第十三話 束の間の楽園
温かいぬくもりが、リナリアの全身を包んでいた。 それはどこか懐かしく、胸の奥からじんわりと満たされるような感覚──。安心感に包まれながら、彼女は夢の中で微かに微笑んだ。まるで、幼い頃に母の腕の中で眠っていた時のような、穏やかな安心感。もぞもぞと身体を動かしながら、柔らかい何かに頬を寄せる。
「ママ……」
無意識のうちに、ぎゅっとそれを抱きしめた。温かくて、優しくて、手放したくない。そう思いながら、そのまままた深い眠りへと落ちていった。
「ん……?」
まぶたの裏に、ぼんやりと朝の光が差し込む。まだ夢の中にいるような感覚だったが、次第に現実が意識に染み込んでくる。
「うわぁぁっ!?」
突然、弾けるようなフェレリエルの叫び声が響き渡った。リナリアのまぶたが、はじかれるように開いた。少しずつ覚醒する意識の中で、彼女は自分の腕の中に何かを抱えていることに気がついた。
「え?」
目の前に、知らない少女がいた。細く長い睫毛が微かに震え、琥珀色の瞳がまっすぐに彼女を見つめている。艶のある髪が肩にかかり、裸の肌が朝の冷たい空気にひんやりと晒されていた。
「うわぁぁぁあっ!?」
リナリアの驚愕の叫びが、フェレリエルの声に重なった。反射的に飛び起き、後ずさる。だが、少女は布団の中で照れくさそうにリナリアを見つめたまま、静かに微笑んでいた。
「……ルミナ?」
リナリアは、はっと息を呑む。床に敷いた毛布の上には、昨夜眠ったはずのルミナの姿はない。けれど、この少女の瞳の色、白くしなやかな肌、その表情……。
「……うん、私はルミナ。」
そう言うと、彼女の姿がざわざわと揺れ始めた。ふわりと髪が宙に舞い、滑らかな肌の色が白い毛へと変わっていく。その動きは、まるで水の波紋のように滑らかで、あっという間に長い耳を持つ兎へと姿を変えていた。
「うわぁぁぁっ!? 兎になった!」
フェレリエルが再び絶叫し、思わず後ろへ転がる。リナリアは驚きよりも、ただただ感動していた。目を輝かせながらルミナをまじまじと見つめる。
「おおお……! すごぉ……!」
リナリアの目は、期待と興奮に満ちていた。一方で、フェレリエルは叫びながらも、すぐに現実的な行動に出る。混乱するよりも先に、まずは──。
「ちょ、ちょっと! とりあえず服! 服を着なさい!」
そう言うやいなや、フェレリエルはクローゼットに駆け込むと、ヒョイヒョイと下着や服を取り出し、リナリアたちに投げつける。
「はいっ、これ! こっちも! もういいから早く着て!」
ルミナの小さな兎の体が、ふわりと空気に溶けるように揺れた。白い毛並みがさらさらと剥がれるように消え、代わりに滑らかな肌が露わになる。長かった耳は徐々に縮み、細い四肢が伸び、再び人間の少女へと変化した。
リナリアは、半ば呆然としながらも、ただ目の前の変化を見つめていた。ルミナは再び少女の姿になり、戸惑うことなく、すんなりと座り込んでいる。彼女にとっては、これは当たり前のことなのかもしれない。
「……?」
ルミナは、フェレリエルから投げられたショーツを手に取り、興味深そうにじっと見つめた。
「ちょっ……とりあえず着なさいってば!」
フェレリエルが焦りながら叫ぶと、ルミナは無言のままショーツを手で広げ、じっくりと観察した。そのまま、リナリアの方を見る。
「えっと、こうやって履くんだよ?」
リナリアは戸惑いながらも、ルミナに手伝うように促した。少女のまっすぐな視線に、どこか愛らしさを感じながらも、改めて「人間の姿になれる」ことの不思議さに胸がざわめいた。
ルミナはリナリアの手をじっと見つめ、それからゆっくりと頷く。そして、フェレリエルから渡された服をぎこちない手つきで着始めた。
バタバタと服を着せ、なんとか整えてから、三人は食堂へと向かった。食卓には、エリオーネがすでに四人分の朝食を用意していた。こんがりと焼かれたパン、フレッシュな果物、ハーブ入りのスープが湯気を立てている。
「朝から騒がしいのね」
エリオーネはちらりと三人を見て、平然とした声で言った。彼女はいつものように、ゆったりとしたガウンを羽織っただけの姿で、相変わらずの自信に満ちた立ち振る舞いを見せていた。リナリアの後ろに隠れながら立つルミナ。彼女は、戸惑いながらもエリオーネをじっと見つめていた。
