4-5 カナロアから吹く不穏な風
脇腹の傷は無理をしたせいで広がり、二度の縫合や失血のせいで回復が遅くなった。オロールはベッドから離れられないまま、数週間を過ごす。
その間に、ブライアンは両親である国王夫妻に会いに行った。
もう二度と縁談を受けることは無い旨と、オロールを生涯の伴侶として生きる決意を告げるためだ。
(反対されるのは、覚悟の上だ。それでも、説得しなければ)
いっそデュレン兄上のように、身分を捨てても良いとも思ったが、そうなると陸軍大将の地位も手放さなければならなくなる。
(軍を離れることは出来ないし、オロールも同じだろう)
彼女の才能を生かし、自分も自分らしく生きてゆくために陸軍大将の地位は失いたくないブライアンだ。
そんな意気込みで、国王夫妻と面会したブライアンだったが、拍子抜けするほどあっさりと決意は受け入れられてしまった。
「よろしいと思いますよ、ねぇ陛下?私は、オロール嬢が好きですからね。ブライアンとは、お似合いだと思いますわ」
王妃アレグリアの言葉に、夫である国王も鷹揚に頷く。
「でも何故、結婚しないのかしら?事情を公にする必要もないし、子供が出来なくても誰も何も言わない、いいえ言わせませんよ?」
オロールの精神的事情も、包み隠さず話した。勿論彼女の了承を得てなのだが、普通の夫婦とは言えない生活になる。けれどアレグリアは、それでも式を挙げて世間に知らしめておいたほうが良いのではないかと思うのだ。
「それについては、オロールとも話し合いました。その結論が、関係を公にはしないということなのです。陸軍内での、立場を考えての事です」
夫婦であると公にしてしまえば、妻が参謀として陸軍内にいることになる。そうでなくとも、女性が陸軍参謀を務めること自体が異例の事だし、それを良く思わない人間も出るかもしれない。対外的にも、陸軍が舐められる可能性もある。それがオロールの意見だった。
「でもいつか、彼女の事情が解決したら、結婚と言う形をとるつもりです。その時にお互いが共白髪になっていても、夫婦になるつもりです。その頃までには、彼女の陸軍内での地位も確固たるものになっているでしょう」
ブライアンの心の中には、かつてタクト砦で知ったルガル大佐とエリスの関係が深く根付いていた。お互いを思いやって信じあって、結婚と言う形を取らずに深く愛し合う彼らに、感銘を受けていたのだ。
母親である王妃は、息子の考えを暖かく受け入れてくれた。2人が話し合ってそれを選んだのならば、後は暖かく見守るのが親の務めだ、と微笑んでくれたのだった。
やがてオロールは、ベッドの上で体を起こして過ごす時間が多くなり、寝返りを打つことも出来るようになる。書類を読んだり手紙を書くことも出来るようになると、オロールは少しずつ仕事を再開した。
ブライアンとしては、まだ仕事などさせたくは無かったのだが、それを許さない事情もあったのである。
それは、東に隣接するカナロア王国の件だった。
最初の報告にあったカナロア王国の現状は、他国の事ながら眉を顰めさせられるような不穏なものだった。東列強諸国と呼ばれる国々は、常にどこかで戦があるような関係にある。そんな中で、カナロア王国は昨年、北にあるパルメリア王国と停戦条約を結んでいた。そしてここ数年作物の出来が悪く、領内の各所で農民の暴動が頻発していると言う。
それらの報告の確認や、新たな情報を得るため、情報局が総力を挙げて取り組み始めた。
そんなある日、情報局長であるオーギュストが、1人の士官を連れてブライアンの執務室を訪れた。
「閣下、提案があって参りました。士官を1人、カナロア王国に送りたいと思っております。このハンメル少佐なのですが」
