第百一話 階梯の胎動
螺旋階段を下りるたび、灯り染みのような芳香が立つ。真鍮製の燭台は壁に沿って点在し、学内でも閉架扱いの古文書だけが眠る層を淡く照らす。わたしは革背表紙を指でなぞり、年代と分野を高速で仕分ける。魔力論、降霊基礎、錬金実験報告――求める答えはまだない。
「フェリオラ、息をして」
背後から囁き。振り向くと、月光色の髪を揺らしたエリオーネ・ルヴェリエが笑う。彼女の掌がわたしの肩に触れ、脈を測るように親指がゆっくり押し返す。その温度に気づき、わたしは浅い呼吸を整える。
わたしたちは入学以来ずっと同じ寮、同じ講義、同じ机。教授陣は、よくわたしたちを「半分ずつの双子」と呼んだ。片方は光、片方は影。けれど影が凍りつく夜には、光は必ず手を重ねてくれる。
「また講堂で教授を黙らせたって?」
「静かになっただけ。要するに、みんな理解するのを諦めたのよ」
わたしは笑う。論じたのは魂可逆性。全存在は固有の魔力波形を放射し、死後も微弱だが残余が漂う。それを収束・位相調整すれば輪郭を再構築できるはずだ、と。数式と観測結果を板に書き終えたとき、講堂は沈黙し、次いで嘲笑で満ちた。魂は不可逆――それが教科書。学生が揶揄し、老教授は諭す口調で言った。「学問は夢想ではなく証明だ」と。
わたしは眼鏡の奥の冷笑を忘れない。だが、論証の欠片は揃いつつあった。
「ねぇエリオーネ、見てて。今日は卒論の核になる証拠を掘り出しに来たの」
エリオーネが片眉を上げる。
「あの草稿ね? 魔法と魂を階層でつなぐっていうアレでしょ」
「うん、まだ仮だけど……タイトルは『魔導への階梯』って書いておいた」
「いいね。段を上っていく感じで、読んだ人にも流れが伝わる」
彼女の肯定はいつも即答だ。心臓が一拍、軽くなる。
最深列。『亡魂攪拌過程』、『真空音律と霊呼術』。埃をはたきながら頁を繰るうち、脈拍が速まる。先行研究が示す「霊的干渉スペクトル」はわたしの測定値と完全に重なる――誰も結ばなかった点と線が、美しい形を描き始める。
ページを閉じた時、余白に走らせた走り書きが目に入る。──〈第一段:霊的残光の観測〉、〈第二段:位相制御による収束〉、〈第三段:輪郭再構築〉。階梯という単語が三段階の左に小さく添えられていた。これを骨組みにすれば、草稿は論文の形を取る。
──遠くの階段から複数の足音が降ってくる。白衣の講師二人がランプを掲げ、目を細めてこちらを見つける。
「やっぱりここにいたか、ウィンスレット嬢」
声は乾く。わたしは本を抱えエリオーネの前に立つ。
「閉架書庫は許可証がいるだろう。規則はわかっているはずだ」
講師の一人、ネブラ教授。霊魂術の権威。
「すみません、教授。でも研究に必要なんです」
「必要だと? 君が講堂で披露したあの与太話か。魂を縫い直すなんて広めたら危険極まりないぞ」
もう一人の講師が鼻を鳴らす。
「そもそもあれは魔術じゃない。妄想だ」
胸の奥で細い針が折れる音がした。それでも声は震えない。
「ちゃんと証明します。観測データも合っているんです」
「数式のお遊びを観測とは言わない」
エリオーネが一歩踏み出す。
「教授、彼女の記録を見ましたか? 散逸波形が――」
「ルヴェリエ嬢、口を出すな。君まで巻き込まれる」
足先が冷える。だが『魔導への階梯』という言葉だけが胸で熱を孕む。理解は要らない、完成させればいい。講師たちは本を取り上げようと腕を伸ばす。わたしはとっさに背面へと隠し、代わりに手元のランプを倒した。油が石床へ流れ、火が散る。教授たちが慌てて後退する隙に、わたしはエリオーネの手を取って走った。
階段を駆け上がりながら息を呑む。背後で怒声が重なり、警備用の結界鈴が鳴る。外気に触れた瞬間、夜風が汗を奪う。星空の下、わたしたちは中庭の影へ身を潜めた。心臓が耳元で鼓を打つ。
「また狂人扱いされたわ」
吐息とともに呟く。エリオーネはわたしの頬に触れ、瞳をのぞき込む。
「天才はいつも最初に狂人と呼ばれる」
「でも証拠がまだ足りない」
「じゃあ集めよう。私も共著者にして」
「エリオーネ……」
「表紙に私の名前も並べて。光と影の共著、面白いでしょ?」
わたしは笑いをこらえきれず、小さく頷いた。抱えた書物を開き、月光で頁を照らす。そこに並ぶ古代表記の式。定数欠落の余白。
――ああ、見える。欠けた数字は、わたしが夜な夜な観測した霊光の振幅と一致する。足りなかったのは確信ではなく承認だった。
「ねえ、フェリオラ」
エリオーネが囁く。
「理解されない視線は痛いけど、あなたはそれを燃料にできる人でしょ。燃やして、光に変えて」
わたしは本を閉じる。革表紙が軋む音が夜へ溶ける。
──魂は縫い合わせられる。死は終端ではなく、静かに漂う残光の収束点。
もし証明できれば、別れは必然でなくなる。父と母の名を呼ぶことさえ。胸に古い梯子の軋みが鳴る。屋根裏の暗がりで抱いた問いが、再び血を通わせる。
遠くで結界鈴が止む。学院の時計塔が十下りの鐘を打ち、石壁に月が沈む。わたしはゆっくり立ち上がり、埃を払い、エリオーネへ微笑む。
「嘲笑は鎧になるわ。次は計測室で波形を見せつけよう」
「もちろん。私は助手兼、盾だからね」
彼女も立つ。白銀の髪が風に靡き、影がふたり分重なる。焦燥は燃える。だがその熱は冷たい夜より鮮明。わたしは図書館の閉ざされた扉を振り返り、無言で宣言する。――魂可逆性理論は葬られない。段を刻み、階梯を上りきって、必ず証明してみせる。




