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風を紡ぐ   作者: 甲斐 雫
第1章 デュランダル王国
6/43

6 温室咲きの か弱い花ではなかったが

 小姓見習いと間違われて、その手の性癖がある不良士官にいきなりキスをされて、思わずその舌に嚙みついたオロールは、殴り飛ばされて地面に倒れこんだ。

 目の前に火花が散って気が遠くなるが、ここで意識を手放したらとんでもない状況になる。

 オロールは、歯を食いしばって気を失うまいと努め、何とか目を開けて立ち上がろうとした。

 そんな彼女の目の前に、美しい栗色の大きな塊が出現した。


 オロールは気づかなかったが、殴られた直後、馬房の方から何かが破壊される音が響いた。

 それは、馬房に戻された尾花栗毛の馬、シャカールが馬柵棒を圧し折って飛び出した音だった。

 シャカールは凄い勢いで、士官たちとオロールの間に突っ込んでくる。怒り狂ったようなその姿に、男たちは悲鳴を上げて跳び退いた。

「ぅわっ!」

「なっ、何だっ!」

 栗毛の馬は、士官たちと彼女の間に割って入ると、威嚇するように前脚を高々と上げる。鼻息も荒く猛々しく睨みつけるシャカールは、本気で男たちに攻撃を加えそうだ。


 その少し前、ブライアンは遠く離れた馬場で、オロールが数名の男たちに囲まれていることに気付いた。

「拙い!戻るぞ、プボ!」

 全力で駆け戻る馬上から、彼女が殴り飛ばされて、その直後に栗毛の馬が乱入する様子が見て取れる。

「あれは・・・シャカールか!飛び出して来たんだな」


 地べたに倒れ伏したオロールの身体に、蹴りを入れようと身構えていた男が、慌てて後ずさりをしていた。騒ぎを聞きつけて、厩務兵たちも集まってくるだろう。

「奴らは、シャカールに任せる。プボ、彼女を救出するぞ!」

 とにかくあの場所から、オロールを遠ざけることが最優先だ。驚きに続いて沸き上がって来た怒りを何とか抑えながら、ブライアンは漆黒の馬に伝えた。


 主人の意を正確に受け取ったプボは、シャカールを何とか取り押さえようと苦労している男たちの横をすり抜けた。不真面目で訓練もさぼりがちだった士官たちは、栗毛の馬の轡さえ取れないでいる。

「シャカール!後は任せた!」

 ブライアンはそう怒鳴ると、手綱を右手にまとめて鞍を掴む。そして身体を左側に思い切り倒し、僅かに速度を落としてくれた黒馬とタイミングを合わせた。

 何とかふらふらと立ち上がったオロールは、突然の浮遊感にギュッと目を瞑る。

 その身体は、彼の左腕に掬い取られて、しっかりと抱えられていた。


 遠い異国の騎馬民族の乗馬術であるその動作を、騎手も馬も習得済みだった。

 左腕1本で人を攫い上げる騎手の膂力も、背負う重量の傾きに対応する馬の能力も、凄いとしか言いようがない。


 ブライアンはそのまま馬を駆り、人気が無い場所まで来るとオロールを馬上へ引き上げて座らせた。

「オロール!大丈夫か?・・・殴られたんだな?何でまた・・・」

 助け出されたことを何とか理解したオロールは、一息ついて彼の方を見た。左の頬は真っ赤に腫れ上がり、唇の端には血が滲んでいる。

「はい・・・私が嚙みついたので、怒ったのでしょう」

「は?」


 噛みついた?・・・予想外の返事だった。

 絶句したブライアンに、オロールは仕方なく言葉を続ける。

「小姓と間違われて無理やりキスされたので、気持ち悪くて、口の中に入ってきた舌に噛みつきました」

「・・・あぁ・・・それは、良くやった」

 思わずそう答えたブライアンだが、それはつまり、ディープキスで貪られたようなものだという事に気付く。

(クソっ・・・何てことだ!)