一歩下がって立っていた士官は、礼儀正しく挨拶をする。
「ラス・ハンメル、情報局、情報収集担当です」
声は、高くもなく低くもない。口調も、早くもなく遅くもない。訛りも無いその言葉には、特徴が1つも無かった。
「生家は一応男爵家ですが、陸軍に骨を埋める覚悟の4男坊です」
ニコリと笑う顔に愛嬌があるが、顔立ちは凡庸だ。髪も目も地味な色合いで、ある意味没個性な顔立ちと言える。
「ハンメルが志願して来たんです。カナロアの内部に潜入して、情報を得て来たいと。実は誰かを送り込みたいとは思っていたんですが、一番の適任者が自分から申し出てきた形ですね」
オーギュストは、どこか楽しそうな顔つきで言った。
「コイツ、実は特技があって、変装が上手いんですよ」
ブライアンの快諾を得て、ラス・ハンメルは早速カナロアの王都に入り、活動を開始した。そして直ぐに、次々と報告が上がって来た。
オーギュストは、ハンメルの報告とそれ以外の情報を、全てオロールへ送った。その中には、デュランダル王国が縁談を断ったという事を、経緯を捏造して発表していると言うものもあった。どうやらカナロアはデュランダルを悪者にして、それならいっそ力で解決しようという方向に舵を切っているらしい。
近いうちに、戦が起こりそうな気配が濃厚になって来た。
ブライアンは、兵営での仕事を終えると急いで帰宅する。
オロールの部屋は、既に2階に戻していた。ここならばそう簡単に窓から出られないだろう、と真顔で彼女に言った彼だ。
「今帰った。・・・また仕事をしていたのか?起きていて、大丈夫なのか?」
過保護気味な彼に穏やかな笑みで答えたオロールは、寧ろ生き生きとしているように見える。
「お帰りなさい、ブライアン。手紙を書いていたのですが、問題はありません。先生も順調だと仰っていましたし」
「そうか?・・・無理はするなよ。少しでも違和感を感じたら、直ぐ横になれ」
持って来た書類の束を手渡し、ブライアンは上着を脱ぐ。
「新しい報告書だ。オーギュストから預かった。だが、先ずは夕食にしよう」
早速書類に目を通そうとしたオロールに釘をさすブライアンは、大切な伴侶を愛おしむように軽いキスを贈った。
「やはり、カナロアは戦を目論んでいるようですね」
ひと通り報告に目を通したオロールは、無表情な参謀の顔になっている。
「ああ、俺もオーギュストたちも同意見だ」
カナロア王国とパルメリア王国の間に締結された停戦条約は、カナロアとしては不本意な結果に終わっていた。東列強諸国での戦は、互いの領土を削り取る程度のもので、相手の国を亡ぼすような大規模な戦では無いのが普通だ。それゆえ国境は度々変更されるが、奪った土地の分だけ税や収益が増えるのでそれが目的だったりする。
報告書によると、今回の停戦条約では完全な痛み分けに終わっていて、どちらの国にとっても得るものは無かったらしい。
「カナロアとしては、国民の政治に対する不満を払拭したいのもあるんだろうな。飢饉の一歩手前だという報告もある。暴動や革命の兆しを、戦勝で吹き飛ばしたいんだろう。だが東隣のシュタット公国に手を出すには、兵力も回復しきっていない現在だと相手が悪い」
シュタット公国には数年前に王女を1人嫁がせていて、一応の平和を得ているカナロアである。しかもシュタット公国は、他の列強も一目置くほどの軍備があった。
「そうなると、戦を仕掛ける相手はデュランダルしかないという事なんですね」
いい迷惑だ、としか言いようがない。
他から奪うより、国内の政治をもっと見直せと言いたいところだ。
けれど今ここで、それを言っても始まらない。
