7 南から来た暴風、王女はアマゾネス
「お帰りなさいませ、殿下」
兵営から帰宅したブライアンを、今日は屋敷に居たオロールが出迎えた。
見慣れた地味なドレス姿で、静かな雰囲気を纏っている彼女を見た途端、今日の疲れが吹っ飛ぶような気分になる。
「ああ、だが流石に今日は疲れた」
「親善訪問の王女様が、兵営にお見えになる日でしたね」
ひと月ほど前。
ブライアンは父親でもあり国王でもある、ルドルフ・デュランダルⅣ世に呼び出された。
兄の第5王子から陸軍を引き継ぐ件の話かと思い急ぎ王宮に向かったが、告げられたのはそれと全く関係ない話だった。
「急だが、ホノブル王国から親善訪問で使節団が来る。数年おきの恒例行事だが、今年はちと状況が違うのだ」
挨拶もそこそこに、国王は話を切り出した。穏健で治世能力に長けた国王は、家長としても常識的で、国内も宮廷内も平和を保っている。
「使節団を率いるのはジェン・ティルナ王女で、主に陸軍施設を見学したいと言っている」
ホノブル王国とは、デュランダル王国の南にある海の、遥か彼方にある島国だ。島と言っても相当に大きな国土を持ち、周辺の島々も幾つか領土に入っている。強力な海軍を持ち概ね平和な国だが、陸軍も持っていて国内の部族に関わる治安維持を行っているらしい。
数年前に先代の国王が亡くなり、現在はその長子が後を継いで国王兼海軍大将となっている。
「確か、ホノブル王国の陸軍は、ご長女が総帥だと聞いたことがありますが、それがジェン・ティルナ王女と言う訳ですか」
「そういう事だ」
ブライアンは、思い切り顔を顰めた。
ホノブルとデュランダルの関係は良好だ。友好国と言っても良い。お互いの軍事施設を見学しあったり、情報交換することもある。だから親善使節団が陸軍内を見学したいと言うのは、特に問題はないのだが、一国の王女が来るとなれば話は別だ。ブライアンは、国王に尋ねる。
「見学期間はどのくらいでしょうか?」
半日、いや一日とか数日くらいなら、面倒はあるが何とかなるだろう。
「それがな、未定と言うことなんだ。それほど長期間、何を見学すると言うのか・・・目的が解らないのが不安でもある」
今度は国王も、顔を顰めた。
「それで、呼び寄せたのだ。断ることは出来ないので、何とかしてもらうしか無いのだ。陸軍内でも色々と事前準備があると思うが、制度上の問題があれば儂も協力しよう」
国王命令なのだから、こうなったらやるしかない。
ブライアンは兵営に戻るなり、参謀局に召集を掛けた。
「王女様の見学・・・で、ございますか。それも長期間が見込まれる、と・・・」
案の定、ビスタ少将を筆頭に、参謀の肩書を持つ全員が渋面になった。
「施設や訓練の様子を見学するだけなら、それほど時間は掛からないと思いますが、王女様は何を見学されたいのでしょうか?」
ごく常識的な発言を、1人の大佐が呟く。
「それはまだ解らん。よほどの機密文書でなければ、友好国でもあるのである程度は閲覧させても良いと言われているし、施設内も同様だと陛下は仰っていた」
第6王子中将閣下の返事を聞いて、一同は考え始めた。
短時間の見学なら問題は無いと思う。女性が足を踏み入れることを禁止する規則はないし、遠い昔だが前例もあるのだから。
「ふむ・・・先ずは、兵営に泊まることだけは諦めて貰うしかないな。通いにしていただいて・・・それでも毎日となれば、色々と・・・」
ビスタ少将の発言に、ブライアンは頷いて答えた。
「迎賓館の方に泊まってもらう事にしよう。その辺りは陛下にお任せすれば大丈夫だ」
発言を即座に採用してもらった少将は、機嫌が良くなったようだ。それを見て、ブライアンは命令を下す。
「それと兵営内の警備に、敷地内をパトロールする任務をベルトラン大尉の歩兵隊に任せる。通常訓練のランニング等を敷地内を循環するようにすれば大丈夫だろう」
ベルトラン大尉の歩兵隊は、高速移動部隊として日々足を鍛えている。
「おお、それは良いアイデアですな、中将閣下」
機嫌が良いままに、ブライアンの言葉を手放しで褒めるビスタ少将だ。それに勢いづいたのか、彼以外のメンバーも大きく頷く。
けれど兵営内のパトロールは、オロールが襲われた時から、何とかしたいと考えていたブライアンだ。一度決めてしまえば、使節団が帰った後も継続するのは容易いだろう。
「それと、この際規則の明文化もしておこう。兵営内に女性がいることに関して、今は特に禁止とはなっていないが、暗黙の了解として各自が女性が足を踏み入れる場所では無いと思っているはずだ」