 自分が彼女から目を離したのが悪いのだ、という事は充分解っている。けれど、そんな彼女に暴行を加えた奴らに対して激しい怒りが燃えあがった。

(許さん・・・)

 目の前が赤く染まるほどの憤怒が、頭と体を支配しそうになる。今すぐにでも駆け戻って、アイツらを足腰立たないほど殴りつけたい。


「・・・でも・・・女性だという事は・・・バレていないと思います」

 顔の左側に焼けつくような痛みを感じながら、それでもやっとそれだけを告げると、オロールの身体から力が抜けた。

 ポテン、と。

 彼の胸に頭を預け、彼女は緊張の糸が切れたかのように意識を手放した。


「あ・・・・ぉぃ・・・」

 その瞬間ブライアンの胸の中で、ドキッと小さな音が響いた。

 眼が眩むような怒りが、急速に静まってくる。

 いや、まだ怒りはそのまま胸の中にあるが、それを客観的に見て取れるようになっていた。

 この心の中に生じたときめきのような衝動が、何であるかを考えるのは後回しだ。今は先に、しなければならないことがある。

「屋敷に戻るぞ」

 ブライアンは愛馬にそう告げ、腕の中のか細い身体をしっかりと抱きかかえて駆け出した。


 兵営の医者にオロールを診せるわけにはいかないと判断し、そのまま屋敷に駆け戻ったブライアンは、彼女をグラシュー女医とフォリア夫人に任せると、再び兵営に走った。



 執務室に戻ったブライアンは、早速腹心のオーギュストとデュースの両大佐を呼び出し、彼女に暴行を働いた士官たちを突き止める。

「それは、オーグ・ウォータークルーク中尉とその取り巻きの少尉たちですね。素行が悪くて、有名ですよ」

「早速、ここに呼び出しますか?直属の上官も一緒に?」

 2人の言葉を聞いて、ブライアンは大きく頷いた。


 温厚そうだが気弱に見える白髪の上官に伴われて、不良士官たちは不安そうな顔色で執務室にやって来た。中将閣下に全てを見られていたと解っている男たちは、見習士官に与えた暴行について尋問されるのだろうと思っている。

「先に言っておくが、貴様たちが暴行を加えた相手は、私が内密で預かった御令息だ。ただの士官見習いではない」

 怒りを抑えていると解る冷徹な声音で、そう告げた中将閣下の言葉を聞き、オーグ中尉らは真っ青になった。何とか言い訳をしようと口を開きかけた時、更にブライアンはピシャリと言葉を投げつけた。

「知らなかった、などと言う言い訳は通用しない。ただ表ざたには出来ない事情もある。とりあえず今回の件は、一切口外するな。表向きは普段の素行不良という事で、当分の間独居房で謹慎を申し付ける」

 本当ならこの場ですぐ、胸倉を掴んで殴り飛ばしたいところだ。いっそ半殺しの目に遭わせたいとさえ思う。けれど、その憤怒を客観的に見ることが出来ているので、何とかその程度でこの場を収めることが出来た。

 監督不行き届きを伝えられたも同然な上官は、不良士官たちと同様に蒼白になって、謝罪しながら執務室を出て行った。


「・・・閣下、オトナになりましたねぇ」

 士官たちが出てゆくと、オーギュストがふざけた様な口調で、けれど本心からそう思って発言した。

「どういうことだ?」

「いや、昔だったら怒りに任せて暴れたじゃないですか」


 海軍士官時代、ブライアンは理不尽な出来事に怒りを爆発させたことがあった。その時は、オーギュストが彼を羽交い絞めにし、それでも振り飛ばされて、最後はデュースの処分覚悟の捨て身のタックルで一緒に海に落ちて、何とかその場を収めたのだ。


「閣下のお怒りの程度は、あの時と変わらないように思えますが、今回は抑えておられましたね」

 デュースも、至極真面目な顔で話に加わった。

「オロール様がそれだけ大切な方だという事ですが、それでも理性的に収めたのを、我々は称賛しているんです。で、それが出来たのは、もしかしたら彼女のお陰なのかな、とも思うのですが?」

「え?」

 オーギュストの表面的には無邪気そうな笑顔を見て、ブライアンはポカンと口を開けた。

「閣下、オーギュストが言ったことも踏まえて、じっくりと自分の心を見つめなおしてもよろしいのではないかと考えますが?」

 大切な存在とはどういう意味でなのか、怒りの爆発を抑えられた理由は何か。

 考え込むような様子を見せた後、ブライアンは徐に立ち上がった。

「厩に行ってくる。シャカールに礼を言わないといけないしな。それから、1人で少し考えてみよう」


 ブライアンが部屋を出てゆくと、幼馴染でもある腹心の部下たちは顔を見合わせた。

「全く、恋愛に不器用すぎる主君を持つと大変だよな。いい加減、さっさと先に進んで欲しいものだよ」

「同感だ。閣下が身を固めてくださらないと、俺たちも困る」

 主君が結婚するまでは、自分たちを独身を貫くと決めていたオーギュストとデュースだったのだ。出来るだけ自然な形で見守ろうと思ってはいたが、こうなるとたまには尻を叩かなければならないだろう。一応2人とも、相手には待って貰っている状況なのだから。