「情報の速さと質、それに関してはこちらが勝っています。早急に、出来る限りの手を打っておきましょう」
オロールは、落ち着いた声で彼に告げた。
ラス・ハンメルからの情報によると、カナロアは戦準備に難航しているようで、軍備を整えて出兵するのは1年後くらいになりそうだという事だった。
けれど、こちらが完璧に対応を整えるには、決して長くはない時間だ。
ブライアンは直ぐに、国内の各所にある砦に命令書を送る。砦に常駐している兵力を、可能な限り多く王都に集めるためだ。幸い北のギムレットや東のサンリット首長国とは、友好国となっているので不安は無い。
そして兵営では、集まってくる兵たちを駐屯させる設備を用意し、順次実戦的な訓練を始めた。組織を整え、士官や兵たちに現状を熟知させておくことも忘れない。
グラシュー女医やメリアンも、忙しくなった。
増設されている医学棟と薬学棟は、出来るだけ多くの病床を置けるようにし、薬や包帯などの在庫を増やし続ける。それに伴って、それまでに研究所で応急手当を学んだ街の人々に声掛けをしておく。戦場がどこになるかはまだ解らないが、戦が始まれば野戦病院が設置されるだろう。グラシュー女医は、自らそこに行くつもりだ。王立病院のようになった研究所は、メリアンに任せる予定だ。
フォリア夫人も、屋敷の仕事を手早く終わらせると、彼女たちの手助けに入った。王都内に知り合いや伝手が多い彼女は、戦時下になったら借りられるように馬車を少しでも多く手配しておく。野戦病院から搬送されて来る傷病兵や、次々と必要になる医薬品を運ぶためだ。
兵営内の工廠局も、新たな兵器の最終調整を行い、ホノブルと密に連絡を取って量産体制に入った。責任者であるヴィスマール少尉も、ホノブルのジェン王女の夫であるファウ・レーゼン少将も、寝る間を惜しんで働いた。
軍用犬の育成もほぼ完全に終わり、ラキシス・リンデン以下数名の部下たちが訓練済みの軍用犬たちを効果的に使役できるようになっている。それに伴って、犬や馬を治療できる獣医も育っていた。
周囲が忙しくなる中で、オロールも起きていられる時間が増え、兵営から送って貰っている書類仕事は難なくこなせるようになった。ブライアンが仕事を終えて帰宅する時間には、やるべき事を全て終わらせている。
戦準備と言うどこか殺伐とした仕事を終えた後は、それらを一旦忘れてリラックスするブライアンとオロールである。夕食を終えて部屋で寛ぐ2人は、穏やかで優しい時間を過ごしていた。
膝の上に絵本を乗せ、じっくりと眺めながらページを繰る彼女の横顔を、彼は飽きることなく眺めていた。
「・・・あ、ごめんなさい。何か?」
ブライアンの視線に気づいたオロールは、絵本を閉じて軽く首を傾げる。
「いや、何でもない。見とれていただけだ・・・絵本か?」
彼女が読書をする横顔が好きなブライアンは、優しく問いかけた。
「はい、時間に余裕が出来たので、今まで読んだことが無い書物を読もうと思って。先ずは子供の頃に読めなかった物からと考えて、フォリア夫人に聞いてみたら、図書室にある絵本を持って来てくれたんです」
テーブルの上には、何冊もの薄い絵本が積み上がっている。
「絵本を眺めるのも、興味深いです。色が綺麗ですし、文で表現されていない事柄は、絵の中から読み取るという方法も面白いと思います」
(・・・評論家かな?)
子供向きの絵本でさえ、分析しながら読んでいるようなオロールに首を傾げざるを得ない。
「ですが、色々と疑問点も浮かびます。人と動物が会話したり、果実の中からいきなり赤ん坊が出て来たり・・・」
(お伽噺に突っ込みを入れるのは、おかしくないか?)
