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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第七章 死の精霊の魔法い

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第百三話 五番目の精霊

 銀樹の聖域は、夜になると命の匂いが濃くなる。ひっそり開く苔の花、果実の甘い発酵香、獣が吐き出すぬるい息――それらを白い大樹が吸い上げ、枝先で淡い光へ精錬する。森そのものが心臓のように脈打っていた。

 今宵の修練は、妖精たちが淡い輪を描く静かな空間で進んだ。粒子は羽虫ほど軽く旋回し、小さな風鈴のような揺れを残す。師エリュシアはいつものように穏やかで、長い睫の奥で森の鼓動を聴いていた。わたしは膝をついたまま、その輪郭を追う――はずだった。

 ふと、土を踏む軽い衝撃が足首を上ってきて心臓で跳ねた。胸の奥で、氷砂がこすれるような痺れ。音にすればかすかな「コッ」といった乾いた響き。耳に痛いほど静かなのに、確かに動いている。


――ここに、何かいる。


 目を閉じても輪郭だけが濃くなる。温度も色もないくせに、明らかに脈がある。いつもの精霊とは向きが違う、下へ下へ沈んでいく流れだ。指先が勝手に伸びかけて、思わず拳を握る。これに触れてはいけない――そんな直感が同時に走った。


「フェリオラ、息が浅いわ」


 師がそっと声をかけた。慈雨に濡れる葉のように柔らかな声だったのに、鼓動はさらに早くなった。


「先生、下のほうで何かが息づいてるんです。すごく静かで、深くて…迷子みたいな気配で」


 エリュシアはほんの一瞬だけ目を伏せ、それから微笑んだ。


「感覚は見事だけれど、いま森の輪は整っているわ。その外側を追うと、かえって静けさが崩れることもあるの」


 怒られたわけではないのに胸が熱い。わたしは俯き、苔の上に視線を落とした。そこに、とても小さな死が転がっていた。灰色の小鳥――今しがた息が絶えたのだろう。羽はふっくらしているのに、瞳はもう艶を失っている。森の命を吸い上げるはずの銀樹の根元で、死はこんなにも目立たない。

 眼差しを感じたのか、師は鳥へ視線を移し、杖で軽く合図した。妖精のひとつが鳥の胸に舞い降り、淡く光って消える。死の躯が土へ溶ける準備を整えたのだ。


「何かの死は、誰かの命になる。森が教えてくれるのはその循環よ」


 エリュシアの声が染み入った途端、胸の痺れが少し形を得た。鳥の心臓が止まる音。土が温度を受け取る音。視線の端で、エリオーネの肩が強ばる。口を開きかけて呑み込み、潤んだ瞳だけが「もうやめて」と震える。さっきの温度を持たない脈は、循環からはみ出した何かだ。夜の修練を終えると、エリオーネが肩にケープを掛けてくれた。布越しに指が震える。


「顔色、月灯(つきあか)りみたいよ。ほんとに平気? 嘘なら揺さぶるからね」


 思わず笑うと、彼女は胸に残る火を押さえて視線をそらした。


「平気。ただ……死って、こんなに静かに森へ混ざるのね」


 その晩は眠れず、月が西に傾き、森の影が濃く落ちるころ、ひとりで森を歩いた。銀樹が葉を揺らすたび、白い光が足元を掃き、濡れた苔を蒼く染める。ぬかるみに残る鹿の足跡はまだ温かく、そこへ小さな蹄の痕が重なっていた。ほどなく鼻を刺す鉄の匂い――朽ちかけたイノシシの仔が倒れている。骨ばった背を月が照らし、毛並みの奥で蠅が光る。

 生きる匂いと、消える匂い。ふたつが混ざる空気を吸うと胸がきしむ。脳裏に、屋敷の屋根裏で仔猫を抱いた夜の冷たさがよみがえる。死は世界の端ではなく、影の濃い場所に沈んでいるだけ――幼いわたしがこぼした問いが、いま再び澄んだ形を取って浮かんだ。