 ブライアンは馬房の愛馬にヤキモチを焼かせないよう一声かけ、シャカールの元に向かった。

 栗毛の馬は、馬房の中で落ち着かなそうに歩き回っていたが、ブライアンが声を掛けると急いでやって来た。先ほど壊した馬柵棒は新しいものに変えられ、二重に取り付けてある。

「シャカール、さっきは素晴らしい働きだった。ありがとう、後で褒美をやろう」

 けれどシャカールは、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに、蹄で前掻きをして焦れている。

「ああ、オロールの事は心配ない。屋敷に連れ帰って、手当てを受けている。彼女は身体が弱いから、次に会えるのが何時かは分からないが、安心していていいぞ」

 尾花栗毛の馬は、少し考えているような素振りを見せたが、彼の言葉をを理解したように大人しくなった。

 ブライアンはそんなシャカールの鼻面を撫でると、静かに背を向けてその場を離れた。

「シャカールは、プボ並みに賢い馬だな・・・さて・・・」

 独り言を呟きながら馬場に出たブライアンは、その柵に腰かけて考え始めた。


 どれほどの時間が過ぎただろうか。

 やがて彼は柵から飛び降りると、微かに微笑んでこっそりと呟く。

「・・・俺は、オロールが・・・好きなのだな」


 初めて出会った時から今まで、彼女の全てが好ましかった。

 声も話し方も、匂いもその才能も、全て。

 身体が弱い彼女を気遣ったり、環境を整えることも、面倒などとは少しも思わず楽しかった。

 彼女の望みを、叶えてやりたいと思った。

 見たことが無いという海を、見せてやりたいと思った。


 これからもずっと、傍にいて欲しいと思っている。

 今も、彼女の事を脳裏に浮かべる度に、胸の中に暖かいものが溢れてくる。


(・・・女性を好きになるという事は、こういう事なのだな)

 恋心を漸く自覚したブライアンだが、この心がこの先さらに膨れ上がるような予感を感じていた。

 けれど、何をどうしたら良いかは全く頭に浮かんでこない。いずれはあのお節介な親友たちに相談することになるかもしれないが、今はこの想いに浸る幸せを素直に受け入れようと思うブライアンだった。



 その日の仕事を急いで終わらせ、定刻より早く帰宅したブライアンは、出迎えたフォリア夫人に早速問いかけた。

「オロールの具合はどうだ?」

「グラシュー先生によると、殴られた頬は腫れて痣になるだろうという事ですが、切った口の中の傷と同様に、しばらくすれば治るそうです。ただ熱を出してしまったので、今は沈痛解熱剤を飲んでいただいて、先ほど眠られたところです」


「そうか・・・」

 ブライアンは、ホッとしたように上着を脱いで夫人に渡す。

「でも、詳しい事情は何も話してくださらなくて。一体何があったのでございますか?」

 いつも通りに彼の世話をする夫人だが、オロールを心配する表情をはっきりと浮かべていた。

「端的に言えば、色小姓と間違われたので抵抗したら殴られた、と言うところか。俺が悪かったんだ。目を離してしまったからな」

 とりあえず暴行を加えた連中の方は、片付いている。

 運が悪かったと言えばそれまでだが、今回の事は自分に責任があると痛感しているブライアンなのだ。

 その様子を見て取った夫人は、それ以上の事を追求しなかった。


「・・・彼女の様子を見て来ても良いか?」

 着替えを済ませた彼は、少し寂しそうな表情を浮かべて尋ねた。

「いえ、あの・・・先ほど眠られたばかりなので・・・」

「顔を見るだけで良いんだ。起こさないようにする」

 夫人は、彼の雰囲気に今までとは違う何かを感じ取って頷いた。

「解りましたわ。メリアンが傍についておりますが、少しだけならよろしいでしょう」



 ブライアンは、眠っているオロールの顔を見下ろしていた。

(・・・可哀そうなことをしてしまった)