「いや、そもそも世界が違うから、そこは気にしない方が良いと思うぞ」
お伽噺の世界、つまりはそれも異世界という事で、何でもありだと言いたいブライアンだ。
「はぁ、そう言うものですか・・・でも、幼い素直な子供が読んで、それを信じて果実を割って、中から種しか出てこないと解ったらがっかりするかも・・・」
オロールの言葉を聞いた途端、サッと顔を背けたブライアンは真っ赤になっていた。身に覚えがあったと見える。
そしてオロールは、漸くベッドから出る許可を女医から貰い、少しずつ庭の散歩なども出来るようになった。そんな折、珍しい相手から手紙が届く。
差出人は、ヴァーナ・ブライト。
ブライアンの兄で第4王子であったデュレンの妻で、元傭兵の女性だ。
『突然、ごめんなさい。無事出産したので、伝えたくなったの。母子共に健康で、産まれた娘はパルメリータと名付けました。デュレンはもうメロメロで、親馬鹿丸出しになってるわ。今は親子3人で、カナロアの王都から少し離れたアドマイヤ村で暮らしてるけど、近頃農作物の出来が悪いのに重税を課せられて、農民たちの暴動も起きてるのよね。私たちは、あの時ブライアンから渡してもらったお金で、生活に不自由はしていないけど、パルメリータがもう少し大きくなったら、もっと平和なところに移ろうと思っているわ。ブライアンにも、よろしく伝えておいて下さいね。感謝してるって』
オロールはその手紙を彼に見せ、嬉しそうな笑顔を見せた。
「無事に生まれて、本当に良かったです」
「そうだな・・・初めて姪っ子が出来たという事だしな。オロールにとっても、そうだろう?」
正式に婚姻を結んだわけでは無いが、生涯の伴侶ならば、彼女にとっても赤ん坊は姪となるのだ。ごく自然にそう言うブライアンに、オロールは嬉しくなる。
「フォリア夫人と相談して、お祝いを贈りたいと思うのですが、良いですよね?」
「ああ、任せた」
「そしてそれと一緒に、手紙を付けようと思います。カナロア王国の現状・・・つまり戦が近いうちに起こりそうだから、出来るだけ早くその村から離れた方が良い、と」
ブライアンも、同じことを考えていたのだろう。
2人は顔を見合わせて、しっかりと頷き合った。
やがてオロールはグラシュー女医から、仕事再開の許可を貰って兵営に通う事が出来るようになった。久しぶりの出勤開始の日、オロールは通常業務を片付けるなり、ブライアンの執務室に来る。
「閣下、午後から兵団の実践訓練を見せていただくことは可能でしょうか?」
すっかり普段の参謀モードになっている彼女に安堵するブライアンではあるが、初日から張り切りすぎないで欲しいとも思う。
「それは構わないが、大丈夫か?俺は指揮を取るので、傍にいてやることは出来ないと思うが」
「はい、離れた場所で見せていただきますから、お邪魔にはならないと思います」
「ああ、解った。だったら誰か、暇そうで信頼できる誰かと一緒に来い。見習士官でも厩番でも良いからな。念のためだ」
兵営内の治安は良いが、現在は地方砦から来ている士官や兵も多い。何かあってからでは遅い、という事を充分学んでいるブライアンだった。
兵士たちの集団訓練を指揮しながら、ブライアンはどこかソワソワした様子を見せていた。
(オロールが見ているからな・・・気は抜けない。だが・・・どこで見学してるんだ?)
厳しく指示を出し兵士たちを叱咤しながら、辺りをさり気なく見回してしまう。
だが、オロールの姿はどこにも見つからず、怪訝に思いながらを視線を巡らした時、ふと視界に銀色の物がチラッと光ったのに気付いた。
(・・・ん?・・・えっ!あそこにか!)
情報局の建物に近い場所にある、物見櫓の上にオロールの姿があった。
緊急情報伝達としての主流は伝書鳩になっているが、補助的に狼煙も使っている。そのため物見櫓は常に当番兵が交代で上がっているが、今オロールの傍にいるのは高位士官のようだ。
(・・・あれは・・・デュースか?)
暇であった訳は無かろうが、おそらく物見櫓に上がりたいと言うオロールを知って、時間を割いて付き添っているのだろう。
真面目を絵に描いたような親友であるから、何も心配は要らない。そう解ってはいても、ブライアンは落ち着かない気分になる。
(あんな高い場所で・・・怖くは無いのか?)