 朽ちた鳥、裂かれた兎、抜け殻の虫――死は森のあちこちで鈍く反響していた。わたしが布で包むたび、背後で小石が跳ねて土を弾いた――放ったのはエリオーネだ。振り返ると彼女は唇を噛み、拳をぎゅっと握り締めたまま俯いた。

 そこは本来、花を植えるための静かな庭だった。わたしは土を掘り、鳥と仔獣をそっと横たえ、小石を積んで印とする。翌夜にはまた新しい亡骸を運び、墓標が増える。三日後、かつて花壇だった一角は小さな墓園(ぼえん)に変わった。エリオーネは遠巻きに野花を置き、視線が合うと首を振るだけだった。四大精霊の粒が死骸に触れ、ほの灯りを落としては消える。


 ――これだ……()もない脈


 手を伸ばすと、霧はわずかに縮れ、注視されるのを戸惑うように後退した。色も質量もないのに、確かに輪郭がある。わたしは膝をつき、両手で土を押さえた。耳の奥で「コッ」という冷たい響き――氷砂が落ちる音――が繰り返し鳴る。

 夜明け前、宿舎へ戻ると扉の前にエリオーネが立っていた。白衣の裾が(つゆ)で濡れ、唇が震えている。


「こんな時間まで……また死体を運んでたの?」


 わたしは頷いた。


「死を集めたら……湖底の影が脈打ったの」


「フェリオラ……最近わたし透けてない? その息、氷みたいに冷えてる。いっぺん森を出て、二人で大きく息をしよう?」


「逃げるの?」


「逃げるんじゃない。ちゃんと息をするのよ」


 彼女は胸に手を置いた。


「死を覗けば覗くほど、あなたは自分を削る。外で風を吸って、色のある光を見て。戻ってきても遅くない」


 わたしは窓辺に目をやった。夜は薄紫にほどけ、銀樹の梢が遠くで揺れている。墓園(ぼえん)の上には温度を持たない霧――()もない脈――がまだ鼓動を刻んでいるはずだ。


「ここでしか聴こえない呼吸。湖底に沈む鼓動――触れなければ前へ進めない」


 エリオーネの瞳が揺れ、「わたしじゃ届かない?」とひび割れた声が漏れ、涙が一気にあふれた。


「だったら、わたしもいる。でも……お願い、いつか、わたしと同じ高さで空も見て」


 彼女の手は火のように温かい。わたしはその熱を受け取りながら、胸の奥で薄氷の音を聴いた。死ばかりを吸う湖面に、生きた火の揺らぎが映る。()もない脈の輪郭はまだ霧だが、確信は湖底に根を張り始める。死を集め、影を識り、やがてその呼吸に名前を与える――それがわたしの次の段。

 夜が明ける頃、森の中で小鳥がさえずった。命の色は濃く、死の影は深い。その境目に耳を澄まし、わたしは静かに息を吸い込んだ。

 数日後、ヴェルンハイム共和国の首都。石畳に霧雨が降り、路地は灯火で淡く照らされる。旅装のまま図書院へ向かう途中、古い石橋で若い男が立ち読みしていた。灰色のコート、乱れた前髪の下に穏やかな緑の瞳。彼はわたしたちに気づくと本を閉じ、会釈した。


「こんばんは、旅の方ですか?」


 柔らかな声。わたしが頷くと彼は微笑む。


「この町、迷路みたいでしょう。良かったら案内しますよ」


 エリオーネがほんのわずか前へ出る。


「親切だけど、あなたは?」


「ノクティス。ごく普通の見習い魔法使いです」


 そう名乗った彼の視線がわたしの目で止まり、わずかに見開かれた。


「君……すごく変わった魔力の波形を持ってるね」


 わたしは肩をすくめる。


「そんなに簡単にわかるもの?」


「光が響くみたいに伝わってくる。水の質量があるのに光を透過する……不思議な波形だ」


 初対面でそこまで言い当てた者はいなかった。案内を受け、とりあえず宿を決めることにした。道すがらノクティスは子どものように質問した。


(きみ)たち精霊術師?

