男たちの力強い音――すべてが、いつもの朝の光景。リナリアは、長い年月を経ても変わらないその様子に安堵しながら、静かに通りを歩いた。自ら人目を引こうとはしなかったが、村人の一部は彼女を見て目を見開く者もいた。


「あの……リナリア様……?」


 ふと、背後から声がした。振り返ると、そこにいたのは四十代ほどの女性。栗色の髪をきちんと編み込み、質素ながら清潔な衣を身にまとっている。彼女は一歩踏み出しながら、まじまじとリナリアを見つめていた。


「あなたは……フェレリエル様と共にいらした……? でも、まさか……」


 リナリアは相手をじっと見つめた。彼女の顔には、かすかに見覚えがある。数か月前、この村で遊んだ記憶が微かに蘇る。


「……エルナ?」


 そう口にした瞬間、女性の目が大きく見開かれた。そして、彼女の瞳が潤み、そっと胸に手を当てる。


「覚えて……いらっしゃるのですね」


 エルナ。確か、フェレリエルが名を与えた子どもの一人だったはず。彼女が幼い頃、一緒に遊んだ記憶がある。だが、リナリアの中ではそれがつい数ヶ月前のことなのに、目の前のエルナはすでに母親となり、すっかり大人の女性になっていた。


「二十年ぶり……になるのですね」


 エルナはそう言うと、微笑んだ。その顔には、幼い頃の面影がまだ色濃く残っている。


「村の者は、(みんな)精霊の加護を受けています。……いまもこうして生活できているのもリナリア様のおかげです」


「私は何もしていないわ。フェレリエルがしていることよ。でもみんな元気そうで安心した」


 リナリアは苦笑しながら、そっとブレスレットに触れた。時間の流れの違い。彼女が二十年ぶりに降りてきたという事実は、彼女にとってはあまりに短いもの。


「そういえば、帝国の書記官が近くの村に来たそうですよ」


 エルナがふと、話の流れで口にした。


「帝国の?」


「ええ。直接この村にはまだ来ていませんが、近くの集落で帝国の法を説いていたと聞きました。……信仰の統一をするため、ですって」


 リナリアはそっと眉をひそめる。


「ここでは、エルフの神を信じている人々が多いでしょう?」


「ええ。でも……帝国の言う神聖術の教えも、少しずつ広がっているのです」


 エルナは、言葉を選びながら語る。


「……私の夫は、エルフの神を信じています。でも、弟は帝都で暮らしていて、神聖方式の結婚式を選びました。私には少し寂しく思えますが、彼にとっては必要なことだったのでしょう」


 リナリアは彼女の表情を見つめた。エルフの信仰を持ちながら、家族の中には帝国の信仰を持つ者もいる。そうした葛藤は、時代の流れにあらがえない誰もが抱えているものなのかもしれない。エルナは、彼女に小さな包みを手渡した。


「旅の道中、よろしければ持っていってください」


 リナリアは受け取ると、包みの中の干し肉と乾燥パンを確認した。彼女はそっと微笑み、深く頭を下げた。


「ありがとう」


「リナリア様が下りてこられたのは何かの兆しでしょうか?近頃不吉な噂も聞きます」


「……心配しないで。私の成人のための儀式みたいなものよ」


 リナリアは深く息を吐き、ルミナの背にそっと手を添える。そのぬくもりが、静かに彼女を支えた。神獣(しんじゅう)のようなその姿は、朝の光の中で、ひときわ幻想的に映っていた。ルミナはすべてを理解しているように、ゆっくりとリナリアの横に並ぶ。村の人々は、彼女が歩き出すのを、静かに見送っていた。


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