4-3 お見合いの場での凶行
ブライアンとカナロア王国の王女ユーセニアの、お見合いである『顔合わせの儀』当日になった。
オロールは、屋敷の部屋の片付けも終わらせたので、早朝から兵営に来ている。通常業務をこなすためで、終わったら部屋探しに出かけてみるつもりだった。
「おはようございます、スキルヴィング参謀」
廊下で出会ったオーギュストが、固い表情で挨拶をした。
「おはようございます、ロダン少将。王宮に行かれるのですか?」
オーギュストとデュースは、昇進して少将になっている。
「はい、デュースと共に警護の兵を連れて出ます」
精一杯平静を保とうとしているオーギュストだが、実はデュースと同じように焦っていた。
彼らは、縁談を持ち掛けてきたカナロア王国の真意を探るべく、情報を集めていた。けれど、伝書鳩では伝えきれない内容ゆえ、どうしても早馬を用いることになる。肖像画交換からの流れが速かったこともあり、未だに情報が届いていなかったのだ。
今日あたりには着くはずなのだが、兵営を出る時刻になっても早馬は来なかった。
「最悪だが、今日を過ぎてもまだ結婚式まで多少時間がある。難易度は上がったが、情報の内容によっては、何とか出来るかもしれない」
今はそうするしか無いだろうと、2人は兵営を出て王宮に向かった。
王宮内に特別に設えらえた『顔合わせの儀』の会場準備はほぼ整えられたおり、オーギュストとデュースは、ひとまず警護兵たちの控室に入った。
「・・・おい、デュース。ちょっと考えがあるんだが」
「何だ?」
こそこそと耳打ちするオーギュストに、同じく小声で答える親友だ。
「俺としては、殿下にもう一度自分の気持ちを確かめて貰いたい。サンビストから帰ってから、つまりプロポーズが失敗に終わってから、殿下は一度もオロール様と顔を合わせていないだろう?だから、協力してくれないか?」
彼の意見には、自分も同意だと思うデュースだが、どんな協力なのかが解らない。けれど出来ることなら惜しみなくやるつもりではあるので、しっかりと頷いた。
通常業務を片付けて、そろそろ兵営を出ようとしていたオロールの執務室の扉が、音を立てて開いた。
「スキルヴィング参謀、緊急事態です。大至急、同道してください!」
有無を言わさず引っ張り出し、玄関前にいた自分の馬に彼女を乗せたオーギュストは、近くにいた門番兵に告げた。
「時間が無いので、このまま行く。スキルヴィング参謀の馬は、屋敷に戻しておくように。オロール様、失礼を承知でこのまま駆けさせていただきます」
馬上で、オーギュストはオロールに説明した。
「デュースの奴が、急な腹痛でトイレに籠り、警護の任に当たれそうもなくなりました。急な交代の場合、相手方に不審に思われると拙いです。そこで兵営での地位も高く、尚且つ女性であるオロール様ならば、カナロア側に安心していただけるのではないかと思いました。デュースの代わりに、デュランダル側の警護の1人となっていただきたいと思います」
オロールとしては、今更ブライアンと顔を合わせたくはないし、王女様とのお見合いの場に居たくなぞない。けれど、緊急事態だと力説するオーギュストを翻意させるのは難しそうだ。しかももう、馬は王宮に向かって走っている。
「・・・解りました」
オロールは不本意ながら、承諾の返事をした。
(警護と言っても、形だけのものでしょうから私でも務まるでしょう。閣下とは出来るだけ目を合わせないようにして、終わったらさっさと帰ればいいですね)
お見合いは、ブライアンの意思によるものだと聞いている。まさかそんな場で、彼が場違いな言動を起こすとは思えない。あれでも根は真面目で、自分の立場はよく理解している王子なのだから。
そして、オロールは王宮に着いた。
警護担当の交代の件は、スムーズに行われた。カナロア王国の随行員たちの筆頭で側近でもあるカーミン公爵は、最初こそ眉を顰めたが、挨拶をしたオロールを見て安堵したようだ。ほっそりとした彼女に、何かできる筈も無いだろう。人数合わせならば、何も問題は無い。
「女性の参謀か・・・という事は、丸腰なのだな。それならば、ユーセニア王女様の斜め後ろに立って貰おうか。我が国の愛らしくも美しい王女の、引き立て役にもなるだろう」
銀の髪を後ろで束ね、化粧っ気も無いオロールは、いつもの仕事モードだ。服装も女性用軍服のような実用本位のものだから、地味で色気も飾り気も無い。
