第十二話 眠りにつく者、目覚める者
ルミナは、まるで生まれたばかりの子獣のように、ぐったりと地に伏した。大きな耳がだらりと垂れ、柔らかな毛並みが篝火の灯りに揺れる。リナリアの足元に寄り添うようにして、かすかに息を吐いた。体を起こそうとしているのか、それともただ疲れきって動く気力がないのか、前足をもぞりと動かした後、力なく伏せる。リナリアはそっとその頭を撫でた。
「疲れたでしょう。ゆっくり休もうね」
指先がルミナの温かな毛並みをすべる。ルミナは目を細め、小さく喉を鳴らすように息を漏らした。
「エリオーネ、いいよね?」
リナリアは顔を上げる。
「あなたたちも疲れたでしょう。お風呂を沸かしてあるから、順番に入って休みなさい」
エリオーネは静かに微笑み優しく告げた。儀式に込めた魔力がまだ空気に残っているのか、エリオーネの声にはどこか柔らかな響きがあった。フェレリエルもそっとルミナのそばに膝をつく。警戒しているのか、それともただのんびりしているのか、ルミナは微かに首を動かすだけ。フェレリエルはゆっくりと手を伸ばし、首元を軽く撫でる。
「ねえ、あなたも今日からここにいるのよ。よろしくね」
ルミナは一瞬だけ目を開き、琥珀色の瞳でフェレリエルを見つめた。その瞳の奥に宿る光は、ただの動物のものとは違う。理解しているような、もしくは何かを見通しているような、そんな深い眼差し。けれど次の瞬間にはまた眠気に襲われたように目を閉じ、鼻先をリナリアの足元に押しつけた。
「うん、おやすみ」
リナリアは小さく呟く。
「さあ、行きなさい」
エリオーネは静かに頷き促した。リナリアとフェレリエルは、ルミナを抱きかかえるようにして、家の中へと戻っていった。二人の部屋の隅、床に敷かれた毛布の上に、ルミナは横たわった。リナリアがそっと毛布をかけると、ルミナは小さく鼻をひくつかせ、すぐに深い眠りへと落ちていった。
「よっぽど疲れたのね」
フェレリエルが囁く。リナリアは頷くと、ルミナを起こさないようにそっと部屋の扉を閉じた。二人とも、心地よい疲労に体が重い。風呂に入る順番を決めるのも、待つのも、どちらが先に入るか考えることすら億劫。
「一緒に入っちゃおうか」
フェレリエルが言った。
「うん」
当たり前のように、二人は浴室へ向かう。リナリアが幼い頃から、二人はよくこうして一緒に風呂に入っていた。今さら恥じらいなどない。ただ、湯に浸かって、温かさに包まれたかった。
湯気が立ちこめる浴室で、二人は肩を並べるようにして湯に沈んだ。肌にじんわりと温もりがしみ込んでいく。今日一日、身体にまとわりついていた魔力の余韻や、緊張がほぐれていく。フェレリエルがぽつりと呟いた。
「私の力じゃ、きっとあんなふうにはならなかったんだろうな」
フェレリエルがぽつりと呟いた。リナリアはぼんやりと湯を見つめながら、力なく首を傾げる。
「……なんで?」
「だって、あんなかわいい生き物のお母さんになりたかったもん」
リナリアは少しだけ笑った。けれど、疲れのせいか言葉は続かず、ただ静かに頷く。
「あなたはやっぱり特別よ」
フェレリエルは肩まで湯に沈めながら、ふっと湯気を仰いだ。
「あの黒い手……きっと死の精霊よね。雪の中でも、手を見てたんでしょ?」
リナリアはゆっくりと目を閉じる。記憶の奥で、雪の中に見えた黒い影のことを思い出す。あれは何だったのだろう。ただの幻ではない。確かに、ずっとあの手は彼女を見つめていた。
「死の精霊って、生も司る精霊なのかもしれないわね」
フェレリエルの声が、静かに湯の表面を撫でるように響いた。
「……生を?」
リナリアは微かに首を傾げる。
「だって、あなたはあの黒い手とともにルミナを生み出したんでしょ?死があるからこそ、生が生まれる。死と生は、きっと同じものの裏表なのよ」
リナリアはしばらく黙っていた。水の波紋が、湯の表面に広がる。その揺らぎを見つめながら、ぽつりと返した。
「……そうなのかな」
フェレリエルは微笑んだ。
「まあ、今はそんなこと考えなくてもいいか。今日はもう、疲れたもんね」
二人は深く息を吐き、しばらく湯に体を預けた。風呂から上がり、湯気の名残をまといながら、二人は部屋へ戻る。ルミナは、毛布の上ですやすやと眠っていた。穏やかな寝息が、夜の静けさに溶け込む。リナリアはそっとその頭を撫で、目を閉じた。
「今日は、なんだか長い一日だったね」
フェレリエルが呟く。リナリアは、目を閉じたまま、小さく「うん」と答えた。夜の闇が、静かに彼女たちを包み込む。篝火の光も消え、家の中は穏やかな暗闇に満ちていた。遠くで風が木々を揺らす音がする。静寂の中、リナリアとフェレリエルは、それぞれの布団に身を沈めた。ルミナは微かに耳を揺らし、鼻をひくつかせる。
——まるで、安心したように。
リナリアはその気配を感じながら、ゆっくりとまぶたを閉じた。こうして、一日が終わる。けれど、これは終わりではない。新しい命が生まれたその夜は、何かの始まりの夜でもあった。静寂の中、彼女たちは、温かな夢の中へと沈んでいった。