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星の織りなす物語 Lethe  作者: 白絹 羨
第七章 死の精霊の魔法い

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第百話 無垢より空虚へ

 夜の帳を背に、わたしは邸を去る足をひととき止める。石畳に落ちる影が揺れ、幻影で編み直した白髪が月光をすべらせる。骨に等しい肉体を包む薄衣の下、魔力の織り目がわずかに軋む。黒い瞳は振り返らない。それでも胸の奥、かつての屋根裏へ続く梯子がきしむ音が甦る。


 ──幼い日のわたしが、そこにいる。


 六歳のわたしは、天窓から差し込む薄日を追い、旧ウィンスレット邸の屋根裏でひとり遊ぶ。両親の姿を知らず、血を分けた家族はわたし一人となり、屋敷は静まり返っている。埃に覆われた肖像画(しょうぞうが)は眼差しを失い、家具は白布を被り、(とき)の重みだけが積もる。板壁の隙間から入り込む風が乾いた薔薇の花弁を舞わせ、その脆い色彩が空気に溶けるさまを、わたしは息を詰めて見つめていた。瞬く間に崩れてゆく花弁──あれも死のひとつの形。

 屋敷に残された大人は遠縁の男ひとり。白昼から葡萄酒をあおり、空き瓶を足下に転がす。ときどき荒い声で昔日の栄華を喚き、(つぎ)の瞬間には泣き崩れる。わたしは階下の乱声を潮騒のように聞き流し、天井裏の箱を開ける。そこには古い紙人形、壊れた懐中時計、そして名前のない仔猫の亡骸。数日前、屋敷の裏庭で息絶えていたのを拾い上げ、箱に収めていた。

 柔らかな毛並みはすでに冷え、黄水色の瞳は半ば閉じている。指先で頬を撫でると、乾いた皮膚が薄氷のように剥がれ落ちた。胸の奥が重くなる。「生き返るかもしれない」と何度も揺さぶり、抱きしめ、しかし肉体は沈黙を崩さない。──なぜ動かない。なぜ終わる。問いは身体の内側で鋭く跳ね返り、初めて死という輪郭を持つ。

 その晩、酒臭い息を引きずった遠縁の男が階段を踏み外した。断末魔の叫びは上がらず、石床に鈍い音がひとつ。わたしは欄干に身を乗り出し、闇の底に横たわる姿を見下ろす。頭から赤黒い波が染み出し、頬を張る酒気が一瞬にして揮発する。あの男はいつも怒鳴っていたが、最期の息はひどく静かだった。何も言わず、何も残さず、ただ動かなくなった。仔猫と同じ。違いはサイズだけ。

 翌朝、執事が呼んだ医師は淡々と死亡を告げ、邸の使用人たちは互いに目を逸らす。わたしは階段の途中に座り、医師の背に隠れて男の顔を見つめる。血の匂いよりも強く、どこか冷たい空虚が漂う。人は死ぬと人でなくなる。以前そこにあったはずの何かが失われ、殻だけが残る。


 ──では何かとは何。どうして消える。


 六歳のわたしは屋根裏へ戻り、天窓の下で仔猫を抱き直す。小さな胸を押し当てても鼓動はない。なのに己の鼓動は速まる。わたしは薄い皮膚を透かし、指を当て、耳を澄ます。鼓動を移し取れば、この子は再び瞬きをするだろうか。夜が滲み、風が止み、わたしの脳裏に初めて奇妙な映像が浮かぶ。無数の光粒が水面のごとく揺らぎ、仔猫の周りに漂う。薄い紫の靄。手を伸ばすと光粒が肌に触れ、冷たい痺れが走る。わたしはそれを──魂の残光、と名付ける。

 胎内の温もりを感じぬまま生まれたわたしの肌は、青白い。光を通して血の色さえ映さない。今も昔も、透き通る青は変わらない。違うのは髪色だけ。幼いころの髪は星影のように黒く、月明かりを吸い取った。いま目に映るわたしの髪は、幻影魔法で再構成された銀に近い白。脆い骨を隠すための幕。鏡に映る輪郭は整っていても、中身は朽ちかけた薪のように空洞だ。それでも輪郭を持つ限り、問いは離れない。なぜ終わる。なぜ別れは必然。

 仔猫の埋葬を誰も気に留めない午後、わたしは庭の端に小さな穴を掘る。土を濡らす涙は無音で苔へ染みこむ。棺代わりの木箱を収め、手で土を戻す。指爪に泥が入り込み、痛みより冷たさが先に来る。穴を覆ったあと、わたしは耳を澄ます。もし魂が残るなら、どこかで鳴いて──鳴かない。風が過ぎ、薔薇が揺れ、屋敷は再び静寂を抱く。執事がわたしを呼ぶ声も、遠くで閉じた扉も、霧の向こうでぼやける。無垢という布が裂け、空虚の風が頬を撫でる。

 夜、手持ちの蝋燭で書斎へ忍び込み、父母の書棚を探る。数冊の古文書、魔法学の断片、手紙の束。燭火が揺れ、ページの余白に書き込まれた数式と呪符が浮き上がる。


 ――存在は微弱な魔力を放射し続ける。死後も、魔力のかけらは完全には消えない。


 幼い視線で追い切れずとも、直感だけは深く刻む。魂は消えないのかもしれない。ならば集めて縫い合わせれば──わたしは手紙の束を抱え、屋根裏へ戻り、筆と墨を取る。黒い髪が肩に触れ、筆先が震える。文字にならない模様が紙面で拡散し、魂の残光が風に揺らぐ。(せい)と死の境界線が、まるで薄氷のように透けて見える晩。

 月が雲間から顔を覗かせ、割れた天窓の硝子を淡く照らす。その光を視界が捉えた瞬間、意識は現在へ引き戻される。骨でできた指が白髪を払う音が微かに響く。あれから邸は荒れ、遠縁の男の墓標は庭の片隅で倒れ、仔猫の埋葬地を覆った薔薇は枯れた。それでも記憶だけは腐敗せず、わたしの中で脈打つ。エリオーネが光、わたしが影。互いの輪郭を確かめ合う日まで、影は死を学び、(ひかり)(せい)を抱える。闇夜に伸びる影が濃いほど、光は鮮烈に際立つ。わたしは影の深さでしか世界を測れない。 

 わたしは再び歩き出す。骨の足取りを白い幻影が包み、黒い瞳は夜空の星を映す。魂の残光を探し、失われた幼年の問いを抱えたまま、扉の向こうへ。死とは何か。魂の輪郭に触れるまで、影は歩みを止めない。

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