第百十話 帰省
七百三十六年と十一か月十五日。
ただの数字だ、けれどその粒を並べれば──帝国の王冠は二十九の額を渡り、そのたび首都の鐘楼が「今日から暦を数え直せ」と夜通し打ち鳴らされた。隣家の子の名も、雨戸に墨で書き換えられた回数がもう思い出せないほどになった。
北海が三度うなり、その二度目には岸が逆立ち、潮が山より高い壁になって十年かけてやっと息を吐いた。海図描きの老爺は、半生かけた地図を暖炉に放り込んで泣いたという。
二百四十年に一度しか来ないと習った、蒼い尾星、バル・セルダルを、わたしの瞳は三度掬った。一本の彗星が空に傷を刻むたび、わたしは「まだ書き終わらない」と筆を取り直した。尾は年々か細く、それでも空を引き裂く青い傷跡だけは変わらなかった。瘴霧は二度、二度目には月が半年も翡翠色に腐り、子らは季節を取り違えた。
その合間わたしは、竜の亡き骸に心臓を挿し戻し、嵐に沈む港を二度起こし、何より「凍らない言葉」を探していた。
理由は単純、けれど残酷。逆位相鎖は「鎖を打つ者が凍結より速く詠唱を終える」ことを大前提に組まれている。爆心では一音を発する前に舌が鉛と化し、魔力が固形化する。肉体が言語を失うのだ。
初めてこの門に触れた時、一句も発せず引き返した。――鎖を打つには声では遅い。肉体を語り手から外し、魂そのものを本に閉じ込めて持ちこむしかない、と悟った。
──魂が言葉を生むなら、逆流も可能だ。
ここまで七世紀、わたしは旅の半分を書くために費やした。最初の三百年で吐き捨てた草稿は優に三億字──大陸を横切る紙の川になり、竜骨で綴じてもなお余った。けれど護衣に仕立てるには純度が要る。四百年目からは削る作業だ。生誕の産声、銀樹の花粉の匂い、ノクティスの声色、五番目が脈打った夜の湿度。残すべき一行を選ぶたび、千行を火に投げた。
最終稿は七千三百万字──三億の奔流を蒸留し、濃度だけを残した雫。巻物を束ねれば塔の頂まで届き、重さで図書館一棟を傾ける。それらを符へ折り畳み、胸骨の裏へ縫い込んだ。名前を呼び続ける護衣は、わたしが七百年かけて「ただいま」の四文字を凍らせないための、防寒着だ。
仕組みは単純――凍結波が触れると、護衣が即座に自動で最初の一節を読み上げる。そこには『わたしはフェリオラ・ウィンスレット。今まさに〇年〇月〇日の朝、娘を迎えにゆく途上にある』という現在形の自己紹介が刻まれている。
その紹介を「文字そのもの」で読み返すことで、氷の波の周波数を上書きし、「わたし」の定義を瞬間ごと更新し続ける。他人に呼ばれ続ける限り、人は忘れられない。ならば――わたしがわたし自身を無限に呼びつづければいい。それが「綴詞の護衣」――声にならぬ声で纏う自己紹介の防寒着だ。
森の終端で待機線を敷き、ドラゴンの屍騎と従僕を残してきた。足を踏み出せば空気が結晶化し、音色はすべて半音落ちる。起伏の少ない丘を昇るごと、靴裏で粉硝子が軋む。
わたしの表皮は凍結波を受け止め、即座に符へ転写し、再帰的に朗読して放流する――そのはずだった。それでも指の節が軋むたび、七世紀分の遅延が肺に棲む恐怖を啜り上げる。
「リナリアは十八のまま待つ」
塔でルミナにそう告げられた瞬間、時間という刃の重さを悟った。故に、遅れは怠慢であってはならない。
ウィンスレット邸の外壁は、灰でも霜でもない──数式の殻だ。一千年前、わたしが五番目へ、「別れのない世界」と祈った結果がこれだ。門柱に触れる。霜が瞬時に殻へ結晶するが、符が読み上げて弾き返す。前回ここで、右腕を肘まで失った。今日は失わない。倒れた扉。蝶番に焼き付いた魂晶の灼痕。リナリアが残した時刻表だ。
世界は水底。音も色も後退し、視界が霊圧の濃淡だけになる。階段の起点で、デルフィーネが静止していた。ランタンを掲げた姿勢のまま、骸指の間に炎が薄青く貼り付いて動かない。七百年──わたしは幾度ここにきてはデルフィーネと会話する。氷膜越しに残留思念を読む。
「お嬢様を……危険域……」
わたしの遅延も恐怖も、すべて映らない忠義。胸が軋む。デルフィーネの肩へ触れ、慎ましい労いを胸中で告げる。「あと少しで戻る」。もちろん声にならない。廊下の霊圧は限界域。護衣は名前を呼ぶ速度で氷を砕く。語られる「わたし」は、やがて早回しの祈祷へ変わる。綴詞の護衣・最終節――
「わたしは娘の名を呼ぶ。その瞬間、時間は返礼として動き出す」
朗読が行き着いた地点で、要石が灯った。銀面に浮かぶ鎖図。その先端は儀式の間、静止したノクティスとリナリアを正確に指す。靴底が床に貼り付き、剥がれるたび霊圧が悲鳴を上げる。硬化限界まで残り二十七拍。鎖を打つには二十拍。ぎりぎり間に合う。
魂晶を壁に追加で三粒。灯が揺らぎ、通路が狭まった錯覚を生む。綴詞の護衣が硬化波を読み取り、返声を重ね、わたしの骨を時間の外へ吊り下げる。視界は無彩色。ノクティスの外套が灰へ沈み、リナリアの睫毛に霜が咲いているのが透けて見える。扉に拳を当てた。
「ただいま。手紙、全部読んだわ」
声帯は凍り、言葉は空気に出ない。それでも綴詞の護衣が代わりに語り、文字が光粒となって扉を叩く。開かれた瞬間、凍結波が奔流となって襲いかかる。世界が硝子へ砕ける。わたしは要石を胸へ埋め、鎖図の中心を握りしめた。読み上げが最終行へ辿り着く。
「わたしは、わたしたちの時間を返す」
視界の端で床が崩れ、代わりに筆跡が湧いた。壁も天井も、すべてが『フェリオラ』という綴りで再構築されていく。わたしの物語が、世界より濃くなる瞬間。氷で閉ざされた玄関に、淡く白い音が灯った。次に足を踏み出すとき、扉の内側で凍った時間が、迎えの息を吸い込むはずだ。