「ジャジャーン! 我が家に新しい家族が増えました!」
フェレリエルが大げさに手を広げて宣言する。リナリアは少し照れながらも、「朝起きたらルミナが女の子になってた」と説明し、そっとルミナの手を握り、前に引っ張る。エリオーネは、静かに席を立ち、ゆっくりとルミナに近づくと、軽く屈んで彼女の瞳を覗き込んだ。
「……安定しているようね」
そう呟くと、優しくルミナの頭を撫でた。
「さあ、朝ごはんを食べましょう」
そう言って、彼女の肩を押しながら、食卓へと案内する。ルミナは、食べ方をよく知らないらしく、スプーンをじっと見つめていた。リナリアは彼女の手を取って、ゆっくりと教えながら、一緒に朝食を食べる。
「こうやってスプーンを持って……スープをすくって……そう、口に運ぶの」
「ん……」
ルミナは慎重にスプーンを口に運び、そっとスープを飲み込んだ。次の瞬間、ぱっと顔が明るくなる。
「おいしい」
ルミナはスプーンをぎこちなく握りしめ、一口ずつゆっくりと朝食を口に運ぶ。その様子を、フェレリエルがじっと眺めていた。
「ふふ、そりゃあエリオーネの料理は美味しいわよ」
そう言いながら、フェレリエルは湯気の立つスープをすくい、満足げに目を細める。そして、ルミナの方をちらりと見て、「あ、そうそう」と思い出したように付け加えた。
「エリオーネっていうのは、このふわふわ輝くお姉さんのことよ」
ルミナは首を傾げながら、ゆっくりとエリオーネの方を見やった。彼女の周囲には、ふわふわと小さな光が舞っている。
「でしょ? ほら、エリオーネって、何か妖精とか精霊とかにモテるタイプじゃない? なんでか分かんないけど、いつもふわふわしたのが寄ってくるのよね」
「あなたもよ」
エリオーネが指を差すと、ルミナの肩のあたりにも、小さな妖精たちが舞い降りていた。
「えっ、ほんと?」
ルミナは肩を見下ろし、妖精たちが優しく寄り添っているのをまじまじと見つめる。そして、そっと指先を伸ばし、微かな光の感触を確かめた。
「……あったかい」
彼女の小さな呟きに、リナリアとフェレリエルは顔を見合わせた。
「つまり、ルミナもふわふわチームね!」
フェレリエルが自信満々に頷く。
「ふわふわチーム?」
ルミナがきょとんとした顔で問いかけると、フェレリエルはさらに得意げに説明した。
「そうよ! エリオーネもふわふわ、ルミナもふわふわ。でも、私はさらさらチームだからね!」
「さらさら……?」
リナリアがスープを飲みながら小さくぼやくと、フェレリエルは胸を張って言った。
「風のように流れ、木々と語らい、大地に馴染む精霊魔法。それがさらさら派閥の生き方よ!」
「……はあ」
リナリアはなんとも言えない顔で相槌を打ったが、フェレリエルは得意げに続ける。
「エリオーネやルミナは精霊たちに愛されるふわふわの魔法使い。優しく包み込み、輝きをまとって、妖精たちを呼ぶタイプね。でも私たちエルフのドルイドは違う。風と流れ、大地の息吹と共に生きる……それが、さらさらなのよ!」
「じゃあ……私は?」
リナリアが問いかけると、フェレリエルは少し考え込んでから、ぴんと指を立てた。
「あなたはね……ざわざわチーム!」
「……ざわざわ?」
リナリアはスープの中にスプーンを沈めたまま、眉をひそめる。
「そう、夜の森、揺れる草葉、静寂の中で響く鼓動。あなたの魔法は、まるで闇の中で囁くざわざわなのよ!」
「……何それ」
リナリアは思わず小さく吹き出したが、フェレリエルは満足げに頷く。
「ふわふわは優しく包み込み、さらさらは自然に溶け込む。そしてざわざわは、影とともに流れる。ほら、完璧なバランスじゃない?」
「どこが?」
リナリアが呆れたように言うと、フェレリエルは笑いながらスープを飲み干した。エリオーネはそんな二人のやり取りを静かに聞きながら、ふっと微笑む。
「うーん……?」
ルミナはよく分からないという顔をしながら、スープをもう一口飲んだ。
「……大家族になってきたわね」
エリオーネのその言葉は、どこか遠くを見つめるような響きを持っていた。リナリアの旅立ちが近づいていることを、エリオーネは分かっていた。この賑やかな朝は、永遠には続かない。けれど、それでも——今はただ、この瞬間を味わうように、静かに微笑んでいた。




