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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第七章 死の精霊の魔法い

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第百五話 潮風の道行き

 潮の匂いが胸の奥を洗う。

 ここへ来るまで、わたしは三百年ぶりに風の重さを思い出していた。石埃しか動かぬ屋敷では、呼吸さえ無味乾燥な計測値にすぎなかったのに——海は違う。砂に混ざった塩、腐りかけた海草、遠くの酒場から漂う甘い麦芽。それらが層になって喉を撫で、死者の膜で梳かれた骨身にさえ温度を置いていく。

 黒く染めた麦わら帽子のつばを指で押さえ、潮風に背を押されながら街道を歩く。初冬の陽はまだ高いのに、行き交う人影はほとんどない。みな内陸へ逃れたのだと宿の老人が言っていた。カモメの啼き声だけが、空席ばかりの波止場へ昼の名残を縫いとめている。

 右手の古い旅行鞄がきい、と鳴る。中に入れてあるのは書きかけの断章と、両親の遺髪を包んだ小箱、そしてリナリアへ宛てた手紙。軽いはずなのに、歩を運ぶたび肩に鈍い疲労が溜まる。荷の重さではない。三世紀の孤独が、今になって筋へ沈殿しているのだ。

 ワンピースのすそが容赦なく脛に絡む。肉はほとんど失われたが、死の精霊の幻影が骨の隙間を覆い、人の輪郭を保たせる。生気は虚像でも、父と母から授かった輪郭だ。手放せない執着を抱えたまま、わたしは海の白い光を睨む。

 やがて潮騒がふっと途切れ、朽ちた看板が視界に入った。マレダの入り江——かろうじて読める煤けた文字が揺れている。桟橋の先に止まった小舟から、若い母親と少年が箱を抱え下ろすところだった。氷を詰めた木箱は、二人には少し大きすぎる。波が岩肌を打ち、桟橋がぎしりと軋む。その拍子に箱が傾き、銀の魚が跳ねて列を崩した。

 鞄を下ろし、左手で帽子のつばを押さえつつ、反射的に右手を伸ばして箱の底を支えた。冷たい木の感触とともに、まだ温い命の振動が掌に伝わる。潮に混じる生血の匂い——測定器の前で数値を追った夜、ガラス管に満ちていた残滓の匂いと同じだ。


「落ちるわ」


 わたしの声は思ったより静かで、そして震えていた。箱を石柵に落ち着かせると、魚が水といっしょにぱしゃりと鳴いた。母親は胸を押さえ、深く息を吐く。


「助かったわ。腕、痛くない?」


「平気よ。わたしより魚のほうが重たそう」


 冗談めかして答えると、彼女の口もとに安堵の笑みが浮かんだ。傍らの少年が照れたように頭をかく。魚の匂いが指に残る。温度はすぐ奪われたが、ぬるい命の震えだけが皮膚の奥に刺さって消えない。昔、光学管に閉じ込めた残滓が淡く鼓動していた夜——ガラス越しの鼓動を思い出し、胸が軋んだ。


「ほら、手を拭いて」


 少年が古い麻布を差し出す。礼を言って受け取ると、彼はくしゃりと笑った。無邪気な温度が指先から肘まで満ちてくる。リナリア——かつて抱けなかった幼い肩が脳裏に揺れた。瞼の裏で、娘は腕を伸ばしている。それなのにわたしは温度のない空気しか返さなかった。

 波止場を離れると、広場いっぱいに干した網や魚籠が並んでいた。灰を払う老人のそばで少女たちが貝をひろい、割れた壺に差しただけの野花を「(みせ)」と呼んで笑っている。潮だまりは夕陽を映して赤い鏡になり、船底を裏返したままの古い艇が長い影を落とした。


 ——ここでは時間が進む。


 胸の奥で何かがかすかにきしむ。死者の王国で聞こえなかった音——笑い声、喧嘩の泣き声、焦げたパンに呆れる叫び。それらが未来へ滑っていく擦過音だ。

 やがて母親が小走りで戻り、焼きたてのパイを差し出した。黄金色の皮に細い切れ目が入り、湯気がふわりと立つ。


「さっきのお礼。港の魚で作ったの。旅の力になるわ」


「わたし、代金を——」


「いいの。人手が足りなくて困ってたんだもの」


 差し出された温もりを、わたしは両手で受け取った。バターとハーブの匂いが鼻をくすぐる。味は感じられる、けれど嚥下した先に臓器はない。——それでも、捨てることはできなかった。


「お姉さん、一人旅? 海沿いは夜が早いの。お気をつけて」


「ありがとう。でも魔法が少し使えるから、大丈夫」


 魔法の二文字に、母親の眉がわずかに跳ねる。少年は目を丸くしてわたしの指先を見つめる。


「ほんとに? 火を出せる?」


 いたずらな好奇心が弾む。少年は桟橋に据えられた古いランタンを見つけ、うれしそうに駆け寄った。


「ねえ見て。風で消えちゃったランタン、つけてくれる?」


 母親は「あら、ごめんなさいね」と頬を染め、ランタンを差し出した。わたしは頷き、指先で静かに弧を描いた。芯に小さな青白い焔がともり、潮風に揺れながらも不思議と形を保つ。油に火が移ると、硝子越しの光が波止場をやわらかく照らし、少年は歓声をあげて跳びはねた。


「わあっ……! すげえ、本当に魔法使いだ!」


「静かにね、風が強いから」


 母親は息子を抱き寄せつつ、わたしへもう一度礼を言う。


「旅の方だったのね。どうりで気品があると思ったわ。どうか道中ご無事で」


「あなたがたも。夜は早く屋内に」


 母子は揃って深く頭を下げた。陽が水面から離れ切る前に村を出る。背中で「また来てね」と高い声が揺れる。パイの温かさは歩くほどに薄れ、指先へ残る血の匂いと混ざって冷えていく。食べ終えることも出来ず、わたしは紙包みのまま握った。

 風が強まった。潮霧が帽子を濡らし、空は鉛色に沈む。沖に立つ黒雲は、はるか死者の王国の上へ続いているように見えた。


 ──リナリア。あの子はいま、どんな夢を見ているのだろう。


 波が砕けるたびに問いはほどけ、潮霧に紛れて消えていく。それでも歩みは止まらない。胸に抱えた包みの温もりはすっかり失われ、紙越しに伝わるのは冷えたパイの重さだけだ。わたしはそれを確かめるように抱き直し、自嘲気味に笑った。未来を凍らせたのは、ほかでもないこの腕だというのに。

 頬を濡らすものが潮か涙か、もう判別できない。コルセットの奥に忍ばせてきた小さな絵をそっと取り出す。幼い手で描かれた、母と娘が手をつなぐ稚拙な線――顔は丸く、髪は藁の束のようにぎこちない。それでも笑顔だけは、誰の肖像よりも鮮やかだった。


 「……リナリア。いま、迎えに行くからね」


 かすれた声が夜気に溶ける。返事の代わりに、沖合で海鳴りが腹の底を震わせた。稜線を白い稲光が裂き、雲が喉を鳴らす。黒い帽子を深くかぶり直し、崩れかけた石畳へ歩を進める。風向きが変わり、潮は鋭い刃に姿を変えた。裾が裂ける音が空気に飲まれ、骨の脚がきしむ。それでも歩調は崩れない。

 これは贖いの旅――時間を凍らせた母が、もう一度流れへ触れに行く巡礼。その第一夜が、塩と鉄の匂いを孕みながら静かに幕を開けた。

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