つい凝視してしまう大将に気付き、その視線を追った近くの士官もオロールの姿に気付いてしまった。
思わず驚いて固まる士官の様子は、波の様に次々と伝わってゆき、訓練中の全ての兵士たちが物見櫓から見下ろしているオロールの姿に気付いてしまった。
「おい・・・あれは・・・」
「スキルヴィング参謀・・・だ・・・見て下さっているんだ」
ザワザワと上がる声には、隠しきれない喜びがあった。
今や参謀局副局長となっているオロール・スキルヴィング参謀は、以前から士官兵士を問わず彼らの崇拝の対象になっていた。そしてそれは、新しく兵営に到着した者たちの間にも、しっかりと伝わっている。
しかも、つい先日の陸軍大将のお見合いの席で、王女を庇って盾になった武勇伝も伝わっていた。
才知に長け、凛として日々仕事をこなす彼女には、命がけで任務をこなす勇気と決断力もある。
陸軍のアイドル的象徴のように慕っていた彼らは、オロールに心酔するまでになっていた。
そして、彼女が受けた怪我が、カナロア王国の士官によるものだという事も知っていたから、近い将来敵国となる相手に対して憎しみの念さえ抱いているのだ。
「うぉぉっ・・・まだまだぁ!」
「まだやれるぞっ・・・コンチクショ~~ッ」
厳しい訓練にへたばりかけていた兵士たちは、口々に叫ぶながらふらつく足を叱咤して立ち上がった。
そんな時、一陣の強風が吹いた。
物見櫓を注視していたブライアンの目に、煽られたようによろけるオロールの姿が映る。
「危ないっ!」
訓練の指揮などあっさり頭から消したブライアンは、愛馬と共にまっしぐらに物見櫓に駆けつけた。
櫓の上で強風に煽られバランスを崩したオロールだったが、咄嗟に腕を伸ばしその腰を捉えて引き戻したのはデュースだった。事務仕事に優秀な彼だが、身体的能力も充分すぎるほど高い。
「スキルヴィング参謀、風が強くなってまいりました。もう降りられた方が良いと思います」
尊敬し親友でもあるブライアンの想い人であるオロールの腰を、図らずも抱いてしまったことに戸惑いながらも、デュースは礼儀正しく進言する。
「そうですね、そうします」
髪を束ねていた紐を、強い風に吹き飛ばされてしまったオロールは、手で銀髪を抑えながら頷いた。
「自分が先に降りますので、続いて段を降りるようにしてください」
万が一、彼女が足を踏み外しても受け止めるつもりだ。物見櫓への上り下りは、梯子になっている。
オロールが降りる速さに合わせて、少しずつ梯子を下りるデュース。
けれど半分ほど降りたところで、また強いつむじ風が吹きつけた。解けていたオロールの長い髪が巻き上げられて、視界を塞ぐ。
「あっ!」
顔を打った髪に注意を奪われ、オロールは足を踏み外した。
「ぅおっ!」
デュースの方も、強い風に一瞬目を瞑ってしまっていたので、対応が遅れてしまった。
顔面に、オロールの尻が落ちて来る。
(ぅ・・・ぅわ・・・)
柔らかいクッションのような感触に驚いて、つい自分の両手を離してしまったデュースを咎めることは出来ない。しかもさっきは、その細腰を抱くように腕を回してしまってもいる。
「しっ、失礼をっ・・・・」
詫びの言葉を残しつつ、デュースの身体は地面に落ちた。
梯子は半分以上降りていたので、落下距離は数メートルだったが、デュースの身体は仰向けになってしまった。オロールも、自分を受け止めたせいで彼が落下したことに気付く。
「あぁっ!ご、ごめんな・・・」
言いかけた途端、何とか梯子にしがみ付いていた手が離れ、オロールも落ちた。
が・・・
「ぐぇっ!」
奇妙な声が響いた。
デュースの身体が落ちた時、既にブライアンは梯子の下で馬から跳び下りていた。