 侍女のメリアンが乗せてくれた冷やすための布を、そっとその頬からどける。

 腫れは幾らか引いているようだが、まだ赤い。痣になるだろうという事は、容易に推し測れる。

(さぞかし痛くて怖かっただろうに・・・)

 もう兵営に連れていかない方が良いだろう。いや、あんな目に遭ったのだから、また行きたいとも言わないだろうが。

 髪を切り落としてまで行きたがった彼女の気持ちを無下にしてしまった申し訳なさに、ブライアンは小さなため息をついてそっと身を屈めた。

 そして彼女の額に、優しく唇を押し付ける。


「・・・・ん・・・?」

(あ!しまった)

 オロールは身じろぎして目を開け、自分の額に指先を当てた。

「・・・あ、殿下・・・今、何か額に・・・」

「す、すまん。起こしてしまったか」


 2人の邪魔にならないように、開け放した寝室の扉の陰で聞き耳を立てていたフォリア夫人は、やれやれと言うようにため息をつく。一緒にいたグラシュー女医も、肩を竦めた。2人は顔を見合わせると、再び耳を欹てる。


「いや、その・・・キスを、だな・・・・そう、もうこの屋敷で暮らしてから、ずいぶん経つだろう?だから、その・・・家族のようなものではないか?」

 しどろもどろになって言い訳をするブライアンは、耳まで赤くなっている。

「家族、ですか?・・・家族と言うものは、そうやってキスをするものなのですか?」

 けれどオロールは、そんな彼の様子に気付かず、軽く首を傾げた。

「ああ、そうだが・・・寝る前とか、起きた時とか・・・『良い夢を』とか、怪我や病気の時は『早く良くなれ』とかの気持ちを込めてだな。もしかして、知らないのか?」

「はあ、すみません。そういう経験は記憶にないので・・・父母や姉や弟が、私の部屋に来ることもあまりなかったものですから」

 父か母のどちらかが、週に一度くらいは様子を見に来たが、二言三言、話をするくらいで帰って行った。世話をする侍女や主治医の報告の確認、という程度だった。


(・・・彼女がいた場所は、温室なんかじゃ無かったんだな)

 ブライアンは改めて、オロールが育った環境が暖かく優しいものでは無かったのだと解った。

 公爵家の体面を保つため、きちんと世話をされていたが、家族愛とは程遠い世界だったのだろう。身体が弱いという事で外界から隔離され、ただ書物を読み漁ることだけが楽しみだった時間。

 それでも彼女は、制限された生活の中で、自分自身を守り通した。諦めることばかりの日々でも、本を読み考えて、将来役に立つとも思えない才能を伸ばしていった。

 それは紛れもなく、彼女の芯の強さを感じさせる。


「あの・・・何か御用でしたか?」

 それきり黙ってしまったブライアンに、何か拙いことを言ったかなとは思わないでもないが、今はそれよりも伝えたいことがあるオロールだ。

「あ、いや・・・そういうわけでは無いが・・・」

 ただ顔を見たかっただけだ、とは言えない。

「では、私の方から・・・」

 オロールはゆっくり体を起こしながら話し始めるが、彼は慌ててそれを押しとどめようとした。

「起きなくていいぞ。まだ痛むのだろう?」

「いえ、大丈夫です。大したことはありませんし・・・痛みも大分引いていますので」

 それは薬のせいじゃ無いのか、と言いたいブライアンだが、とりあえず彼女の思い通りにさせた。


「あんな騒ぎを起こしてしまって、申し訳ありませんでした。助け出してくださって、ここまで運んでいただいて、本当にありがとうございました」

 いつもの落ち着いた口調で詫びと礼を言い、静かに頭を下げる。

「いや、俺の方が悪かった。あんな場所に1人にしてしまったんだからな。奴らはもう、きっちり処分したので大丈夫だ。口外無用と釘も刺してある」

「お手数をお掛けしました。次からはもっと、周囲に気を付けて行動するよう、充分に気を付けます」


「えっ!・・・次?」

 この御令嬢は、また兵営に行くつもりでいるのか。


「はい、明後日には行かれると思います。・・・あの・・・もう駄目でしょうか?」

 呆気にとられたブライアンを見て、不安そうな口調になるオロールだが、ドアの向こうではフォリア夫人とグラシュー女医も同じように驚いていた。

「・・・駄目とは言わないが・・・あんな目に遭って、怖くなったのではないか?」

「いいえ、別に怖くは・・・確かに痛かったですが、自分が気を付ければああいう状況になることは無いと思いますし。何より、まだ厩しか見せてもらっていないですから」


 ブライアンは、彼女の言葉に、もう一度目を開かされた気分になった。

 病弱だが芯の強い御令嬢に、初志貫徹の精神力の強さが見える。一度決めたことはやり通すという、意志の強さがはっきりと解った。

(これは・・・頑固と言っても良いくらいかもしれない)

