第十話 宵闇の祭壇
夜の帳が森を包み始めていた。空にはまだ青の余韻が残り、木々の間に星の光が瞬き始めている。小道を進むリナリアとフェレリエルの足元には、木々の隙間からこぼれる月光がまだらに降り注ぎ、白く柔らかな光が地面を優しく照らしていた。
家の前に差し掛かると、温かな灯りが迎えてくれた。庭に設えられた篝火が、焔を揺らめかせながら夜気に溶けていく。その奥に、エリオーネの姿があった。
「たっだいまー!」
リナリアは両手を大きく振りながら駆け寄ると、採取してきたものを誇らしげに掲げた。
「見て見て! ちゃんと持ってきたよ!」
無邪気な笑顔を浮かべながら、手にした小瓶や羽根を光に透かしてみせる。その仕草は、まるで宝物を自慢する子どものよう。
「……エリオーネ? 何してるの?」
元気な声の中に、純粋な疑問が混じる。
「ずいぶん立派なものを用意したわね」
フェレリエルは眉を上げ、冷静な視線を祭壇へ向けた。庭の中央には、ふたつの小さな祭壇が据えられていた。滑らかな白木の板で組まれたそれは、夜の静寂の中にひっそりと佇み、篝火の明かりに照らされて薄く金色の輝きをまとっていた。
「これ、もしかして……私たちのため?」
フェレリエルが足を止め、ゆっくりと問いかける。エリオーネは静かに微笑み、彼女たちの方へと振り向く。揺らめく炎が、彼女の銀白の髪に淡い光の輪を描いていた。
「おかえりなさい」
その声音は、驚くほど穏やか。どこかに強い意志が込められているようにも思えた。
「さあ、持ってきたものを祭壇の上に置いて」
リナリアとフェレリエルは視線を交わしながら、それぞれの祭壇へと歩み寄った。ふと、リナリアは自分の手の中を見つめる。道中、しっかりと握りしめていたはずのそれらは、今になって妙に重く感じられた。
彼女が選んだものは、三つ。
一つ目は、金色の羽。柔らかな輝きを湛えたそれは、夜の闇の中でもほんのりと光を宿していた。どこかの空を飛んでいた精霊の羽が、偶然リナリアの手元に落ちたかのように見えるが、それがただの偶然ではないことを彼女は何となく感じていた。
二つ目は、透き通った樹液の小瓶。揺らすと、ゆっくりと滴が流れ、かすかに甘い香りを漂わせる。それは生命の源、木々の血脈のようなもの。大地に根ざし、長い年月を生きてきた者の証。その滴を手にしたとき、リナリアの胸には何か温かいものが灯った。
そして三つ目——漆黒の石。夜の深みを閉じ込めたような艶やかなそれは、篝火の光を吸い込むように静かに輝いていた。あの泉の底で手にした瞬間、確かに何かに呼ばれた気がした。手のひらに収めてもなお、底知れぬ引力を感じる。
フェレリエルの祭壇には、リナリアとは異なるものが並んだ。
一つ目は、青緑の苔に覆われた石。長い時間をかけて湿気を含み、じんわりとした温もりを帯びたそれは、森の静寂を映し出していた。リナリアが選んだ漆黒の石とは対照的に、柔らかく、包み込むような気配を持っていた。
もう一つは、野花の束。淡い紫や白、黄色の可憐な花々が、手の中で小さくふわりと揺れている。風に運ばれ、たまたま咲いていたものを摘んだだけのように見えたが、フェレリエルは何となく「これだ」と思って選んでいた。鮮やかではないが、どこか優しく、穏やかな存在。
「……これでいいの?」
フェレリエルが呟く。エリオーネは微笑みながら頷いた。
「ええ、あなたたちの直感で選んだものなら、それでいい」
そう言いながら、彼女は両手を掲げる。すると、祭壇の周囲に淡い光が灯った。微細な星屑のような光の粒が舞い上がり、ふわりと宙を漂いながら、二つの祭壇を包み込んでいく。リナリアとフェレリエルは、驚いたようにその光を見つめた。
「これは……?」
「これから始まるのよ」
エリオーネは優しく微笑みながら、すらりとした指を動かす。その手元から、さらにいくつかの素材が加えられた。
リナリアの祭壇には、純白の花弁 が舞い落ちる。夜闇の中で淡く光るその花は、精霊の加護を受けた聖なる植物。
フェレリエルの祭壇には、乾いた木の枝 が一本置かれる。それは年月を重ね、力を蓄えた古木の枝——まるで長い時を刻んできた知恵の象徴。
そして、最後に。エリオーネは、ひとつの 黒い液体の入った小瓶 をリナリアの祭壇に置いた。ガラス越しに揺れるそれは、夜の闇そのもののように深く、篝火の光をまるで吸い込む。
「エリオーネ……これは、一体?」
リナリアが戸惑いながら尋ねる。エリオーネはふっと微笑み、「大切なものを生み出すための儀式」とだけ答えた。フェレリエルは、わずかに目を細める。
「……また、もったいぶって」
けれど、エリオーネは何も言わずに静かに微笑んだだけ。篝火の灯りが、静かに揺れた。春の夜気はまだひんやりとしていたが、篝火の暖かさが、彼女たちの心にもじんわりと広がっていく。リナリアとフェレリエルは、祭壇を見つめながら、これから何が起こるのかを静かに待った。彼女たちの選んだものが、何を生み出すのかをまだ知らぬままに——。