落ちたオロールの身体が、ドサッと彼の腕の中に納まる。けれどブライアンの脚は、梯子の下の仰向けになったデュースの腹部を思い切り踏みつけていたのだった。
報われない、とはこのことかもしれない。
ブライアンは一応、すまんと謝ったが、彼の胸中のもやもやをぶつけられずに済んだだけ、デュースにとっては良かったのかもしれない。
夕方、屋敷に向かって馬を並べて帰路に着く。
けれどオロールは、明らかにしょんぼりとしていた。物見櫓の一件で、ブライアンからたっぷりお説教をくらっていたのだ。
(あんな高い場所に躊躇なく上がろうとするなんて・・・高所恐怖症ではないらしいが、目が離せやしない・・・)
近頃体力も付いたオロールは、子供時代に出来なかったことを無意識にやっているような節がある。
(そう言えば以前、オロールが迷子・・・いや、こっちが見失った事があったが、あの時も思ったな。何だか、子守をしているようだと・・・)
そのうち木登りやら泥遊びをしだすかもしれない、と思ったら何だか可笑しくなってきた。
(まぁ、良いか。俺が目を離さなければいいんだ。だがそうするとやっぱり、これ以上子供は要らないな)
オロールの他には、誰も要らない。
そう思うと、ただ愛しくてたまらなくなる。
「・・・ああ、そうだ。本屋に寄って帰らないか?」
彼女のあまりにもしょんぼりした姿が、可哀そうになって来たブライアンだ。結局のところ、オロールには甘くなってしまう。
「えっ・・・良いのですか⁉」
パッと顔を上げ笑顔になったオロールは、先ほどのしょげた様子を見事に吹き飛ばしていた。
近頃ずっと、本屋に行くことが出来なかったオロールは、嬉々としていた。頭の上に音符が見えそうなほどだ。そんな様子に苦笑を浮かべながらも、ブライアンは内心では喜んでいる。
そして本屋で何冊かの書物を買い求めた後、街中を歩いていると声が掛かった。
「大将閣下!今日はいかがなさいますか?朝採れの大粒イチゴがありますぜ」
八百屋の大将らしい男が、店先から親し気に話しかける。
(今日は?・・・という事は、ブライアンはいつもここで買い物をしているという事ですよね。屋敷で寝込んでいる時に、いつも持って来てくれた果物は、ここで買ってきて下さったのですね)
そう気づいたオロールは、感謝を込めた瞳で彼を見つめた。
「ん?・・・そうだな・・・オロール、イチゴはどうだ?」
オロールの視線に一瞬ドキッとしつつも、ブライアンは優しく声を掛ける。
そんなやりとりをする八百屋前の彼に、道行く人々は尊敬を込めつつ親し気に挨拶の声を掛けてゆく。
陸軍兵営に来てからずっと、王族の身分をひけらかすことも無く、自然な態度で街中を歩くこの第6王子を、町の人々は好いていた。
好意に溢れた噂も時折流れていたし、きっと今回も、女性と楽し気に街を歩いていたと囁かれるのだろう。
「あの方は、女性でありながら王命を得て、陸軍参謀になった公爵令嬢だよ」と。
オロール自身も、人々に知られて尊敬され、好意を持たれるようになっていた。
その晩、夕食後にオロールの部屋を訪ねたブライアンは、軽くノックした音に返事が無いことに首を傾げる。けれど中に入って見れば、彼女はソファーに腰かけたまま横のクッションに頭を沈めて眠り込んでいた。
(・・・疲れているはずだったな)
出勤再開初日にしては、色々ありすぎたのだろう。膝の上に広げられたままの書物は、今日買い求めたものだろうが、まだ数ページも読み進めてはいないようだ。
「オロール?・・・ここで寝たら、風邪をひくぞ」
頬をツンツンと突いて声を掛けるが、全く反応が無い。穏やかな寝顔と規則正しい息遣いで、熟睡してしまっていることが解る。
「仕方がないな・・・」
ブライアンは、オロールの膝からそっと本を取り上げると、静かにその身体を抱き上げてベッドに運んだ。
