第百三話 五番目の精霊
銀樹の聖域は、夜になると命の匂いが濃くなる。ひっそり開く苔の花、果実の甘い発酵香、獣が吐き出すぬるい息――それらを白い大樹が吸い上げ、枝先で淡い光へ精錬する。森そのものが心臓のように脈打っていた。
今宵の修練は、妖精たちが淡い輪を描く静かな空間で進んだ。粒子は羽虫ほど軽く旋回し、小さな風鈴のような揺れを残す。師エリュシアはいつものように穏やかで、長い睫の奥で森の鼓動を聴いていた。わたしは膝をついたまま、その輪郭を追う――はずだった。
ふと、土を踏む軽い衝撃が足首を上ってきて心臓で跳ねた。胸の奥で、氷砂がこすれるような痺れ。音にすればかすかな「コッ」といった乾いた響き。耳に痛いほど静かなのに、確かに動いている。
――ここに、何かいる。
目を閉じても輪郭だけが濃くなる。温度も色もないくせに、明らかに脈がある。いつもの精霊とは向きが違う、下へ下へ沈んでいく流れだ。指先が勝手に伸びかけて、思わず拳を握る。これに触れてはいけない――そんな直感が同時に走った。
「フェリオラ、息が浅いわ」
師がそっと声をかけた。慈雨に濡れる葉のように柔らかな声だったのに、鼓動はさらに早くなった。
「先生、下のほうで何かが息づいてるんです。すごく静かで、深くて…迷子みたいな気配で」
エリュシアはほんの一瞬だけ目を伏せ、それから微笑んだ。
「感覚は見事だけれど、いま森の輪は整っているわ。その外側を追うと、かえって静けさが崩れることもあるの」
怒られたわけではないのに胸が熱い。わたしは俯き、苔の上に視線を落とした。そこに、とても小さな死が転がっていた。灰色の小鳥――今しがた息が絶えたのだろう。羽はふっくらしているのに、瞳はもう艶を失っている。森の命を吸い上げるはずの銀樹の根元で、死はこんなにも目立たない。
眼差しを感じたのか、師は鳥へ視線を移し、杖で軽く合図した。妖精のひとつが鳥の胸に舞い降り、淡く光って消える。死の躯が土へ溶ける準備を整えたのだ。
「何かの死は、誰かの命になる。森が教えてくれるのはその循環よ」
エリュシアの声が染み入った途端、胸の痺れが少し形を得た。鳥の心臓が止まる音。土が温度を受け取る音。視線の端で、エリオーネの肩が強ばる。口を開きかけて呑み込み、潤んだ瞳だけが「もうやめて」と震える。さっきの温度を持たない脈は、循環からはみ出した何かだ。夜の修練を終えると、エリオーネが肩にケープを掛けてくれた。布越しに指が震える。
「顔色、月灯りみたいよ。ほんとに平気? 嘘なら揺さぶるからね」
思わず笑うと、彼女は胸に残る火を押さえて視線をそらした。
「平気。ただ……死って、こんなに静かに森へ混ざるのね」
その晩は眠れず、月が西に傾き、森の影が濃く落ちるころ、ひとりで森を歩いた。銀樹が葉を揺らすたび、白い光が足元を掃き、濡れた苔を蒼く染める。ぬかるみに残る鹿の足跡はまだ温かく、そこへ小さな蹄の痕が重なっていた。ほどなく鼻を刺す鉄の匂い――朽ちかけたイノシシの仔が倒れている。骨ばった背を月が照らし、毛並みの奥で蠅が光る。
生きる匂いと、消える匂い。ふたつが混ざる空気を吸うと胸がきしむ。脳裏に、屋敷の屋根裏で仔猫を抱いた夜の冷たさがよみがえる。死は世界の端ではなく、影の濃い場所に沈んでいるだけ――幼いわたしがこぼした問いが、いま再び澄んだ形を取って浮かんだ。
朽ちた鳥、裂かれた兎、抜け殻の虫――死は森のあちこちで鈍く反響していた。わたしが布で包むたび、背後で小石が跳ねて土を弾いた――放ったのはエリオーネだ。振り返ると彼女は唇を噛み、拳をぎゅっと握り締めたまま俯いた。
そこは本来、花を植えるための静かな庭だった。わたしは土を掘り、鳥と仔獣をそっと横たえ、小石を積んで印とする。翌夜にはまた新しい亡骸を運び、墓標が増える。三日後、かつて花壇だった一角は小さな墓園に変わった。エリオーネは遠巻きに野花を置き、視線が合うと首を振るだけだった。四大精霊の粒が死骸に触れ、ほの灯りを落としては消える。
――これだ……名もない脈
手を伸ばすと、霧はわずかに縮れ、注視されるのを戸惑うように後退した。色も質量もないのに、確かに輪郭がある。わたしは膝をつき、両手で土を押さえた。耳の奥で「コッ」という冷たい響き――氷砂が落ちる音――が繰り返し鳴る。
夜明け前、宿舎へ戻ると扉の前にエリオーネが立っていた。白衣の裾が露で濡れ、唇が震えている。
「こんな時間まで……また死体を運んでたの?」
わたしは頷いた。
「死を集めたら……湖底の影が脈打ったの」
「フェリオラ……最近わたし透けてない? その息、氷みたいに冷えてる。いっぺん森を出て、二人で大きく息をしよう?」
「逃げるの?」
「逃げるんじゃない。ちゃんと息をするのよ」
彼女は胸に手を置いた。
「死を覗けば覗くほど、あなたは自分を削る。外で風を吸って、色のある光を見て。戻ってきても遅くない」