もっと隅の方で、人数合わせの役を務めたかったオロールだが、これで儀式を間近で見る羽目になってしまった。
両国の警備兵たちが所定の位置について暫くすると、先ずはデュランダル国王夫妻と、それに続いてブライアンが入室する。
国王夫妻は、静かに待機するオロールの姿に気付いたが、視線を投げるだけに留めた。けれど愛する息子の恋路が上手くいかなかったことを薄々知っていた王妃は、ついチラッとブライアンを見てしまう。そして義務を果たすように黙々と足を進めていたブライアンが、それに気づいてしまった。
(オロール!・・・何故、ここに⁉)
そう言えばデュースが急病で、代理を立てると言われていたが、それが彼女だったのか。
(こんな所で、姿を見たくは・・・いや、見られたくは無かった・・・)
そう思った瞬間、ブライアンは気づいた。
(俺は・・・まだ・・・オロールに対する心を・・・)
軽く目を伏せて静かに立つ彼女の姿を見るだけで、暖かいものが心に沸き上がって来る。
(断られて、傷ついて・・・それまでの時間が無駄になったような気がしていたが・・・)
傍にいた時間は、彼女を守り育てていただけではなく、自分自身も成長していたのだと気づく。そしてそれが、如何に楽しくて幸せだったのかを。辛いこともあったが、それを乗り越えてきた大切な時間だったのだ。
(やはり、オロールが一番大切で・・・傍にいて欲しい唯一の存在なんだ)
ブライアンは、キュッと身を引き締めた。
(もう遅いか?・・・いや、まだ)
そこまで考えた時、カナロア王国側の人々が入室してきた。
先ずはカナロア王の側近で王女の付き添いの責任者でもあるカーミン公爵が、室内を一瞥してから入る。洗練された身なりと所作だが、どこか傲岸で狡猾そうな視線だ。
そしてユーセニア王女を、恭しく招き入れた。
(肖像画通りの見かけだな・・・)
視線を流して王女の姿を捉えたブライアンは、そんな感想を持った。腕の良い画家だったのだろう。ユーセニアは確かに若々しく、美しく着飾った姿は可愛らしい系の顔をしていた。
(だが・・・どう言ったら良いのか・・・覇気がないような?)
覇気を纏った女性なら、先ずジェン・ティルナ王女が思い浮かぶ。だが、見合いの場に覇気を漲らせて望む女性はそうはいないだろう。戦場でもあるまいし。
(確かに大人しそうで従順そうな感じだが・・・静かに立っていてもオロールとは全く違う)
気配を消したように立っているオロールをチラリと見て、ブライアンは思った。
(オロールには芯が通ったような、キリッとしたような凛々しさがある。この王女は、まるで人形だ)
ブライアンがそんな事を考えている間に、ユーセニア王女たちはデュランダル国王側の真向いの席に着いた。両者の間には、5メートル程の距離がある。それぞれの国の護衛兵たちは、目立たぬように自国の王族たちの近くに立っていた。
デュランダル国王が型通りの挨拶を述べると、カーミン公爵が国王代理として応える。
そして次は、縁談を受け入れたブライアンが立って進み出、相手の王女の手を取ってキスを贈るという流れになるはずだった。
(今しかない!)
ブライアンは、ぎこちなく立ち上がり足元の床を睨みつけた。
この縁談を無かった事にする、という言葉は、とんでもなく面倒なことを引き起こすという事は百も承知だ。けれど、今言わなければ取り返しがつかないのだと決意していた。
ユーセニア王女は儀式の手順通りに、カーミン公爵に促されて立ち上がる。
けれどオロールは、視線さえブライアンに向けず、全く別の事を考えていた。
(あのカナロアの護衛兵・・・士官のようですが、顔が真っ青で汗をかいています。酷く具合が悪いのか、それとも・・・)
ユーセニア王女に最も近い立ち位置で、思いつめたような視線を時折投げる若い士官。王女の斜め後ろに立つオロールは、彼から目が離せなかった。何か嫌な予感がしたが、それをデュランダル側の護衛に伝えるには距離がありすぎた。
そして次の瞬間。
「お許しくださいっ!どうか、自分と共にっ・・・」
室内に大声が響くと同時に、士官が飛び出した。いつの間にか抜き放った護衛用の短刀を、真っ直ぐにユーセニアに向けている。
咄嗟に行動できたのは、オロールだけだった。
(ダメです!)
