第百八話 影を抱く光
死者の国で、「朝」と胸の内でつぶやくのは、いったい何度目になるのだろう。
東方――まだ命の領域と呼べる大地から、乳白の薄光が靄ごと押し寄せ、ミルゼンの塔跡へ、そっと滲み込む。半壊した柱列は光をほとんど撥ね返さず、石そのものが夜に溶け残った影のように、硬化の膜をまとっていた。
かつてデーモン族が築き、古王朝が宮殿へと作り替え、さらにヴェルンハイム共和国が行政区画として増築。そして今、死の王ノクティスとその娘リナリアが仮の住まいと定めた遺構。それが薄明の気配に、ようやく起きねばと軋む音を立てていた。
風は海霧より重く、鉱石より冷たい。だが、その芯にかすかな死の精霊が零した残滓。青い脈が宿り、 凍土の底で眠る心音のように塔全体をわずかに揺らしている。帰ってこいと囁く誰かの呼気を孕みながら、朝はひそやかに輪郭を拡げていった。
リナリアは中庭の砂利敷きに旅装束を広げ、膝に載せた折りたたみ式の小さな精霊炉を点検していた。円形の炉壁には自ら刻んだ符文がほのかに浮かび、青い火の筋が縫い目のように走る。火花がひとしずく跳ねるたび、霧を帯びた灰紫色の瞳がかすかに震えた。
「パパ、予備の魂晶は?」
黒曜石の回廊を渡る足音。ノクティスが姿を現す。亡者の王たるはずの男は、今日に限って古びた外套を旅人めいて羽織っていた。袖の縁には銀糸の文様が施されているが、慣れぬ荷造りで至る所に皺がよっている。リナリアは無言で近づき、背負い袋をひと振りして重心を整えた。
「三十粒。これだけあれば……爆心地まで、十分もつはず」
「……ありがとう」
気恥ずかしげに笑う父の貌は、死王の威容からは程遠い温度を帯びていた。それを確かめるように、リナリアは指先でそっと彼の袖口を払い、埃を落とした。
回廊の向こう、祭壇跡には兎耳の少女、ルミナが立っていた。雪を思わせる白髪を揺らし、礼装の裾を何度も整えては、隣の巨軀を見上げている。隣に立つのはドラゴンの血をひく半獣人ジーク。彼は自身の鱗肩当てにうまく小花を挿そうと悪戦苦闘していた。
「ルミナ、角度はこうで合ってるか?」
「もう少し右よ、ジーク。……そう、そこで固定して」
昨夜、この塔の神殿でふたりは簡素な結婚の誓いを立てたばかりだ。祝宴はなかった。旅はまだ終わらない。リナリアはそれを誰よりわかっていたからだ。だからこそ今朝、旅支度の合間に彼女は歩み寄る。
「留守番ばかりで悪いわね。でも……ここを新婚旅行先って思って、好きに使って」
リナリアはウィンクを添える。ルミナは紫がかった瞳を丸くし、すぐに柔らかな笑みで頷いた。ジークも鼻先をこすり、厚い胸板を叩く。
「任せておけ。塔の補強も進めておく。嬢ちゃんと陛下が帰る頃には、ドラゴンでも住めるくらい丈夫にしてみせる」
螺旋階段を降りる途中、軋む扉を押して現れたのは、スケルトンの執事ブラッセルと、その背に隠れるように立つ、メイドのデルフィーネ。どちらも胸元に黒いリボンを結んでいる。骨すら磨き上げられ、執事は銀盆に蒸留水を張り、旅立ち前の手水として置いた。メイドは軽食用に干し果実を包んでいた。
「お嬢様、道中のお供を仰せつかりたく──」
「助かるわ。けれど無理はしないで。塔を守る者が必要だから」
メイドはうなずくと、すぐに巾着に淹れた果実を差し出した。リナリアはそれを受け取り、骨の指へそっと触れる。温度のない感触に、かつて母から受け取った体温の影を重ねて。
荷車に最後の木箱を押し込み、縄を締めながら、リナリアは塔窓の裂け目越しに西を望んだ。そこがウィンスレット邸。死の精霊が爆ぜた爆心。木も草も当時のままの姿で凍り付き、完全に静止した場所。家族そろって帰宅するのはこれが初めてだった。
記憶は三歳で途切れている。邸の壁の色も、玄関を開けたときの空気も、母の微笑でさえ、いまや全てがエリオーネの絵筆が塗り足した輪郭に過ぎない。けれど今、死の精霊残滓が土地の底から淡い拍動で彼女を招いている。灰の心臓が不器用に血を送るかのように。
「行こうか、リナリア」
ノクティスが外套の襟を立てた。霊膜が光を吸い、黒曜石より深い闇色へ変わる。回廊の端ではルミナとジークが肩を寄せ、静かにこちらを見送っている。ルミナを親離れさせたつもりが、むしろ自立を促されているのは私のほうだ。
「うん……荷は整ったわ。わたしたちが戻るまで。この塔を新しい家に育てておいて……忘れないでね、ルミナ」
塔全体は、いまだ侘しさと死の匂いに沈んでいる。けれど石壁の継ぎ目には、ジークが挿した小花が小刻みに揺れた。灰色で塗り潰された国境で、ひどく場違いなほど鮮烈な、緋の花弁。それは、ここに残る者たちの鼓動そのものだった。
その鮮紅と、父が肩から提げる黒の旅行袋。二つの色が並んで通路を進む。リナリアは掌をそっと胸に当てる。そこに宿る小さな脈。死の精霊を従属させる心臓が今、確かに熱を帯びた。
母を探す旅が、ようやく「現在形」になる。影は光を抱き、光は影を孕む。いくつかの影がわずかに重なり合い、ゆっくりと峠道へ踏み出した。 背後で塔の尖端がかすかに揺れ、雲間の切れ目から落ちた残照が瓦礫を一瞬だけ琥珀色に染める。灰も骨も、まだ完全には温度を失っていない。きっとその先で、再会を待つ体温が静かに脈打っている。




