第百七話 届かぬ書簡の峠で
峠は昼でも霧が濃い。
霧の向こう側──ヴェルンハイム共和国は「死者の国」と化して十年が過ぎた。北と中部ではアンデッドが徘徊し、人の往来は途絶えたまま。だが南西沿岸の一部だけは奇跡的に支配を免れ、海運と内陸交易の細い血脈が辛うじて脈打つ。帝国と共和国を結ぶこの峠道は、その血脈を辿る数少ない商人と旅人が行き交い、「死者の国」が日常語として囁かれる奇妙な境界だった。
白気が咽喉へ絡み、かすかに鉄錆の味がした。検問所の石門では巡視兵が荷馬車を一台ずつ止め、金槌で樽を叩き、中身の音で密輸を嗅ぎ分けている。わたしは列の最後尾に身を溶かし、黒帽子の縁をそっと撫でた。骨と薄膜で仕立て直した躯は聴診にも血圧計にも破綻を示さない——けれど不要な視線は、過去の罪を余計に疼かせるだけだ。
石門の脇に、煉瓦の半ばまで土に埋もれた平屋がぽつんとある。『リュミエール旧蔵』──剥げた真鍮札が霧に濡れて鈍く光る。国境役人が差し止め書簡や廃刊紙を暇つぶしに繙く副次書庫だという。検札はまだ動きそうにない。わたしは扉を押し、湿った木の匂いへ身を滑り込ませた。
薄明かりの閲覧室——蝋燭は節約のため半分で消され、外光も霧に遮られてほとんど届かない。棚の背板を指でなぞれば、紙粉が雪のように爪の隙へ入り込む。ここには、配達されるはずだった季節や再会の約束が、埃の層となって堆積している。
──この匂いは嫌いではない。
死者の王国でも、図書館だけは再建した。自分で書いた論文を繰り返し写本し、骸の学者たちに配った日々を思い出す。迷路の底で、鍵付きの木箱が山のように積まれていた。差出地ごとに麻紐で縛られた書簡束。『星霧の森』──最奥の高段で札が微かに揺れている。赤蝋に押された印影が目に入った瞬間、肺が凍り付き、心臓だけが置き去りに跳ねた。
『W』と双鉤――ウィンスレット家の旧紋章
屋敷の書斎で見慣れた私文書箱——時を止めたはずの過去が、思いもしない裂け目から流れ込む。指先が自分の意思を振り切って封を裂いた。ふわりと立つインクの酸味。ばらけた便箋のすべてが、たった一つの呼びかけで始まっていた。
「親愛なるお母さまへ」
震える筆跡は幼い日のリナリア。消印は二百年前、百年前、そして——半年前。宛先はヴェルンハイムのノクティスと過ごしたウィンスレット邸。エリオーネの代筆の文字。いずれも「配達不能 / 戦禍警戒区につき留置」の朱印が重ね押しされている。わたしが望んだ別れなき世界の裏側で、届け先を亡くした想いだけが何層にも堆積していたのだ。
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お母さまへ
今日は先生に頼んで、精霊温室の白百合を写生しました。
百合はすぐ花粉で色づくけれど、花が散るその時まで大切に世話をするのだそうです。
人も同じかな、と思いました。
いつか、お母さまが満開に咲き誇る姿をすぐ隣で見られたら、とても誇らしいです。
リナリア
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白百合──わたしが好きだった花だ。声帯の無い喉に熱がせり上がる。次の封を切る。筆跡が少し大きく、年を重ねた分だけ言葉が整っている。
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お母さま
エリオーネ様は、私の魔法練習を褒めてくれました。
でも褒められるほど、胸が痛みます。
「もし出来るなら、すぐ母上に見せたい」
その願いが叶わないことが、一番の罰みたいです。
……けれど私は待ちます。会える日まで、魔法を磨きます。
リナリア
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罰。ページが霞み、インクが滲む。違う──罰を受けるのは母親のわたしだ。束の最後は、封も切られぬ真新しい紙だった。検閲印は半年前。
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母上
ついに森を出ます。
この手紙より先にわたしがそちらへ辿り着くかもしれません。
扉の前で名を呼びます。
だから、どうか——
リナリア
