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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第七章 死の精霊の魔法い

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第百六話 潮騒の港まち

 潮騒が耳元を擂り潰す——そんな錯覚を覚えるほど、港町(みなとまち)イストリアの空気は湿って熱かった。

 湾に沿って張りついた石灰岩の倉庫群は、真昼の光を浴びて白く眩み、その壁面をつたうロープの繊維には乾いた塩が粉のように噛みついている。桟橋では錆色のクレーンがのろく腕を振り、鎖の節が軋むたび金属音が低く反響した。積荷の木箱が甲板から落ちるたび(かど)が裂け、干した香草と魚油と樽酒が一斉に飛沫をあげて混ざり合う。生臭く濃厚な匂いが鼻腔を刺すが、不思議と嘔気はこみ上げてこない。

 ——これは命の匂いだ、と胸の裏で小さく呟く。死者の王国で永く耳にしてきた乾いた埃の匂いとも、実験室に漂った薬臭さとも違う。湿りを帯び、腐敗と発酵のわずかな違いのあいだで脈打つ匂い。わたしの骨は偽物の血潮で満たされているにすぎないのに、その匂いだけが確かな重量で身体(からだ)を引き戻してくる。

 埠頭を離れ、市場の通りへ足を踏み入れると、音はさらに複雑な層に姿を変えた。

 帝国南東部──乾いた石灰質の段丘で知られるウルガリア地方のオリーブを量り売りする男の朗声、値切りに挑む主婦の舌打ち、折からの船団帰港を告げる汽笛の悲鳴――それぞれが互いの隙間を縫い合わせ、陽炎のようなざわめきを作って頭上を旋回する。干ダラを叩く木槌のリズムの奥で、路上楽士のフィドルがよれながらも明るい旋律を刻んでいた。

 黒いワンピースと染めた麦わら帽子のわたしは、粗野な亜麻の作業着で埋め尽くされた往来のなかでひどく浮いて見えただろう。けれど人々は忙しさを優先し、好奇の視線を惜しみなく次の取引へと渡していく。肩が何度か触れたが謝罪もない。――それでいい。わたしは異物である(ほう)が都合がいい。

 胸の裏で眩暈が小さく揺れた。踏みしめた石畳がふっと浮き、過去と現在の継ぎ目が滲む。右手の古い旅行鞄がきい、と鳴るたび、凍土で眠らせていた鼓動が骨に跳ね返る。重さは知れているのに肩が軋むのは、荷よりもわたし自身の影が増しているせいだろう。

 青果商の角を曲がった瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。


 ――リナリア?


 潮と果実の匂いのあいだに、懐かしい花の残り香が滑り込んだ気がした。振り返る隙もなく、三人連れが人波を割ってすれ違う。眼鏡を掛けた細身の青年。浅くハンチングを目深に被った壮年の男。そして、その腕に寄り添う小柄な少女――いいえ、年輪を巧みに隠した若返った女。魂の輪郭が一瞬だけ震え、術眼に薄桃色の残滓が閃く。模倣ではない。生体に魂を直接縫い留めた痕跡——この精度を実行できる者など、リナリアを措いて他に在るはずもない。

 思考より一拍早く、声帯が震えた。


「……失礼。お(じょう)さん、お顔の色が優れないようで」


 壮年の男がさっと一歩前へ出る。灰色の瞳が冷たく光り、海辺の陽を反射した刃のようにわたしを測る。


「お気遣いなく。妻は船酔いが残っているだけです」


 妻と呼ばれた少女が小首を傾げて微笑む。あどけない頬に浮かぶ戸惑いは演技ではなかった。彼女自身、自らの魂が本来の時を外れていることに気付いていない。

 立ち止まるのは一瞬。青年が少女の肩をそっと抱き、三人は足早に雑踏へ消えた。わたしは呼び止めることができず、鞄の取っ手を強く握り直す。リナリアの匂いは確かに残っていた。けれど追いつけば、彼らの未来に裂け目を作るのは目に見えている。

 足下で石畳が遠のき、わたしだけが薄い膜の内側に取り残されたような静けさが降りた。呻くような汽笛がそれを破り、街角の陽炎は再び騒音の渦へと戻っていった。

 港の入り江に夕陽が落ちきる頃、荷揚げを終えた船員たちが酒場へ流れ込み、通りは急に静まりだした。潮風だけが赤錆のクレーンを軋ませ、わたしの影を長く引き延ばす。

 ふと石畳の隙間で、乾ききった魚の骨がひとつ(かぜ)に転がった。傍らの壁には「遠征従軍者募集」の紙が何重にも貼られている。人手不足。戦争も疫病もないはずのイストリアで、何に備えているのだろう。

 喧噪が引いたことで、街の裏側に沈む澱みがじわりと浮かんでくる。路地の奥、古い倉庫の隙間から、飢えた獣のような視線がいくつもこちらを窺っているのを感じた。表通りから半歩それるだけで、空気は急速に澱む。錆びたウインチを並べる搬入口、樽を崩した木片、潰れた箱に溜まった海水――昼の熱気が抜けた後に残る、生温かい匂いが路地に淀んでいた。