ただそれだけの思考で、彼女は王女と士官の間に割り込んだ。
真っ直ぐ伸びて来る短刀の向きを変えようと手を伸ばし、若い男の手を掴むが、力は到底敵わない。
オロールと士官の間で、鮮血が飛び散る。
短刀は、オロールの脇腹を深く傷つけていた。
男の声でハッと顔を上げたブライアンは、反射的に飛び出した。視界の端に、真っ赤な色が掠める。
バギッ!・・・鈍い音を立てて、その拳が男の顔を捉えた。
士官は吹っ飛び、そのまま床に倒れて昏倒するが、それを確かめることもせずにブライアンは振り返った。
オロールは、後ろにいたユーセニア王女に倒れ掛かる。
けれど王女は、突然の出来事にパニックになっていた。
「キャァーーーッ!いやぁーーーっ!」
倒れこんできたオロールの身体を突き飛ばし、王女は数歩下がって床に座り込んだ。
ブライアンは王女には目もくれず、床に伏したオロールに飛びついた。
「オロール!しっかりしろっ!」
脇腹から溢れる鮮血が、絨毯を汚してゆく。ブライアンは自分のスカーフを外して、傷口に押し当てた。
「・・・っぅ・・・王女・・・様は・・・・ご無事です・・・か?」
切れ切れに唇から零れる言葉に、ブライアンは吐き捨てるように答えた。
「あのヒステリックで元気なキィキィ声が聞こえるだろうが!」
「・・・良かった・・・お役に立てました・・・」
ブライアンは、大声で怒鳴った。
「バカを言うなっ!お前の方が、大事だっ!」
それを聞いたオロールは、蕾が綻びるように自然で美しい笑みを浮かべた。
けれど直ぐにその笑顔は消え、悲しそうな表情に変わる。
「・・・嬉しいです・・・が、それは・・・王女様に・・・」
(そんな悲し気な笑顔が、見たかったわけじゃない)
ブライアンの頭にそんな思いが過るが、今はそれどころではない。
「しゃべるな!直ぐに手当てを・・・」
ブライアンの声を聞きながら、オロールの意識は急激に霞んでいった。
(・・・その言葉は、二度目ですね・・・)
そんな事を、何故か懐かしく思い出していた。
凶行が勃発した瞬間、室内は騒然となった。
ブライアンの次に行動に移ったのは、護衛として立っていたオーギュストだった。床に殴り飛ばされたカナロアの士官に駆け寄り、その身体を拘束する。そして騒ぎを聞きつけて飛び込んできたデュースを呼び、サッと耳打ちした。
「コイツが犯人だ。カナロア側の手が届かない所に隠せ。尋問は任せた」
デュースは右往左往するカナロア側の護衛達をさり気なく遠ざけ、こっそりと凶行の犯人を部屋から運び出した。
そしてオーギュストはブライアンに声を掛け、屋敷に向かって全速力で駆けた。オロールの主治医であるグラシュー女医を、大急ぎで連れて来るつもりだった。
別室に運び込まれたオロールは、やって来たグラシュー女医から応急手当てを受ける。そして女医の進言で、直ぐに屋敷へと運ばれた。
「お屋敷の方が、新しい薬も揃えておりますし、フォリア夫人とメリアンがいれば万全の処置が出来ます」
フォリア夫人は、医学研究所で看護の講習を受けたこともあるし、何よりオロールの世話を一手に引き受けてもいる。メリアンは、薬学研究所で作った新しい消毒薬や鎮痛薬などを屋敷に持って来ていた。
そしてオロールは、速やかに屋敷に運ばれた。
1階のオロールの部屋に長テーブルが運び込まれ、その上に寝かされた彼女は、ぐったりとして意識が無い。宮殿の騒ぎなどどうでも良いブライアンは、ここまでオロールを抱いて来ていたが、顔色は青褪めていて、どちらが怪我人か解らないくらいだ。
「傷の様子を見て、必要ならば内部も消毒します。それから縫合しますが、患者の手足をしっかりと固定していて下さい」
テキパキと準備を整えた女医は、オロールの脇に立って指示を出す。
「俺も、手伝う」
ブライアンは、寝かされた彼女の頭の方に立ち、その両腕をしっかりと抑えた。メリアンは反対側で、その両足を体重をかけて動かないように固定する。そしてフォリア夫人は、柔らかいガーゼをオロールの口に押し込んだ。
落ち着いた手さばきで、けれど迅速に処置を始めた女医の手が傷口に触れると、オロールの身体が跳ねた。
「ーーーーっ!ぅ・・・・んぅっ・・・」