一同は、何度もうなずいて肯定を現した。
「そこで規則に追加して、『王命による許可がある場合以外は、女性の入営は禁止する』と言う一文を入れる。規則の変更に関しては、陛下から許可をいただいているからな」
これならば、今回は対外的にも非難されることはない。規則として明文化されれば、例の王女が長期滞在、と言うか長期見学で毎日来ても問題は無くなる。
これなら大丈夫だろうと、一同は賛意を表した。
実はブライアンには、今後を見据えての事だったのだが、それを知るのはオーギュストとデュース以外には誰もいない。
そして急いで実務的な準備を整え、ホノブロ王国の親善使節を迎える日になった。
それが、今日だった。
オロールと一緒に夕食をとりながら、ブライアンは今朝からの出来事を詳しく語った。
「朝一番で、王女たちが兵営に来たんだが、その王女と言うのがなかなかの女性だったんだ」
自国の軍服に身を包んだ王女は、燃えあがるような赤毛を後ろで1つに束ねていた。護衛の男たちを数名同行させていただが、体格の良い彼らと同じくらいに背が高く、鍛え上げた身体が服の上からも解るほどだった。
「ジェン・ティルナ・ホノブルでございます」
礼に適って頭を下げた王女に、ブライアンは中将として礼儀正しく挨拶を返す。続いてビスタ少将が、将官を代表して挨拶をした。
「ビスタ少将でございます。王女殿下に置かれましては、御自国同様に気兼ねなくお過ごしくださいますように」
王宮マナーの手本のような言葉に、王女は不敵な笑みを浮かべた。
「その言葉、待っていた。お言葉に甘えるぞ、良いな?中将閣下」
ジェン王女は腰に手を当ててグッと胸を張ると、ブライアンの顔を覗き込む。長身の彼に近づいても、頭半分程度しか身長差がない。
「あ・・・ああ、どうぞ・・・」
度肝を抜かれたブライアンは、突然変わった王女の雰囲気に戸惑った。
「よし、お墨付きも貰ったな。では、こっちの希望を伝えておくぞ」
ジェン王女は、軍服と中のシャツの前ボタンを3つほど外して、ホッとしたように大きく息をついた。豊かな胸の谷間が露わになり、一同は思わず目をそらす。
「これで楽になった。で見学だが、小難しい説明を聞いても頭に入らんので、実際に体験して学ばせてもらう。今日から、この兵営で行われる訓練に参加するからな」
「はぁ?」
ブライアンを初め、ビスタ少将も他の将官たちも、口を揃えて声を出す。
「何を呆けてる?自国同様にと言ったのは、そっちだろうが。士官、いや1人の兵として扱ってくれて問題ない。心配は無用だ。見てりゃ解る」
ワッハッハ!と豪快に笑う王女だが、ではどうぞとあっさり答えられる訳もない。
準備があるので暫し別室でご待機くださいとお願いして、ブライアンたちは急いで参謀会議に入った。
ビスタ少将の言葉を咎めるものはいなかったが、彼は身を小さくして大人しくしている。実際こうなったら、もうどうしようもないのだ。
結局、緊急連絡を各部隊に送って、王女が訓練に参加する旨を伝えたのだった。
「ホノブル王国の陸軍大将が、王女様であることは存じておりました。武勇に優れた女傑だという噂ですね」
ブライアンの話をひと通り聞いた後、オロールは落ち着いた声で相槌を打った。
「ああ、俺も聞いてはいたが、まさかあそこまで『アマゾネス』だとは思わなかったぞ。乗馬訓練から始まって剣や槍の訓練、体力づくりのランニングや筋トレなんぞも全て楽々とこなしていたんだ」
初日でもあるし、と一応ずっと付き添うように王女を観察していた面々だが、最後は見ている方が疲れを覚えるくらいだった。
アマゾネス王女は、兵や下級士官の中にいる方が楽しいようで、磊落に笑いながら、豪快に野次まで飛ばす。
「なぁにやってんだてぇの!それでもデュランダル王国の兵士かよ!」とか
「おっ!やるじゃねぇか。女が見たら、惚れ惚れすんぞ~~」とか
最後には完全に溶け込んで、彼らから仲間同然の待遇を受けてもいた。
そして夕方、全てのスケジュールをこなした後で、王女はブライアンに向かって告げた。
「良い運動になった。当分は毎日来るからな。出来ればもっと、実戦的な訓練にも参加したところだ。殿下は訓練に参加しないのか?明日辺り、手合わせして貰いたいぞ」
王女は彼の胸板を拳で軽く小突くと、ニヤリと笑って見せる。
