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第十一話 闇の誕生、光の呼び声

 夜の帳が静かに森を包み込んでいた。空には深い群青が広がり、星の光が(まばた)きながら夜の静寂を見下ろしている。篝火の灯りがちらちらと揺れ、風に乗った火の粉が暗闇の中で淡く舞い上がっては消えていった。空気はひんやりとしていたが、焚かれた炎の温もりが微かに頬を撫でる。しかし、それでもリナリアの背筋には、じんわりと冷たいものが這い上がっていくのを感じた。

 目の前にある二つの祭壇は、白木の板で組まれた簡素なものだったが、篝火の明かりを受けて金色の輝きをまとい、どこか神聖な気配を漂わせていた。

 エリオーネは静かに目を閉じ、ゆっくりと手を掲げる。彼女の長い銀白の髪が風に揺れ、炎の揺らめきに溶け込むように淡く輝いていた。その姿は、精霊たちの祝福を受けた女神のようで——けれど、その表情にはどこか険しさがあった。


「燃え盛る業火よ、命を喰らい、命を生む火の精霊よ。

 揺るぎなき大地よ、時を刻み、命を支える土の精霊よ。

 尽きることなき流れよ、すべてを清め、すべてを繋ぐ水の精霊よ。

 見えざる息吹よ、囁きを運び、生命を紡ぐ風の精霊よ。

 (せい)と死の境に立ち、その理を紡ぎ、新たなる命を呼び起こさん……」


 その声が空気を震わせる。篝火が大きく揺らぎ、祭壇の周囲に幻想的な光が漂い始めた。青は水、赤は火、緑は風、黄は土。光の粒が旋回しながら四つの属性の力を描き出し、神聖な気配をまといながら祭壇を包み込んでいく。リナリアとフェレリエルはそれぞれの祭壇の前に立ち、自分たちが選び抜いた素材をじっと見つめていた。

 フェレリエルの祭壇はすぐに変化を見せた。青緑の苔に覆われた石がほのかに光を放ち、野花の束が風に揺れる。小さな精霊たちがどこからともなく集まり、祭壇の周囲を飛び回り始めた。風の精霊が花弁の隙間をくぐり、水の精霊が雫を落とし、土の精霊が地を震わせる。それはまるで、生命の鼓動を感じ取るかのような、美しい光景。フェレリエルはそっと息を吸い込み、ゆっくりと手を伸ばす。すると、さらに多くの精霊が彼女に引き寄せられるように集まり、柔らかな光が広がっていった。


 ——だが、リナリアの祭壇には何も起こらなかった。


 手をかざしても、風が止み、森が息を潜めるだけ。精霊たちは、彼女の存在をまるで無視するかのように、誰ひとりとして彼女に近づこうとはしない。フェレリエルの周囲には楽しげに舞うのに、リナリアの前にはただ、冷たい影が横たわるばかり。リナリアは無意識に唇を噛んだ。


 ——私だけ、違う。


 しばらくして…影が、揺らいだ。森の空気が一変した。さっきまでの穏やかさが嘘のように消え、沈んだ静寂が辺りを支配する。ゆっくりと足元から黒い波紋が広がり、それはまるで生き物のように蠢きながら祭壇を包み込んでいった。

 何かがいる。確かに感じる。それは、目には見えないはずのもの。けれど確実に存在し、リナリアの魂の奥底にまで(はい)り込もうとしている。漆黒の石が、動いた。ぞわりと、肌を撫でる感覚に身震いする。石はじわりと形を変え、指のようなものが生まれた。黒く、不気味に長いそれは、ぎこちなく痙攣しながら、ゆっくりと伸びていく。それは——『手』。

 影の奥からゆっくりと伸び、痙攣しながらリナリアの腕に絡みついてくる。冷たい。まるで何かを探るように這い回るその指先に、思わず身体(からだ)が強張る。


 「……っ!」


 ずるり、と影が彼女の足元を這い上がる。飲み込まれる。闇の奥へと引きずり込まれそうになる。恐怖に駆られ、助けを求めるようにエリオーネを見た。

 彼女はただ一心不乱に儀式を続けていた。精霊の力が渦を巻き、微細な光の粒が舞い踊る。エリオーネの指がゆっくりと動き、閉じられた唇から紡がれる詠唱が空気を震わせる。彼女の周囲には、まるで別世界が広がっているかのよう。リナリアの状況に、気づいていない。