 それでも歩を進めたのは、宿のある丘へ抜ける最短の近道だったから…だけではない。わたしは本能的に、静けさを帯びた場所で自分自身を計り直したかった。曲がり角の影から、ひそひそとした声が漏れているのに気付いたのはその時だった。


「ほら、あれ見ろ。黒い服の……」


「上物じゃねえか。ここ通るなら、ひと晩で銀貨になるぞ」


 闇に溶け込みきれていない幼い声。わたしが振り返るより早く、六つほどの影が路地口を塞いだ。小柄で骨ばった少年たち——年のころは十一、二。頬は煤と塩で汚れ、袖のほつれをねじって縛ったボロ服は夜気にばさりと揺れる。彼らの目は獣の子どものように据わっていた。飢えと恐れと、ほんの掠れた好奇心。


「へぇ、お綺麗な姉さんだ。どこの船の女? その鞄も帽子も高く売れるだろ」


 最年長らしい少年が嘲るように笑い、短いナイフを見せつける。


「素直に渡しゃ、痛い目は見せねえ。――いや、それだけじゃ足りねえか」


 夜目に慣れた彼らに、わたしの体格は不釣り合いに映ったのかもしれない。黒のワンピースは細い肋と腰を誤魔化しながら、死の膜の幻影で胸や腰線に柔らかな起伏を描き出してしまう。その仮象が「金になりそうな女」へ、容易に結びつくことを、わたしは咄嗟に悟った。

 ――異物。昼の賑わいでは緩やかに許されていた異物性が、今は牙を剝いて襲い掛かろうとしている。


「下がりなさい」


 喉を震わせるまでもなく、声は自然に低く硬かった。だが、少年たちは引かない。ナイフが月明かりをかすかに(はじ)き、その光を合図にするように一人が背後に回り込む。もう一人が無造作に手を伸ばし、ワンピースの袖口を掴んだ。

 世界が止まった。

 路地の床石に描かれた目に見えない円陣が淡く浮かび、空気がびしりと結晶化する。潮の匂いも、倉庫の鎖が揺れる軋みも、一息で薄い氷膜の向こうへ閉じ込められた。少年の指は袖布を掴んだ格好のまま硬直し、ナイフの刃先で揺れていた夜灯草の灯りさえ無音で固まる。


 静止——わたしの術。


 死者の国で無数の魂を縫い留めた、あの冷たい宙吊りの感触が掌に蘇る。止められた時間の内側で、わたしはゆっくりと腕をほどいた。少年の指を一つずつ撫でるように外し、刃を握る腕を肩からそっと押し下げ、膝を折った。

 硬貨入りの巾着を鞄から取り出し、彼らの胸元へ押し当てる。冷たい銀が布越しに触れても、彼らは何も感じない。――けれど、餓えを凌ぐ夜を一度でも手渡せば、明日を想像する可能性が残るかもしれない。

 目を閉じ、解放の符を結ぶと氷膜は(はじ)けた。声が一斉に戻り、鎖が揺れる耳障りな音が闇を満たす。少年たちの身体(からだ)が反射的に跳ね、胸元の巾着の重みを訝しむより先に、恐怖が脚へ火をつけた。一声もなく散り散りに駆け去る足音が遠ざかり、闇の奥でばらばらに消えた。

 残された路地に、擬似呼気だけが白く揺れる。掌の裏で静止の余韻がまだ脈打ち、骨の内側を水銀めいて冷やした。指先を見る。術式で一気に温度を奪ったせいか、爪の根元がひととき白く霜裂け、皮膚の下に鉛色の血管が浮いた。


 ――異常、けれど想定内。


 死の精霊が織る幻影膜が即座に働き、ひび割れた組織を糸で縫うように塞いでいく。十数呼吸で蒸気が立ち、霜は水滴へ変わり、血管の色も人間のそれに近い温とい紅へ戻る。

 左手には、昨日もらった魚のパイ。熱はとうに失せ、端は(かぜ)で乾きかけていた。それでも一口かじると、冷えた澱粉の粘りと塩気が舌に広がる。嚥下すればどこにも落ちていかない感触――けれど、味覚の記憶だけは確かに残り、修復を終えた組織へじわりと熱を回してくれた。自壊と再生。その均衡を確認し、わたしは呼気をひとつ吐く。今夜のうちに二、三度は同じ魔力を使える――それが計算結果だ。

 時間を奪うたび、同じ痛みが返ってくる。あの子たちの視線に張りついた恐怖は、死の王国で凍り付いた罪の残像と寸分違わない。

 鞄を拾い上げ、帽子を深く被り直す。雲が月を呑み込みかけ、路地は墨汁を流したような暗さに沈んでいた。靴音が石を打つたび、冷えたパイの重さが腕に伝わる。温度のない贖い。——リナリア。迎えに行くと自分に誓いを立てた。ならばわたしは、一歩ごとに罪をほどいて進むしかない。潮と鉄の匂いが混じった(かぜ)が、再び(みなと)の方角から駆け上がる。

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