軽いが柔らかいその感触を楽しむ彼の頬には、笑みが溢れていた。
そして、月日は流れた。
カナロア王宮に入り込んでいるラス・ハンメルからは、かなり正確な情報が届いていた。それによると、カナロアの軍勢が王都を出るのは、早くても3か月後くらいになるという事だった。
「俺たちも、そろそろ移動するか」
陸軍参謀会議では、カナロアの軍は海路から来るという予想で一致していた。
そもそも両国の間には、カナル川とバシレイア山脈が天然の要害となっている。唯一開けているのは南の海側にある平地だが、そこもカナル川に架かる橋で結ばれている状態だ。カナロアが大軍を率いて迫ってきても、橋を渡らなければデュランダルの国内には入れない。
戦端が開かれれば、最初に渡り合うのは海軍同士という事になるだろうが、そうなると陸軍も南の海に面したサンビストの砦に陣を敷かなければならない。
ブライアンとオロールは、先ずは自分たちが先にサンビスト砦に向かった。
砦に入ると、海軍大将アル・クァンタムが待ち構えていた。
「おお、待ってたぜ。先ずは、礼を言わないとな。スキルヴィング参謀のお陰で、軍船が4隻も増えた」
オロールが提案した船大工の派遣は、ギムレット王国内で素晴らしい成果を上げていた。
「派遣した船大工の中に、凄いことを思いついた奴がいてな、使い切れないくらい集められた良質の木材を、河川用の船を造る傍ら、カナル川を使ってこっちに送ってくれたんだ」
クァンタム海軍大将の話によると、それを送る方法は、筏の上に小屋を乗せたような代物を作って川を流すというものだった。その筏自体も木材として利用できる上に、船頭1人が乗れば海まで運ぶのも容易だ。派遣された船大工のうち半分が、筏に乗って帰っても来ていた。
「で、こっちではそれを使って、町の船大工にも協力して貰って造船し、つい先日進水式も終わってる。ホノブルの海軍とも連絡を取り合って、協力体制も出来つつある」
そしてクァンタムは、1通の手紙をオロールに渡した。
「ホノブルからだが、こっちに来るなら直接渡した方が早いと思ってな。昨日、届いたのさ」
差出人は、ジェン・ティルナ王女だったが、オロールはお礼を言って受け取るとそのまま仕舞った。内容的にプライベートの部分が多いはずだから、後で読んだ方が良いだろうと思う。
ある程度の報告と情報交換が済むと、海軍大将は帰り支度を始めたが、ブライアンが席を外した隙にこそっとオロールに話しかけてきた。
「あの軍バカ王子のプロポーズを断ったんだろう?それにしちゃぁ、何だか仲良くなってねぇか?」
2人の間にある空気が、自然で穏やかであることに疑問を感じたのだ。
(軍バカ王子・・・ゴロが良いです)
オロールは吹き出しそうになるのを堪えながら、当たり障りの無い返事をしておいた。
クァンタム大将を見送った後、部屋に2人きりになったオロールとブライアンだが、彼の顔見る度『軍バカ王子』の言葉が浮かんでくる。
「・・・・ククク・・・クスクス・・・」
先ほど堪えた反動なのか、つい声が漏れてしまった。
「?・・・何だ?」
可愛らしい声は嬉しいが、何が可笑しいのか解らないブライアンだ。オロールは先ほどのクァンタムの言葉を、可笑しそうに話した。
「・・・俺が『軍バカ王子』なら、オロールは『軍バカ姫』か『軍バカ令嬢』だろうが」
流石にムッとして返すブライアンだ。
「あ・・・・そうかも・・・」
確かにその通りかもしれない。
2人合わせて『軍バカカップル』或いは『軍バカ伴侶』なら、それも悪くは無いだろう。
顔を見合わせた後、ブライアンとオロールは声を上げて笑い始めた。
彼女が声を上げて笑うのが実は初めてだったことを、彼はそこでようやく気付いたのだった。