激痛で意識が戻ったらしい彼女に、フォリア夫人が励ますように声を掛ける。
「オロール様、先生が手当てをしてくださってますからね。直ぐに終わりますから、頑張って」
けれど、その声が理解できるような様子では無い。
「んぐっ・・・ぅぅ・・・」
呻き声をあげて暴れる身体を押さえつけながら、ブライアンは血が滲むほど唇を噛み締めた。
オロールは、今まで大きな怪我などしたことは無いだろう。
彼女が育って来た環境ならば、小さな怪我、例えば走って転んで擦り傷を作るとか、頭をぶつけてたんこぶが出来るとか、そういった普通の子供が経験するようなことは無かった筈だ。
初めての怪我による痛みが、こんな激痛であることが、ただただ可哀そうでならない。
(代わってやりたい。俺なら、慣れているんだ。代わりに俺が、その激痛を引きうけたい)
けれど、今はただ心の中で頑張ってくれと祈るより他は無いのだ。
「ぅぅ・・・んっぐ・・・んぅーーーーっ!!」
傷口から中へ、消毒液が入れられた瞬間、痙攣と同時にくぐもった絶叫が零れた。
そしてオロールの身体は、糸が切れたようにガクンと弛緩する。
「っ!オロールっ!」
ギョッとしたように叫んだブライアンに、グラシュー女医は落ち着いて言葉を掛けた。
「痛みで気を失われただけです。これから縫合なので、寧ろ良かったと思います。ですが念のため、身体は抑えていてください」
そして女医は、父親譲りの見事な手腕で、限りなく短い時間で処置を終えた。
血で汚れた服を着替えさせられ、ベッドに運ばれたオロールは青褪めた顔のまま、まだ意識は戻らない。けれどひと安心という事で、汚れ物を抱えたメリアンが廊下に出ると、そこには待っていたらしいオーギュストの姿があった。
オロールの傍でその寝顔を見守っていたブライアンは、渋々ながら部屋の外へ出る。
「殿下、王宮へいらしてください。色々と解ったことがありまして、それに関して国王陛下が殿下と話し合いたいと仰っておられます」
自分とデュースが待っていた情報も届いた。犯人である士官の供述も得られつつある、と伝えるオーギュストに、ブライアンは致し方なく頷いた。
「・・・・イッ・・・ッ・・・」
脇腹の焼けるような痛みで、オロールは目を覚ました。
「オロール様?・・・気が付かれましたか?・・・鎮痛解熱薬です。ゆっくりで良いので、お飲みください」
傍らに付き添ってオロールの様子を窺っていたグラシュー女医が、少しずつ薬を飲ませてくれた。やがて痛みは少しずつ消えてゆき、熱かった身体も落ち着いてくる。
(・・・ここは・・・私の部屋ですね。運ばれてきたという事ですか)
頭の中もはっきりしてきたオロールだが、眠気も押し寄せて来る。
「お薬が効いたようですね。ゆっくりとお休みなさいませ、オロール様。つい先ほどまで殿下もいらしていたのですが、王宮から呼ばれてそちらに行かれているんですよ。お戻りになるまで、眠っておられれば良いと思いますわ」
フォリア夫人が、ベッドに近づいて来て声を掛けた。
「先生、フォリア夫人、後は私が付き添わせていただきますので、お2人はお休みになって下さい」
オロールの治療で疲れているだろうと、メリアンが言うので、女医と侍女頭はありがたく部屋を出て行った。
(眠いけれど・・・寝ている場合じゃありません)
オロールはしっかりと眼を開けて、天井を見つめた。
(あの時・・・彼は私が一番大切だと言って・・・それは嬉しかったけれど・・・それではダメですよね。殿下の一番大切な人は、王女様でなければならないのですから)
頭の中に、彼が言ってくれた言葉が蘇る。それだけで笑みが浮かぶが、誰にも気づかれてはいけないと思うオロールだ。
(それだけで、充分ですから・・・これからの事を考えなければ)
あの時のブライアンの言葉は、カナロア王国側の人々も聞いていたはずだ。そうなると、自分の事について調べられるのは間違いない。陸軍参謀であることは隠しようもない事実だが、王子の屋敷に住んでいることは知られない方が良いと思う。結婚前の大事な時期に、寵愛する愛人がいると思われれば、両国の関係にヒビが入る可能性がある。
(そうなると、急いでここを出て行かないといけないのですが・・・この状態では・・・)