「ああ、そうだ。兵たちには言っておいたが、ここにいる限り王女とは呼ぶなよ。ジェンでいいからな。少なくとも殿下様とは身分的には対等だろう?」
ブライアンは苦虫を嚙み潰したような表情で、けれどはっきりと承諾の返事はしないで誤魔化した。
「度肝を抜かれたと言うのもあるが、気疲れした。ああいう人間は嫌いではないが、王女となるとやはり困惑する。舞踏会で相手をする御令嬢よりはマシだが、妙に苦手な気分になるんだな」
こちらの事など何も考えず、グイグイ来るところが苦手なのかもしれない。
「それは、お疲れ様でございました。規則が改正された以上、私はもう兵営には行かれないので、明日の殿下の土産話を楽しみにしております」
オロールは淡々と言った。軍の規則に新たな項目が加わって、王命でない限り女性が兵営に入ることが出来なくなったのを言っている。
「む・・・いずれ入れるようにするが、それまでは暫く我慢してくれ」
親善使節が帰ったら、規則をもとに戻すという事なら、朝令暮改に近いだろうと思ったオロールだったが、とりあえず軽く頷くだけに留めた。
それから毎日のように、ジェンはブライアンの執務室に来ては、手合わせを求めた。彼は色々な口実を作り出してはそれを退けていたが、やがてそんな口実も尽きてしまう。
結局ジェンが要求する通り、王子と王女の手合わせは実現してしまった。
先ずは、乗馬技術。
障害レースとして馬場を数周する競走となったが、これは呆気なくブライアンの勝利になった。それでもジェンの方は、なかなかの腕前だったと言えるだろう。愛馬では無かったという事を考慮すれば、その着差はもっと縮まっていただろうから。
「チェッ、悔しいじゃないか。でもまぁ、まだまだだって事はよく解ったな。もっと鍛錬せにゃならん。訓練の方法なども、学ばせてもらわんとな」
馬から降りたジェンは、腕組みをしながらキッと馬場を眺める。
「確かに、訓練方法は大事だが。それを学んで持ち帰って、自国の陸軍を強くするつもりなのか?」
ブライアンは乗馬で良くなった機嫌に後押しされ、自分から話しかけた。
「ああ、知っての通り我が国の陸軍はまだまだだ。島国なので海軍に重きを置くのは当然だが、万が一島に上陸されるようなことになったら、最後の盾になるのは陸軍だろう?」
今は広い島内で、災害救助や部族間の争いを鎮圧することを主な仕事としているが、何時だって最悪の事態に備えておくことが大事なのだと知っている王女と王子である。
「兄上が国王になって、それから陸軍はワタシが統べることになった。元々こういう生まれつきだからな、天職だと思うだろ?」
ああ、とブライアンは頷く。
「だけどなぁ・・・兄上や母上が、煩いんだ。女としての幸せも掴めってサ」
ジェンは足元の小石を蹴飛ばした。
「こっちだって、好みがあるっつうの。自分より弱い奴は、男の範疇に入らないんだわ、これが」
くるりと振り返って、彼女はブライアンに指を突き付けた。
「っつうワケで、次は剣術だな」
そして1週間後、今度は剣術での手合わせとなった。
ジェンの希望で、刃は潰してあるが真剣での立ち合いとなった。ブライアンとしては、ジェンはあれでも王女であるから怪我などしないようにあしらって、気が済むまで付き合う心づもりだったが、始めて数合刃を合わせただけで相手の技量が解ってしまった。
(手加減するのが、難しいかもしれない・・・)
女性なら片手で持ち上げることさえ難しい重量の剣を、彼女は何の苦も無く振るってくる。また体の捌き方が非常に速く、彼女の攻撃をかわすには集中力が必要だった。
(・・・本気の防御・・・しかないか)
ブライアンは、そうと悟られないよう注意しながら、彼女の剣を受け流し始めた。そして長い時間の後、漸くジェンは剣を放り出して地面に胡坐をかいた。
「参った!・・・あ~~、剣もダメかぁ。これでも国じゃ、一番なんだがなぁ。負け惜しみになっちまうが、あんまり得意じゃないんだなぁ」
ブライアンは作法通りに礼をすると、彼女の目の前に片手を差し出す。
「いや、良い手筋だった。だが、そうすると得意なのは何なのだ?」
「双剣さ。こっちじゃあまり使われない武器だろ?でもホノブルじゃ、一般的なんだ」
ジェンは、素直に彼の手を掴んで、ヨッコラセと腰を上げた。流石に疲れたらしい。
「では、次は双剣でやるか?」
「イイのか!」
眼を輝かせたアマゾネス王女に、ブライアンは鷹揚に頷く。彼女との手合わせは、少しだけ面白くなっていた。