 それでも、そんな彼女がより素晴らしく思えて魅かれる。


 結局ブライアンは承諾し、オロールは言葉通り翌々日にはまた兵営に連れて行って貰ったのだった。その頬に青痣を残しながら。


「それで、今日はどこを見学したいんだ?」

「出来れば、情報局を」

 情報局とは、少し前に新しく設立された陸軍内の部署だ。以前は伝令部としてあった小さな組織を、ブライアンが規模を大きくして作り上げた。

 オロールから『情報の速さと質』の大切さを教わった彼は、人員を増やし施設を拡大し、組織的に情報収集が出来るものを組み立てたのだった。


「そうだな、俺としても是非見て欲しい。情報局の長はオーギュスト大佐なので、一緒に行って貰おうか」

 社交的で明るい人柄のオーギュストには、うってつけの役職だろう。彼自身の交友の広さは、情報局に入る様々な知らせの裏付けになることもある。

 ブライアンは上機嫌でオーギュストを呼び寄せると、3人は揃って執務室を出た。



 情報局は、それだけで1つの建物になっていた。平屋だが、広い屋上には伝書鳩の小屋が幾つも設置されている。軍馬の厩とも近く、情報局用の伝令馬の施設も併設されていた。

「伝書鳩も数を増やして訓練中です。国内の街には全て、相互連絡が出来るようにしています。今は大きな村から順番に、街と同じように出来るよう進めているところですね」

 建物の周囲をぐるっと案内しながら、オーギュストが楽しそうに説明する。

 頷きながら歩くオロールの楽しそうな雰囲気にいささか妬けて、ブライアンが口を挟んだ。

「以前は、伝令は部隊の役の1つに過ぎなかったんだ。せいぜい1人か2人程度で、その采配は隊長にあった。今はそれらすべての伝令は、ここで訓練を受けることになっている。資質の向上と安定を目的としてな」

 より早く、正確かつ確実に情報を持ち帰るため訓練を、人馬共に日々受けているという。


 短期間にそこまでの施設や組織を作り上げた陸軍中将第6王子の手腕に、オロールは凄いとしか言いようが無かった。

 尊敬の眼差しを素直に向けるオロールに、ブライアンはただ嬉しくて堪らない。

 自分の恋心に気付いた彼だったが、恋愛的な意味など無くても、自分に注目してくれるならそれだけで胸が躍るのだ。それが、軍事的才能への尊敬だとしても。


 建物の中に入ると、そこは完璧に実用的な職場になっていた。

 部屋のあちこちには、大きな地図が広げられた机が幾つもある。棚には資料が整理整頓されて並び、大きな掲示板には、様々な伝達事項を書いた紙が貼られていた。局員は士官以外にも兵士が多く居て、皆忙し気に立ち働いている。

「ここにいるのは、自ら志願した者ばかりなんです。兵営内でも、頭脳労働の方が性に合っている者って結構多いんですよ」

 日々の苦しい訓練より、伝書鳩の世話や訓練、集まってくる情報の整理などの方が好きだと言う者は多いのだろう。


「あ、これは失礼いたしました。中将閣下、大佐殿」

 書類の束を抱えていた1人の士官が、慌てたように駆け寄って来た。

「いや、構わない。それよりオーギュスト、今でなくて良いから、例の件を処理しておいてくれ」

 それは、ブライアンが彼に頼んでおいた事だった。


『オロールがここで資料などを見たいと言ったら、自分たちがいなくても要求を叶えるように』


 オーギュスト大佐は、ニッコリと笑ってお任せくださいと答え、早速士官に指示を与えた。

 彼ならば、オロールの正体を明かさずに便宜を図ることが出来るだろう。ブライアンは満足げに、大きく頷いた。


 ひと通り情報局を見学した後、オーギュストをその場に残して、ブライアンはオロールを伴って執務室に戻ろうとする。そこでオロールは、彼の服の裾をそっと引いて、小声で囁いた。