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封筒を胸に抱えたまま、わたしはしばらく呼吸の仕方を忘れていた。
書架のあいだを漂う埃が夕映えの光を掴み、静かに舞い沈む。たった数粒が落ちるのに、時計が何刻も進んだように思えた。息を継ぐごと肺が紙の匂いで満たされ、鼓動はさざ波ほどの速さで――それでも確かに――胸板を打った。
──扉の前で名を呼びます。
リナリアの筆跡が瞳の裏で脈打つ。字形は幼いままなのに、行間から伸びる気配は凛として大人びている。あの子はとっくに母の背丈を追い越しているのだ、わたしが 時間を止めているあいだに。
頬を伝うひと筋が封蝋を淡く濡らす。もう涙腺など残っていないはずなのに――薄膜が魔力を呼び、水を繕ったのだろう。指で拭えば雫は蒸気になり、匂いだけが皮膚に焼きついた。
やがて外の巡視ベルが一度、二度と鳴り、検札列の進行を告げた。
──まだ歩ける。
決意というより祈りに近い言葉を胸に沈め、手紙の束を鞄の中央へそっと収める。両親の遺髪を包んだ小箱と、リナリア宛ての未投函書簡──わたしの半身がそこに眠る。書庫を出ると霧は薄紫を帯び、冷たい気流が峠を撫で下ろしていた。
検問所へ戻った瞬間、空気が一変する。
角笛が短く二度鳴る。石門前の騎兵が砂塵を蹴立て、半円陣でわたしを囲む。鋼の槍尖が一斉に喉許へ並び、馬上の士官が氷を滑らせたような声を落とした。
「その場で両手を見せろ。身分証の不提示は反逆とみなす」
槍影の奥に黒外套の魔導士が一人。帝国魔導士団の検閲官。黄金の房飾りを付けた杖を肩に預け、灰色の双眸は氷面のように感情を閉ざしている。
「偽造で官証を騙る者が後を絶たん。身分を盗む罪は軍法で死罪。……照合は一度だけだ」
張りつめた霧が、刃と同じ重さで肺に落ちる。けれど逃げ場はない。わたしはゆっくりと鞄を開き、古びた革筒を差し出した。帝国第一魔法学校・卒業証明書──発行日、三百三十二年前。 魔導士は筒を開き、掌に淡い魔力光を灯して書面をなぞる。術式文字が空中に踊り、わたしの肉体情報と照合を始めた。
冴え冴えとした沈黙。槍の穂先が呼気に触れ、霧粒が弾けて光る。やがて術式文字が一枚、また一枚と宙で崩れ落ち、最後に真正の印章のみが残った。
「……記録は確かだ」
魔導士が呟く。口調は無機質のままだが、瞳の奥で一瞬だけ戸惑いの波紋が揺れた。わたしの骨を覆う薄膜の偽生体は、検閲術でも綻びを見せない。それでも杖先は下ろさないまま、男の視線だけが槍より鋭く突きつけられる。
「三世紀前の卒業証が現存しております事情を、お聞かせ願えますか。──ご身分とご渡航の目的を、失礼ながら伺います」
霧がわずかにざわめき、背後の騎兵が手綱を締めた。わたしは帽子の影で瞬きをひとつ深くし、声を落とす。
「身分は記録のとおりです。行き先は私邸──ウィンスレット邸。理由はただ一つ、遅すぎた帰宅」
魔導士の眉がわずかに動く。宿直灯の青白い光が、彼の頬に交差する符丁の影をつくった。
「死者の国に、ご家族がいらっしゃるのですね?」
「ええ。家族が待っているのです」
沈黙。霧の粒が互いの呼気のあいだで凍て付き、やがて砕け落ちた。男はそれ以上訊ねず、杖を肩に戻す。士官が合図を送ると騎兵が槍を引き、憲兵が代わりに太い手縄を差し出す。
「身元は証明された。だが発行年代が古すぎる。盗難届けとの照合が済むまで留置する」
手縄が触れる刹那、魔導士が静かに首を横へ振った。
「この御方の魔力残滓は、証明書の登録波形と完全に合致いたします。本証の偽造は不可能です――従いまして、拘束の理由はございません」
士官は不満気に鼻を鳴らしたが、軍令には背けぬらしい。渋々と敬礼を切り、緑の通行紐をわたしの腕へ巻いた。束の間の静寂。わたしは縛めを免れた腕で鞄をつかみ、背筋を伸ばす。魔導士の視線が最後まで追いかけていたが、核心には届かぬまま霧に滲んだ。
門を抜けると霧の裂け間から西陽が血のような橙を注ぐ。峠道は寂として狭く、その先に広がるのは十年前に時を止めた王国。鞄の重みは変わらない。今、背筋を伸ばし霧の坂を下るわたしは 母へ戻る旅人だ。革のなかで手紙がこすれ、小さな音を立てる。それは紙の擦過音であり、未来へ踏み出す靴音そのものだった。