わたしは窓辺に目をやった。夜は薄紫にほどけ、銀樹の梢が遠くで揺れている。墓園の上には温度を持たない霧――名もない脈――がまだ鼓動を刻んでいるはずだ。
「ここでしか聴こえない呼吸。湖底に沈む鼓動――触れなければ前へ進めない」
エリオーネの瞳が揺れ、「わたしじゃ届かない?」とひび割れた声が漏れ、涙が一気にあふれた。
「だったら、わたしもいる。でも……お願い、いつか、わたしと同じ高さで空も見て」
彼女の手は火のように温かい。わたしはその熱を受け取りながら、胸の奥で薄氷の音を聴いた。死ばかりを吸う湖面に、生きた火の揺らぎが映る。名もない脈の輪郭はまだ霧だが、確信は湖底に根を張り始める。死を集め、影を識り、やがてその呼吸に名前を与える――それがわたしの次の段。
夜が明ける頃、森の中で小鳥がさえずった。命の色は濃く、死の影は深い。その境目に耳を澄まし、わたしは静かに息を吸い込んだ。
数日後、ヴェルンハイム共和国の首都。石畳に霧雨が降り、路地は灯火で淡く照らされる。旅装のまま図書院へ向かう途中、古い石橋で若い男が立ち読みしていた。灰色のコート、乱れた前髪の下に穏やかな緑の瞳。彼はわたしたちに気づくと本を閉じ、会釈した。
「こんばんは、旅の方ですか?」
柔らかな声。わたしが頷くと彼は微笑む。
「この町、迷路みたいでしょう。良かったら案内しますよ」
エリオーネがほんのわずか前へ出る。
「親切だけど、あなたは?」
「ノクティス。ごく普通の見習い魔法使いです」
そう名乗った彼の視線がわたしの目で止まり、わずかに見開かれた。
「君……すごく変わった魔力の波形を持ってるね」
わたしは肩をすくめる。
「そんなに簡単にわかるもの?」
「光が響くみたいに伝わってくる。水の質量があるのに光を透過する……不思議な波形だ」
初対面でそこまで言い当てた者はいなかった。案内を受け、とりあえず宿を決めることにした。道すがらノクティスは子どものように質問した。
「君たち精霊術師?
銀樹の聖域って本当にあるんだね。
水と金――正反対のはずなのに、どうして共鳴するんだい?」
最初は笑っていたエリオーネも、会話が続くうちに声を落とし、頬の火が灰色へ褪せていった。わたしとノクティスの会話が弾むたび、その視線は落ち葉のように低く伏せた。翌朝、首都の魔術試験場で資料調査をしていると、ノクティスが差し入れを持って現れた。測定室の魔力干渉計を前に、わたしは自作の波形式を組み込み、昨夜感じた第五の鼓動を数値化しようとしていた。ノクティスは式を一目見て頬を染めた。
「美しい……」
「数式が?」
「君の目に映る世界が、こんな形で現れるのかと思うと」
横で見守るエリオーネの笑顔は少し硬い。彼女はわたしの肩にそっと手を置き、「休憩しよう」と言ったが、わたしは頷きながらもデータの揺らぎに目を離せなかった。波形に微細な陰影――温度を持たない脈が混ざり込む。第五の精霊の影だ。
その夜。ノクティスが宿の屋上に小さな結界を張り、街灯りを防いで即席の観測室を作ってくれた。石の縁に並んで星を見上げる。彼は穏やかな声で言う。
「君が探している精霊……多分、誰も名前を知らない。でも君なら見つけられると思う」
胸が熱くなる。よく知る者からは危険と抑えられ、初めて会った彼は迷いなく背を押す。光と影、見知らぬ色。わたしは目を閉じ、名もない脈へ指を伸ばす。闇が静かに震え、温度のない霧が輪郭を帯びる。名を持たぬ脈――いや、『五番目』。その語が胸の底で初めて灯った。
扉が跳ね、エリオーネが駆け込む。夜露を散らし、胸を大きく上下させたままわたしを抱き締めた。
「フェリオラ!」
名を呼ぶ声は鋭いうねりになり、胸へ直接突き刺さる。わたしが振り向く間もなく、彼女は一直線に駆け寄り、腕をつかんだ。
「お願い、置いていかないで!」
言葉が雪崩れる。唇が震え、涙が頬にひっかかったまま零れ落ちる。
「追いつくほど影が深くなる! わたしの火、届いてる? 届かないまま消えそうで怖い!」
わたしは押し寄せる熱量に戸惑い、掴まれた腕をそっと包み返す。彼女は振り払うようにかぶりを振った。
「好きなの、わたし……どうしようもなく好き! でもね、鎖になりたくない。あなたの羽をちぎるくらいなら、わたしが泣いた方がずっとマシ!」
叫びながら胸を叩き、火の粒が衣のすき間から飛び散る。ひらひら舞う橙の火花が風に攫われ、闇に消えた。
「それでも怖いの。あの霧の奥に沈んだら、もうあなたが帰ってこないんじゃないかって!」
子どもみたいに顔を歪め、拳で涙を拭う姿に、わたしの喉がきしむ。答えを探して口を開きかけると、彼女は先に言葉を重ねた。
「……だから森へ帰る。逃げるんじゃない。待つの。わたしが光を握って待つから――迷ったらすぐ呼んで! 名前一つで飛んでくるから!」
一気に吐き出して、肩が上下するほど息を切らす。熱と冷たい夜気が混ざり、結界の縁で息が白く揺れた。わたしは腕を伸ばす。けれど届く寸前、彼女は一歩あとずさり、ぎゅっと笑おうとして歪んだ笑みをこぼす。
「ね、約束……!」