 銀樹の聖域って本当にあるんだね。

 水と金――正反対のはずなのに、どうして共鳴するんだい?」


 最初は笑っていたエリオーネも、会話が続くうちに声を落とし、頬の火が灰色へ褪せていった。わたしとノクティスの会話が弾むたび、その視線は落ち葉のように低く伏せた。翌朝、首都の魔術試験場で資料調査をしていると、ノクティスが差し入れを持って現れた。測定室の魔力干渉計を前に、わたしは自作の波形式を組み込み、昨夜感じた第五の鼓動を数値化しようとしていた。ノクティスは式を一目見て頬を染めた。


「美しい……」


「数式が?」


「君の目に映る世界が、こんな形で現れるのかと思うと」


 横で見守るエリオーネの笑顔は少し硬い。彼女はわたしの肩にそっと手を置き、「休憩しよう」と言ったが、わたしは頷きながらもデータの揺らぎに目を離せなかった。波形に微細な陰影――温度を持たない脈が混ざり込む。第五の精霊の影だ。

 その夜。ノクティスが宿の屋上に小さな結界を張り、街灯りを防いで即席の観測室を作ってくれた。石の(ふち)に並んで星を見上げる。彼は穏やかな声で言う。


「君が探している精霊……多分、誰も名前を知らない。でも君なら見つけられると思う」


 胸が熱くなる。よく知る者からは危険と抑えられ、初めて会った彼は迷いなく背を押す。光と影、見知らぬ色。わたしは目を閉じ、()もない脈へ指を伸ばす。闇が静かに震え、温度のない霧が輪郭を帯びる。名を持たぬ脈――いや、『五番目』。その(ことば)が胸の底で初めて灯った。

 扉が跳ね、エリオーネが駆け込む。夜露(よつゆ)を散らし、胸を大きく上下させたままわたしを抱き締めた。

 

「フェリオラ!」


 名を呼ぶ声は鋭いうねりになり、胸へ直接突き刺さる。わたしが振り向く間もなく、彼女は一直線に駆け寄り、腕をつかんだ。


「お願い、置いていかないで!」


 言葉が雪崩れる。唇が震え、涙が頬にひっかかったまま零れ落ちる。


「追いつくほど影が深くなる! わたしの火、届いてる? 届かないまま消えそうで怖い!」


 わたしは押し寄せる熱量に戸惑い、掴まれた腕をそっと包み返す。彼女は振り払うようにかぶりを振った。


「好きなの、わたし……どうしようもなく好き! でもね、鎖になりたくない。あなたの羽をちぎるくらいなら、わたしが泣いた方がずっとマシ!」


 叫びながら胸を叩き、火の粒が衣のすき間から飛び散る。ひらひら舞う橙の火花が(かぜ)に攫われ、闇に消えた。


「それでも怖いの。あの霧の奥に沈んだら、もうあなたが帰ってこないんじゃないかって!」


 子どもみたいに顔を歪め、拳で涙を拭う姿に、わたしの喉がきしむ。答えを探して口を開きかけると、彼女は先に言葉を重ねた。


「……だから森へ帰る。逃げるんじゃない。待つの。わたしが光を握って待つから――迷ったらすぐ呼んで! 名前一つで飛んでくるから!」


 一気に吐き出して、肩が上下するほど息を切らす。熱と冷たい夜気が混ざり、結界の(ふち)で息が白く揺れた。わたしは腕を伸ばす。けれど届く寸前(すんぜん)、彼女は一歩あとずさり、ぎゅっと笑おうとして歪んだ笑みをこぼす。


「ね、約束……!」

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