 ——いや、気づいているのに、止めるつもりがないのかもしれない。


 ずるずると沈み込む足元。広がる漆黒の波紋が、世界を暗闇へと染めていく。そして——。ピシーン……。鋭い音が響いた。祭壇に置かれていた黒い小瓶が、ひび割れた。リナリアの鼓動が跳ねる。黒くどろりとした液体が、小瓶の割れ目から零れ落ちる。ねっとりとしたそれは、ゆっくりと流れ出し、金色の羽を濁し、樹液の透明な輝きを奪っていった。篝火の灯りがゆらめく祭壇の上で、何かが生まれつつあった。


 ——どくん。


 祭壇の上で、何かが脈打つように震えた。まるで心臓の鼓動のような、湿った音が響く。血液と肉片が絡み合い、うごめく。それは静かに呼吸を始めるかのように、膨らんでは収縮し、ひとつの塊へと変質していった。


 ——どくん、どくん。


 影の中から伸びていた『手』が、小さく震えた。リナリアの腕をしっかりと掴んでいたはずの指先が、わずかに揺らぐ。それは、何かを恐れるような、迷うような、戸惑うような動き。彼女は、その変化に気づいた。


 「……ひとつになろ」


 リナリアは小さく囁く。


 ——私は、拒絶しない。


 影の世界から伸びてきた『手』は、どこにも行けなかったもの。ずっと、居場所を持たずに彷徨い続けていた存在。リナリアは、それを知っていた。だから、優しく包み込むように指を添え、まるで慰めるように手を握った。


 ——ここにいてもいい。


 その瞬間、『手』がビクリと震え、ぐにゃりと崩れるように溶けていく。そして——ずるり、と肉の塊の中へと引き込まれた。影が一瞬、弾けるように揺らいだ。かすかな囁きが耳の奥に響き、リナリアの周囲を流れていた冷たい空気が、わずかに和らいだ気がした。

 それと同時に——。どくん。どくん。血が沸き立つような音が、静寂の中に響いた。弾ける肉片、絡み合う筋繊維、剥き出しになった骨の上に肉が形を成し、ゆっくりと隆起していく。裂けた口が生まれ、そこに牙が生え、ぎょろついていた目が定まり、焦点を結び始める。ぴしっ——。

 乾いた音とともに、皮膚が(はじ)け、淡い赤みがかった毛が生え始めた。皮膚の裂け目から新たな毛並みが生まれ、それはみるみるうちにしなやかな毛皮へと変わっていく。闇から生まれながらも、ただの怪物ではなかった。生まれたての柔らかな毛並みは、光の下で艶やかに輝き、生命そのものの温もりを孕んでいる。

 やがて、『それ』は立ち上がった。篝火の光の中で、その姿が露わになる。鋭く引き締まった肢体。しなやかな筋肉に覆われたオオカミのような四肢。そして、兎のように長く、(うつく)しくも神秘的な耳。まるで異なる二つの存在が溶け合い、完璧な調和を持って生み出されたような、そんな姿。それは、生まれたばかりの命。それこそが——『ルミナ』。フェレリエルは、息を呑んだ。


 「リナリア、下がって!」


 とっさに彼女を庇おうと、腕を伸ばす。しかし、リナリアは柔らかく微笑み、首を振った。


 「その必要はないみたい」


 その声には、確信があった。フェレリエルの手をそっとほどき、リナリアは静かにそれへと歩み寄る。


 「ルミナ」


 自然と、その名が口から出た。ルミナはふわりと耳を揺らし、静かにリナリアを見つめた。漆黒の中に淡い光を宿した瞳は、鋭さと力を秘めながらも、どこか優しく、懐かしいものに似ていた。


 ——怖がっていない。


 ルミナは鼻をひくつかせ、リナリアの匂いを確かめるようにそっと顔を近づける。その仕草は、あまりにも自然で、まるで最初からここにいるべき存在だったかのように思えた。リナリアは迷わず、柔らかな毛並みに腕を回した。ふわりと広がる温もりが、肌にじんわりと染み渡っていく。

 生まれたばかりの命が、最初に触れたもの——それはリナリアの胸。彼女の心臓の鼓動と、ルミナの鼓動が静かに重なり、まるでずっと待っていたかのように、リナリアを包み込むように寄り添っていた。ルミナはリナリアの胸の中で、深く安らぐように、静かに息をした。


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