第一話 雪の森の少女
森の梢が静かに揺れ、さらさらと細やかな雪が舞う。白と灰色の世界は深い沈黙に包まれ、すべての音を飲み込んでいた。
星霧の森の奥、銀樹の聖域。分厚い雲が空を覆い、光は鈍く拡散するだけ。時折、風が木々の間をすり抜け、細かな雪片を舞い上げる。
リナリアは、膝下まで埋まる雪の中を慎重に踏みしめながら進んでいた。誰も歩いていないはずの森には、細い獣道だけが続いている。雪がわずかに押しならされた跡を頼りに歩くたび、足が深く沈み、引き抜くたびに粉雪が舞った。森の奥へ進むにつれ、雪はより深く、冷気が肌を鋭く刺す。
時折、梢がかすかに軋み、枝に積もった雪が音もなく滑り落ちる。宙に漂った雪は静かに舞い、地面へ吸い込まれるように消えていった。
彼女はふっと息を吐く。冷えた空気が肺の奥まで染みわたり、白い吐息は薄く宙に漂ったかと思うと、すぐに消えてしまった。
やがて、川のほとりが見えてきた。
雪の層に覆われた水面の下では、黒い流れが絶え間なく続いている。静寂の中、その存在だけが、わずかな音を持って世界と繋がっていた。
ぽとり——。
川の端に積もった雪の塊が崩れ、静かに水へと落ちた。
白い雪が黒い流れの中に吸い込まれる。ふわりと浮かんだかと思えば、やがて滲むように形を失い、痕跡すら残さず流れていった。
リナリアは足を慎重に進め、川岸の雪の下に隠れた地面を確かめながら歩いた。足元が崩れれば、そのまま冷たい水に落ちてしまうかもしれない。一歩、一歩、雪を踏みしめ、足場を確かめながら進む。
ようやく、流れの近くまでたどり着くと、彼女はゆっくりとしゃがみこみ、じっと川を見つめた。
——なぜだろう。
この場所に来ると、心が落ち着く。ただ、こうして水の流れを見ていると、頭の中のざわめきが雪のように静かに消えていく気がした。川の音が、遠いものを呼び覚ます。指先を雪に落とし、じんとした冷たさを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。
どれほどの時間が経っただろう。風は途切れ、森はより深い静寂に包まれていた。雪は降り続け、リナリアの肩にうっすらと積もり始めていた。彼女は身じろぎもせず、ただ、水の流れを見つめていた——。
遠くで、微かに雪を踏みしめる音がする。深く沈み、ゆっくりと持ち上げられるような足音。その音は、間隔を置きながら静かに続き、やがて森の静けさに溶けていった。
「……やっぱり、ここにいたのね」
声に振り向くと、エリオーネが立っていた。彼女は厚手の毛皮のコートに身を包み、ふかふかのフードを深くかぶっている。縁には獣毛が縫い込まれ、雪の冷たさを遮るように顔を守っていた。その奥から覗く瞳は優しく、どこか遠いものを見ていた。
リナリアは黙って見上げた。エリオーネは、リナリアの母フェリオラと姉妹。それでも、リナリアにとって彼女はずっと大人に見えた。まるで、自分とは違う世界の人のように。
「探したのよ、リナリア」
エリオーネはそう言いながら、小さくため息をついた。
「こんな雪の中を、川の近くまで来るなんて……」
その言葉に、リナリアは曖昧に微笑んだ。
「……ごめんなさい」
エリオーネは答えず、リナリアの隣に立ち、川を見つめた。静かに流れ続ける黒い水。降り積もる白い雪。風が吹き、雪片がふわりと宙を舞った。エリオーネはそっと目を細め、リナリアの横顔を見つめた。
「あなた……」
小さく、呟くような声。
「お母さんに、よく似ているわ」
リナリアは息をのんだ。
「……お母さんに?」
「ええ。こうして川を見ている姿が」
胸の奥に、ふっと雪が降り積もるような感覚が広がる。リナリアはゆっくりと視線を川へ戻した。水が、ただ静かに流れていく。それは、お母さんも見ていた景色。
「……お母さんも、こうしていたの?」
「ええ。ただ、流れを見ていたわ」
それ以上のことは分からない。何を思っていたのか、何を感じていたのか。けれど、確かにお母さんは、この流れを眺めていた。リナリアの中に、得体の知れない感情が広がっていく。
「……私も、何を考えていたんだろう」
呟きながら、そっと手を伸ばした。指先のすぐ先で、雪に覆われた水が、ただ静かに流れていく。エリオーネは何も言わず、リナリアの肩に厚手の毛皮のショールをかけた。
「冷えるわ。そろそろ戻りましょう」
リナリアはまだ何か言いたかった。けれど、言葉にならなかった。風が吹き、森の梢を揺らす。雪がさらさらと舞い、どこか遠くへ消えていった。エリオーネとともに、リナリアはゆっくりと森の奥へと歩き出す。雪の中に、新たな足跡が刻まれる。