予定では、お見合いから結婚式の間までの間に、どこかに部屋でも借りるはずだった。急いで探して、贅沢を言わなければ、見つかるはずだったのだ。
けれど、こうなってしまうと・・・
(時間が・・・無いです)
部屋を探し回って引っ越すことが出来るようになるまで、どれだけ時間が掛かるだろう。無理をして動こうとすれば、周囲に止められることは間違いない。
オロールは計画を諦め、もう一つの行動を選択するしかないと決めた。
「メリアン」
オロールは、はっきりとした声で看護役の薬剤師兼侍女を呼んだ。
「はい、オロール様。まだ眠られなかったのですか?痛みます?」
慌てて駆け寄って来たメリアンに、オロールは真面目な顔つきで口早に告げる。
「大事なことを思い出しました。至急、殿下にお伝えしなければならないことがあります。内密に進めたい事柄なので、こっそり王宮に行ってもらえませんか?」
「えっ?」
「殿下に『兵営の私の執務室にある机の、一番上の引き出しにある封書を見て下さい』と、お伝えして欲しいのです。殿下の、いえ、デュランダル王国の今後に関わる大事な物です。メリアン1人で、誰にも気づかれないように行ってください」
メリアンは、驚いて目を見開いた。
「そのお言葉をお伝えするだけでよろしいのですか?」
「はい、急ぎますので直ぐに出て下さい。行って戻るのに、それほど時間は掛からないと思いますので、私は1人で大丈夫です。それだけで、安心して眠れますから」
落ち着いて話すオロールは、参謀の顔つきになっている。しっかりした口調に押されて、メリアンは頷いた。
「かしこまりました。走って行けば、1時間も掛からずに帰って来れると思います。お待ちくださいませ」
そしてメリアンは、大きな窓からこっそりと外に出た。
少しだけ時間を置いて、オロールはゆっくりと体を起こした。
(・・・っ・・・動くと、やはり痛みますが・・・)
それでも鎮痛薬のお陰で、我慢は出来る。
騙し騙しベッドから降りて、窓に向かった。何とか歩くことは出来そうだ。
窓枠を乗り越えて外に出るなどという事は初めてで、少しだけワクワクしたが、外に降り立った瞬間、脇腹に痛みが走る。けれどここで、のんびりしている場合ではない。
オロールは最後にチラッと室内の光景を見ておいて、厩へと足を運んだ。
プリンスボンドはブライアンと共に王宮にいるので、シャカールだけが馬房に入っている。その近くには、フィザルが寝そべっていた。オロールは人差し指を唇に当てて、静かにするよう合図した。厩番は、屋敷内の仕事に駆り出されているようで、辺りに人影は無い。
「シャル・・・どうしても行きたいところがあるの」
オロールは痛みを騙し騙し、愛馬に馬具を着けながら話しかける。
「私を乗せて行って。誰にも気づかれずにここを出るわ。フィザルも一緒に付いて来てね」
鞍の上に何とか身体を引き上げた時、脇腹にピキッと激痛が走る。けれどそれを無理やり無視して、オロールは手綱を取った。
門の方に行けば、誰かに見つかる可能性がある。それはシャカールもフィザルも解っているようで、オロールが指示することも無く、静かに屋敷の裏に広がる馬場の方へ足を向けた。その先にある畑を抜ければ、裏門からは容易に外に出られるだろう。
そしてオロールは、誰にも見つからずに屋敷を去った。
その頃メリアンは、王宮の片隅でジリジリしながらブライアンを待っていた。宮殿内は事件の影響で、慌ただしい空気を漂わせている。ブライアンも事後処理に忙しいのか、取次ぎを頼んでからかなりの時間が経っていた。
けれど相当待たされた後で、漸くブライアンが駆けてきた。
「待たせたな。オロールに何かあったのか⁉」
「いいえ、そうではございませんのでご安心ください。オロール様から、伝言を預かって参りました」
メリアンは、彼女から頼まれた文言を正確に彼に伝える。
「・・・そうか、封書とは何だろう?だがこちらの方もひと段落したので、今から直ぐに兵営に行ってみる」
ブライアンは直ぐに行動に移し、メリアンはホッとして屋敷に帰った。
兵営に入ったブライアンは、真っ直ぐにオロールの執務室に向かった。だが慌ただしくドアを開けた途端、妙な違和感を感じてしまう。
(・・・何だ?)