そして更に1週間後、双剣同士での手合わせになった。
何だか恒例の観戦行事になったようで、士官も兵士も集まっている。そんな衆目が集まる中、ブライアンはあっさりとジェンに負けた。
風のように飛び込んできたジェンの双剣の片方しか弾くことが出来ず、あっと言う間に喉元に刃を当てられたのだ。
「参った・・・流石だな」
「フフン、だろ?・・・だが、もしかして双剣は初めてなのか?」
「ああ、手合わせ前に練習はしたが、一朝一夕ではどうにもならんな」
負けたことは純粋に悔しいが、妙に清々しい気分だった。性別がどうであれ、技量の優れた相手とやりあうのはそれだけで面白い。
「これで1勝2敗か。そうなると、後は格闘術だな」
女性相手に格闘術などとんでもない、といつもなら考える筈だがブライアンはサラリと承諾をする。もうジェンが王女と言う認識は、綺麗に消し飛んでいた。
そして格闘術の手合わせは、多少の時間が掛かったものの、ブライアンの勝利で終わる。ジェンは、本気で悔しがった。
「チックショウ!・・・悔しいったらないじゃないか!」
ギリギリと唇を噛み締めて言い放つアマゾネス王女だが、やがてきっぱりと立ち上がってブライアンに向き直った。
「まだまだ修行が足りないって、嫌と言うほど身に染みた。いつかきっと、勝って見せるから覚えておけよ!」
子供っぽい捨て台詞を吐いて足音も荒く去ってゆく彼女を見ながら、彼は思わず口元に微笑を浮かべていた。
(面白い女性だ。友人としては、悪くない存在だな)
異性の友人、と言うのも悪くない。
実際組み合って、くんずほぐれつの手合わせをしていた間も、彼女が女性だと感じることは無かった。
とは言え、既に3か月は経とうとしている親善使節の滞在に、そろそろ帰って欲しいと痛切に思っているブライアンだった。
けれどそれから数日後、漸く親善使節団は帰国の意向を伝えてきた。王国は彼らが帰国の途に就く前日、慰労と今後の友好関係を願う意味でのパーティーを開くことにする。
帰国を決めた王女たちは兵営で挨拶をし、無礼講的な酒盛りを行って貰って別れを惜しんだ。
酒盛りが終わって長らく宿舎としていた離宮に戻る時、ジェンは見送りに出ていたブライアンにいきなり話しかける。
「まだ飲み足りない。これから一緒に夕飯でもどうだ?離宮でだが、我が国の郷土料理を出そう。話したいこともあるのでな」
ジェン・ティルナ王女はきっちりと胸元を合わせた軍服で、礼儀正しく誘った。
「まだジェンと呼んで良いのなら、それは遠慮しておこう。生憎今日は、終わったら直帰すると屋敷の方に伝えてあるのでな」
「つまり、友人としての誘いなら断るという事か?」
「友人なら、相手の都合は受け入れるものじゃないか。次の機会を待てばいい事だろう?」
「・・・そうだな。王女として誘うなら、許可も必要になるだろうしな。それでイイ」
けれどジェンは、まだ踵を返そうとしない。
そして暫し考えていたが、やがて徐に口を開いた。
「ホノブロ王国に来て欲しい、ブライアン。お前が気に入ったんだ」
そう言えば以前、オーギュストに言われたことがあった。
「あのアマゾネス王女様、殿下に気があるように見えます」と。
自分より弱い男は、男の範疇に入らないと言い放った彼女だ。ブライアンを、男として認めたという事なのだろう。
「お断り申し上げます。ご自身も、自分が統べる軍を放り出して異国へ行くことなど、考えられないことはお解りではないかな?」
ブライアンは即座に、きっぱりと答えた。
「だから、そっちが来るように誘ったのだ。デュランダル王国の陸軍大将は、兄の第5王子なのだろう?」
「確かにそうだが、実際任されているのは自分なのでね」
おそらく使節団が帰国したら、延び延びになっていた陸軍大将への昇進は直ぐに行われるだろう。けれど、内部事情を伝える必要はない。
「・・・ふむ、その気持ちは解るな。では、別居婚でも良いぞ」
「はぁ?」
内心その手の話が来るかもしれないと思わないでもなかったブライアンだが、あまりにも直球な王女の言葉に驚いた。
「身分的には釣り合いが取れるだろう?友好国同士でもあるしな。ワタシとしては、逞しい勇者になる子が欲しいので、こっちの都合が良い時にホノブルに来てくれれば良い。いくらワタシより強い男でも、氏素性の解らない相手では産まれる子も不憫だしな」
それはつまり、妊娠しそうな時を見計らって通ってくる夫でも構わないという事だろうか。
(冗談じゃない!)