「あの・・・厩に行きたいのですが」

 女性であることを悟られないよう、出来るだけ声を出さないようにしているのは解るが、そんな子供じみた動作にさえ、彼女を可愛いと思ってしまうブライアンである。

「ああ、そうか。シャカールのところだな?」

 オロールはこくんと頷く。

 この場で抱きしめたくなるような可愛さだが、彼女の無表情がそれを拒んでいるようにも思えた。

「では、行こうか」

 内心を悟られないようコホンと小さく咳払いをして、ブライアンは厩舎へと足を向けた。



「シャル、あの時はありがとう」

 馬房から頭を出した栗毛の馬の鼻面を優しく撫でながら、オロールは人に話すように心を込めてお礼の言葉を掛けた。

 気難しいはずの馬は、更に頭を突き出してくる。そんなシャカールの頭を抱きしめるようにして、彼女は更に話しかける。

「何かお礼をしないといけないけど、何も持ってきていないから・・・これで、ごめんね」

 オロールは綺麗な馬の顔に、優しくキスをした。


(えっ!・・・おいっ!)

 馬に嫉妬して、思わず胸中で叫んでしまったブライアンだ。

(・・・俺だって、してもらったことは無いのに・・・)

 羨ましさに、こっそりシャカールを睨みつけてしまうが、馬の方はそれに気づいたのか、完璧なドヤ顔を寄越して見せた。

(まさか、ライバルになるのか?)

 馬と?

 馬鹿々々しいかも知れないが、一瞬本気で考えてしまった。


「閣下、シャカールですが、昨日から急に真面目に訓練を受けるようになったんです。今朝もしっかりと指示を理解して、その通りに動いていました。どんな心境の変化だ、って調教担当者が驚いていましたよ。しかも賢くて、覚えがすごく早いそうです」

 傍にいた厩務兵が、自分の事のように嬉しそうに報告する。担当する馬が褒められるのは、我が子を褒められるのと同じことなのだろう。

 思っていた通り、シャカールは賢い馬だ。ブライアンは昨日から考えていたことを彼女に告げた。

「シャカールを引き取って、屋敷に連れてゆくか?」


 屋敷には専用の馬車と馬がいて、優秀な厩番もいる。馬車馬以外にも、たまにプボを連れ帰ることもあるので、馬房は余っていた。

「よろしいのですか?」

 驚きに目を丸くしたオロールだが、乏しい表情でも嬉しさが表れていた。

「ああ、今すぐと言う訳にはいかないがな。準備を整えて・・・この際、うちの厩も改築しよう。その間には、シャカールの訓練も終わるだろう。うちの馬になれば、好きな時に乗馬練習が出来るだろう?無理をしないで少しずつやっていけば、そのうち乗れるようになるんじゃないかな。屋敷の裏手に、畑や果樹園があるのは知っているな?」

 嬉しそうな彼女がただ愛しくて、彼は饒舌に問いかける。

「はい、知っています。以前、散歩でそちらに行ったことがありますので。でも帰りが遅くなってしまって、夫人にもう行かないように言われてしまっていますが」


「確かにあっちの方は広いし、人気も少ないので心配してのことだろうが・・・最初は屋敷近くの庭で練習して、上手になったら馬で散歩すればいい。フォリア夫人も、実は乗馬が出来るしな。一緒に行けるなら、彼女も喜ぶだろう。で、その畑の方に空き地もあるから、少し狭いかも知れないが放牧場を作ろうと思う」

 そうでなくとも馬に関する話は大好きなブライアンは、そんな計画も楽しくて堪らないのだろう。少年のように目を輝かせて話す彼に、オロールは思わず見とれてしまった。



 やがて月日は流れ、オロールは数日おきに兵営に行っては目的を一つ一つ達成させていった。

 シャカールも屋敷に来て彼女の馬になり、日々楽しく乗馬を習った彼女は、何とか馬で散歩が出来る程度になった。尤も、乗れるのはシャカールだけで、乗るというより乗せて貰っているというのが正しいのではあったが。それだけシャカールが賢くて、彼女を大切にしているからなのだろう。


 そんな平和な日々は、とある来訪者の出現で乱されることになる。

 それは、デュランダル王国の南、海の向こうにあるホノブロ王国と言う島国からやって来た王女の、親善訪問という出来事だった。


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