第百十二話 巡灯
雲頂の画室──雲より高い薄日が斜めに差し込み、絹の光が床を漂う。
フェリオラはひと呼吸おき、薄桃の絵具を細筆へ吸わせた。キャンバス中央ではリナリアとルミナが肩を寄せ合う。春に並び咲く双花のように、鼓動まで同じ間隔で揺れている。
リナリアは凍結前と変わらぬ十八歳の輪郭。灰紫の瞳に宿る硝子の光は、七百年の空白を感じさせない。隣で雪兎の耳を揺らすルミナは純白のまま――魔法生物ゆえに老いを持たない。だが耳朶の根に淡い灰が差し、そこに長い年月がわずかに刻まれていた。
背景には深い森の緑を敷き、上に淡い拡散光を重ねる。七世紀ものあいだ寝息を潜めた森が、キャンバスの上だけは芽吹きを取り戻す。リナリアの髪を薄紅で一本ずつ起こし、仕上げに真珠粉を溶かした光を滑らせる。
ルミナの耳の産毛を極細筆で追い、花冠の花弁を散らす。二人の指先が触れ合う位置だけ、絵布の地を透かして空白を残す。帰還の扉は常に開いている、という暗示だ。
最後に余白へ金泥の一筆。《Feriola・Rinaria》──ふたりのあいだに引く、帰路のひかり。
筆を置いた瞬間、塔の古鐘が一度だけ鳴り、薄い音が画室を満たした。
「完成?」
リナリアが囁く。
「ええ。題は『巡灯』。迷ったら、いつでも帰ってこられる灯り──という意味」
「母上──ただいま」
フェリオラは筆を置いた手で娘の頬を包み、
「おかえり……そして」
ふたりは同時に息を吸い、
「行ってきます」と声を重ねた。
窓外ではミルゼンの塔に掲げた新しい旗が、黎明の風で大きく返る。物語はいったん閉じ、それでも灯りだけが次の旅人を待ちながら──燃え続けた。
エピローグ
春の終鐘が鳴り終わるころ、帝都エルゼグラードの大図書館はようやく静寂を取り戻す。天窓から淡い金色が射し込む最奥の回廊――そこには「閲覧不可・要整理」と札の付いた木箱が幾段も積まれている。
若い司書イレーヌは、箱の上段で埃を被っていた一冊をそっと抜き取った。濃紺の革表紙に、細い金の罫線。背表紙へは簡素に刻まれた題名だけ。
『Lethe』
―クラウス・ヴァルトシュタイン記―
「失礼、そちら――何の本です?」
棚を整理していた年嵩の司書ハロルドが振り向く。イレーヌは指先で革表紙をなぞりながら小さく笑った。
「忘却の川を渡った話、らしいわ。目録に載っていないけれど、呼ばれた気がして」
ハロルドの眉がわずかに上がる。
――ヴァルトシュタイン。その氏に覚えはあった。
四百年前、死者の国を巡る記録集を寄贈した家系だという。
「淀み棚に置くには少し惜しいかもしれませんね」
「ええ、だから貸出番号を取って来ます。灯台 の話なら、夜の閲覧室に相応しいでしょう?」
イレーヌはそっと本を胸に抱え、回廊を後ろへと下った。彼女の足音が消えかけたとき、箱の隙間から微かな風が吹き抜け、革表紙の金罫が一瞬だけ柔らかく揺らいだ――まるで、遙かな塔で掲げられた帰還の灯が、遠い読者へ合図を送るかのように。
— 完 —