ブライアンは、友人としてならこれからも交流を続けたいと思っていた気持ちが、急激に冷めてゆくのを感じた。もうこれ以上、関わりを持ちたくないとさえ思ってしまう。
「お断り申し上げますな。自分にはもう、好きな相手がおります」
当然、オロールの事だった。
「へ?」
王女は、頓狂な声を上げて彼の顔を見た。
ここ3か月で、彼に女性の影は見えなかった。独身主義かとさえ思っていたほどだ。
「そ、そうか・・・・では、最後のパーティーでまた会おう」
けれどジェンは、王女らしい威厳を取り戻して、あっさりと背を向けた。
そんな彼女に、ブライアンは体中の力が抜けるほどの安堵を覚えていた。
親善使節団の帰国パーティーは、つつがなく終了した。
王女を筆頭とした使節団が国王に挨拶を済ませ踵を返した時、ふと国王が気づいた。
「おや、ブライアンがおらんようだが?」
陸軍総帥である第5王子はいるが、実質的に王女の面倒を見た彼が、この場にいないことが不思議だ。
「国王陛下、実は私、殿下に振られてしまいましたの。それを気遣って、この場におられないのだと思いますわ」
王女は顔を伏せながら、弱々しく呟いて見せた。鍛え上げた身体が、この時ばかりはか弱い女性に見える。なかなかの演技派でもあったようだ。
「お、おおそうか。それは、気の毒なことをしてしまった。どうかこれに懲りず、これからも友好国として末永くよろしく頼むぞ」
国王は、その場を収めるべく儀礼的な言葉を与え、使節団を送り出した。
王女一行がパーティー会場を出るや否や、オーギュストとデュースは揃って別廊下へ飛び出した。
「おかしい!」
「そう言えばパーティーの半ば頃、殿下が出てゆくところを見かけたが、それ以降お姿を見ていないな」
彼が、自分たちに何も言わず姿を消すことなど有り得ない。王女の求婚を断ったことさえ、直ぐに伝えられていたのだから。
「まさか、とは思うが・・・」
「俺は、念のため王宮内を隈なく探してみる」
「よし、任せた。俺は、オロール様に助言を求めてくる」
腹心の部下2人は、顔を見合わせると頷いて別方向へと走り出した。
その頃オロールは、天気が良いのでシャルに乗って散歩にでも行こうかと考えていた。着替えるのが少し面倒なので、何時ものドレスにズボンだけを身に着ける。
兵営に行かなくなってからは、ずっと屋敷内で過ごしていた彼女は、1日のうち数時間は馬上で過ごしている。それまで日課だった午睡をしなくても、夜まで体力が持つほどになっていた。
そんなのんびりとした雰囲気の屋敷に、突然駆け込んできたのがオーギュストだった。
「オロール様!大変です!殿下が・・・」
オーギュストは、要領よくかつ詳細に事のあらましを彼女に説明する。
オロールは、いつもの冷静な表情は変えなかったが、一度だけギュッと目を瞑り、やがて眼を開けると意志の光が満ちた眼差しを向けた。
「連絡ありがとうございます、オーギュスト大佐。今後の行動について、私に一任させていただけますか?」
「勿論です。そのために、真っ先にここに来たのですから。私とデュースを、お役立てください」
騎士の礼を取ってきっぱりと告げる彼は、その親友共々オロールに信頼を寄せていた。
「私は直ぐに兵営の情報局に向かいます。貴方は王宮に戻って、デュース大佐に確認をした後、彼と一緒に兵営に来てください。おそらく王宮内では、まだ殿下のお姿が見えないことを重大事と捉えていない筈です。ですから、誰にも気づかれないようにお願いします」
本来ならば命令も無いのに、勝手に出てゆくのは拙いだろうと思う。これはある意味、軍の規律としては処罰対象になるかもしれない行動だ。
それを解っていてオーギュストにそう告げたのは、その覚悟はあるかと言う意味も含まれていた。
「了解しました。速やかに実行します」
どれだけ急いで対応しなければならないかは、彼にもよく解っていた。