綺麗に整理整頓されているのはいつもの事だが、何かが違う。部屋の中を見回して、彼は違和感の正体に気付いた。
(背表紙か・・・)
本棚やキャビネットに並ぶ書物や書類の束の全てに、誰が見ても解るように内容を記した背表紙が着けてあった。しかも国別に並べられ、必要な資料が取り出しやすくなっている。
ブライアンは、嫌な気分を感じながら、急いで机の引き出しを開けた。
『辞任届』
そう書かれた封書が目に飛び込んでくる。
中の紙を開くと、そこには『ブライアン・オルフェ・デュランダル陸軍大将閣下』宛ての書式の整った文章があった。
『誠に勝手ながら』で始まる文章は、非の打ち所がないほど整っていて堅苦しい。この封書には、ただ参謀職を辞めるという事実だけが記されていた。
「バカ野郎っ!」
ブライアンは怒鳴り、手に持った辞任届を引き裂いた。
(何を考えているんだっ!あのバカはっ!)
小さな紙片になった封書の中身を撒き散らしながら、ブライアンは足音も荒く部屋を飛び出した。
訳の分からない怒りを抱えて屋敷に駆け戻ったブライアンだったが、プリンスボンドから跳び下りるなり、玄関からメリアンが飛び出してきた。
「殿下!オロール様が・・・失踪されてしまいました」
室内には、青くなってオロオロするフォリア夫人と、難しい顔のグラシュー女医もいた。
「どういうことだっ!」
怒鳴ってしまったブライアンに、メリアンが半泣きで答える。
「私が王宮に行っている間、オロール様はお1人だったのです。短い時間だし、薬も効いたので眠ると仰っていました。思ったより時間が掛かってしまいましたが、戻った時はお部屋はもぬけの殻で・・・」
そんな彼女の背中を優しく撫でながら、フォリア夫人が言う。
「誰もオロール様が出てゆくとは、思いも寄らなかったのでございます。どうかお許しくださいませ。私たち全員の責任です」
「今はそんな事は、どうでも良い!どこへ行ったというんだ」
苛立ちを抑えられないまま声を荒げる彼に、グラシュー女医が落ち着いた声で答えた。
「窓から出てゆかれたのでしょう。裸足の足跡がありました。厩を確認しましたが、シャカールとフィザルがいません。乗って出てゆかれたのは間違いないと思いますが、痛み止めが効いているとはいっても無茶であることに変わりはありません。出来るだけ早く見つけて、連れ戻さなければと話していたところです」
医師としての判断で、一刻も早くと言う女医も表情は厳しい。
(辞任届を出して、屋敷を出て、行く場所があるのか?)
何度か深呼吸を繰り返し、ブライアンは考え始める。
(フィザルがいないなら、追跡も難しい・・・公爵家に行ってみるか。何か手掛かりがあるかもしれん)
オロールがスキルヴィング公爵家に戻るとは考えられないが、何かの連絡をしている可能性もある。藁にも縋る思いで、ブライアンは再びプリンスボンドに跨った。
公爵家に着くと、オロールの弟であるサリアスが出て来てくれた。
「閣下、お久しぶりです」
以前と同じように明るい声で挨拶をするサリアスだが、次期当主となる届も既に出しており、スキルヴィング公爵を名乗るのも間近だ。
「ああ、だが今は急いでいる。こっちにオロールから、何か連絡は来ていないか?」
「は?・・・いえ、特には。少し前に、珍しく姉の方から手紙が来ましたが・・・」
ブライアンの切羽詰まったような様子に戸惑いながらも、サリアスは記憶を辿った。
「内容は近況報告と・・・自分の当主としての勉学について、ですね。そう言えば、その中で資産管理について聞かれました。姉が行くことになっていたアルマ・ヴェロ尼僧院への寄付は、その後どうなっているかとのことでした。何故今更そんな事を聞いて来たのか、ちょっと不思議だったのですが、一応そのままになっていると返信しました・・・」
「そこだっ!」
ブライアンはそう叫ぶと、呆気に取られて佇むサリアスをその場に残して駆け去った。
尼僧院に1歩足を踏み入れたら、外部との関係は断ち切られる。
例え王族といえど、本人の意思が無い限り会う事も出来ない。厳しい戒律で有名なアルマ・ヴェロ尼僧院は、様々な理由でそこで暮らすことを選んだ貴族の子女が生活する場だ。手紙さえも検閲されると聞いている。
(オロールが、尼僧院の門をくぐる前に!)
ブライアンは、愛馬の腹を強く蹴った。