オーギュストは再び馬を駆って王宮に戻り、オロールはシャルに乗って兵営に向かった。
兵営の門番に、訳あって女装中のオロール・アイアモンドだと適当に誤魔化して、彼女は中に入った。そしてオーギュストとデュースが兵営の情報局に入った時、オロールは既に幾つかの行動を終えていた。
「伝書鳩を飛ばしました。南の港町、サンビスタへ」
彼女の言葉に、2人は頷いた。
ホノブロ王国はデュランダル王国の南に面する海の向こうにある。使節団たちも港町サンビスタに船を泊めているのだ。サンビスタまでは馬車なら2日ほどの行程だが、伝書鳩なら数時間で到着するだろう。
「私たちも直ぐに向かいます」
事も無げに言うオロールに、オーギュストとデュースは驚いた。
「え?・・・オロール様も行かれるのですか?」
「状況は流動的です。現地でないと、計画は立てられません。時間との勝負になる可能性もあります。ここから指示を出していては間に合わなくなるかもしれません」
シャカールと言う馬になら、何とか乗って行けるだろう。いや、乗せていって貰えるだろう。
何が何でも実行するという気構えが、彼女の身に溢れているようだ。
「プボを連れてきてください。殿下を取り戻したら、必要になる筈ですし、それ以外にも役立つことがあるかもしれません」
厩の前で準備をする2人に声を掛け、オロールはシャルに跨って走り出した。
「オーギュスト、お前はオロール様と先に行ってくれ。俺は必要と思われそうな物を用意して、プリンスボンドを連れて後から出る。途中で追いつくようにする」
デュースの言葉に頷いて、オーギュストも愛馬に跨ってオロールの後を追った。
数時間馬を走らせる中で、オーギュストは感心していた。
オロールの乗馬は決して上手と言うわけでは無いが、基礎はしっかり出来ている。シャカールの方も、乗り手が疲れないよう気遣っているように見えた。
(あの性悪馬が、なぁ・・・)
人嫌い、訓練嫌いで気性難なシャカールを、オーギュストも良く知っていた。
けれど、オロールの方はそろそろ体力が怪しくなっているようだ。時折身体がふらついて、慌てて元の姿勢に戻る様子が見て取れる。
「オロール様、そろそろ馬に水を飲ませないといけません。お急ぎなのは解りますが、馬が潰れてしまっては元も子もありませんので」
オーギュストは馬を寄せて、彼女に声を掛けた。乗り手よりも馬の方が、その言葉を理解したようで、ゆるゆると速度を落とす。オロールはそこで初めて解ったらしく、軽く頷いて馬の動きに従った。
小川の辺で馬に水を飲ませながら、オーギュストは彼女にも水を飲ませようと思うが、生憎コップの1つも持っていなかった。
(自分の荷物くらいは、引っさらって来るべきだったな)
自分は手ですくって川の水を飲めばよいが、御令嬢ではそうもいかないだろう。どうしたものかと考えるオーギュストの傍に、馬から降ろしてもらって座り込んでいたオロールが、立ち上がって近づいて来た。
「私も、水を飲みます」
そう言って川の傍にしゃがみ、彼女は白い手で水をすくって口を付けた。
「・・・・川の水を飲んだのは初めてですが、美味しいものですね」
やがてそう言いながらオーギュストの方を振り返った彼女は、相変わらずの無表情ではあったが、彼を信頼している雰囲気を纏っている。
(殿下がこの方に惹かれるのが、よく解る)
一見冷ややかに思える彼女の表情や態度だが、なぜか不思議と解るのだ。
そろそろ日が傾いてきていた。野宿をする場所を探していたオーギュストの耳に、後方から馬2頭分の蹄の音が聞こえる。
「ああ、やっと追いついたか、オロール様、デュースがプボを連れて来たようです。ここで待ちましょう」
そこは街道から少し離れた、大きな岩の陰で見通しも悪くない。野盗や夜行性の動物に狙われる危険も少なそうだと判断したオーギュストは、オロールを馬から降ろしてデュースを待った。