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風を紡ぐ   作者: 甲斐 雫
第1章 デュランダル王国
3/43

3 第6王子の屋敷で、軍事に関する教育を受ける令嬢は、本に埋もれて幸せ

 いきなり自分の屋敷に来い、と言い放ったブライアン殿下に、オロールは最大の仏頂面で答える。

「それは、色々と問題があるのでは?」

 女性として役に立たない自分を、嫌と言うほど自覚している。当然、そんな目的で来いと言っているわけでは無いことは解るが、それでも変な噂が立ったりすれば面倒なことになるだろう。


 けれど殿下は自分の思い付きが大層気に入った様子で、彼女の表情にも気づかない。

「自宅には現在の軍備に関する書類や、様々な軍関係の書物が揃っている。足りない部分は、私が教えれば良いだろう。それで知識を得てから、提案や意見を聞かせてくれ。家の者には、きちんとその立場を説明しておくし、公爵家の方も上手く話をしておく」

 色々と大変だろうが、それでも彼女の才能をこのまま埋もれさせてしまうのは惜しい。


(何だか、大変なことになりそう・・・)

 環境が変わることは面倒だし、何より自分の体力は大丈夫だろうかと心配になる。

 今一つ反応が薄いオロールを見て、ブライアンはもう1つ付け加えた。


「我が家の蔵書量は、凄いぞ。軍関係以外にも、歴史書や地理関係、動植物などの図鑑も選り取り見取りだ。文芸書や、恋愛小説もあるくらいだ。勉強の合間に、好きなように読んでくれて構わない。読書が好きなのではないか?」


 ピクッと、オロールの身体が反応した。

(好きなだけ・・・本が読める・・・)

 自宅の書庫にある本は、殆ど読みつくしてしまっていた。恋愛小説はどうでもよいが、それ以外の書物には食指が動く。

(軍関係の本も、嫌いじゃないし・・・)


「ベッドで本を読んでも、怒られませんか?」

「えっ?・・・ああ、構わんが」

 行儀が悪いとか、本が傷むなどとは考えられないブライアンは、彼女の妙な質問も気にならないようで、いかにも楽しそうに返事を待つ。

 オロールはついうっかり、深く考えずに承諾の返事をしてしまった。



 王都に帰還したブライアンは、その日のうちに今回の襲撃事件の後始末をつけると、翌日にはスキルヴィング公爵家を訪れていた。

「これはこれは、ブライアン殿下。拙宅に足をお運びくださり、誠に恐悦至極にございます」

 揉み手をせんばかりに歓迎の意を表す公爵夫婦は、大分親しくなってきたこの第6王子と、更に友好を深めたいところなのだろう。

「いや、急に訪問して悪かった。実は、ご令嬢の事で頼みがあってな」

「は?」


 令嬢という事は、長女のスカーレットは嫁いでいるわけだから、次女のオロールの事だろうと思うが、あの病弱すぎてモノの役にも立たない不愛想な娘について、どんな頼みがあるというのか。

「・・・オロールのことでしょうか?」

 一応、念のため確認してみる。

「ああ、そうだ。オロール嬢を、うちの屋敷で預からせてもらいたい」

「へ?」

 意味が解らない、と頓狂な声を出して固まってしまった公爵の代わりに、夫人が問いかけた。

「失礼いたします、殿下。それは、花嫁修業という意味でございますか?」


(しまった、言い方が悪かったか)

 嫁だ婚約者だと言うわけでは無い。そういう誤解を生まないよう気を付けたつもりだったが、親としてそういう方向に思考が動くのは至極当然だろう。

 ブライアンは、勧められた椅子に腰を下ろし、丁寧に説明を始めた。


「・・・と言うような事があって、オロール嬢の才能を伸ばしたいと考えている。言うなれば、スカウトだな。うちの屋敷で、教育をしたい。身体が弱いという事は知っているから、健康にはこちらでも充分注意をしよう」

「・・・・・息子ではなく、娘を・・・ですか?」

 詳しい説明を受けても、どうにも納得が出来ない。軍事的な教育を、女性に授けることもそうだが、そもそも娘にそんな才能があることなど全く知らなかった公爵夫婦なのだ。

「ああ、そうだ。尼僧院に入るには、勿体ない才だと思う。そう言えばオロール嬢の弟はサリオス少尉だったな。彼も、なかなか優秀だと思っているが」


 元々家の役には立たない娘だと思っていたから、尼僧院に入れることを考えていた公爵夫妻だ。けれどこの縁で、息子の方にも恩恵があるのではないかと気づいた。

「娘が大したお役に立てるとは思いませんが、こちらに否やはございません」

 寧ろ多少なりとも、厄介払いができたとも言える。公爵夫妻は、ありがたく申し出を受け入れた。



 次は自分の屋敷内の根回しだ。それには、フォリア夫人が要となる。

 ブライアンは、熟考の末、結局ある程度正直に打ち明けることにした。オロールとの出会いから話し、『意中の女性』として姿を借りたことを。

「騙したことになってしまって、すまなかった」

 素直に頭を下げたブライアンに、最初こそ驚いたものの、フォリア夫人は鷹揚に笑って見せた。

「そうですわね・・・でも、順序が違っただけではないのですか?」

 後から『意中の女性』が出来たと言うなら、それでも構わないのだ。

「いや、オロール嬢はそういう対象ではない。ただ、たまたま記憶に残っていた女性だったと言うだけだ。あくまで彼女は、勉強のために預かるということだ」

 慌てて否定するブライアンに、夫人は黙って微笑んだ。

(記憶に残る女性と言うのは、忘れられない女性ということでもありますわよね)


 何やら思うところが出来たらしいフォリア夫人だったが、オロールを預かることについてはそれ以上何も言わず、他の使用人たちへの説明も上手くこなしてくれた。



 そして1週間後の夜半、サリアス以下数名の護衛士官と共に、1台の馬車がブライアン殿下の屋敷に到着した。中には別荘からそのまま直行したオロールが乗せられていた。

 北の農民らの襲撃事件後、疲労と筋肉痛で寝込んでいた彼女だったが、回復を待って、ブライアンが迎えの馬車と護衛を送ったのだ。


「お疲れ様でした、姉上。ご気分は、大丈夫ですか?」

 玄関前で素早く下馬したサリオスが、馬車のドアを開けて問い掛ける。

「ええ・・・まぁ、何とか」

 馬車に酔うわけでは無いが、流石に長時間揺られているとかなり疲れる。けれど今は、これから新しい生活に入るのだと言う気構えが支えになっているようだ。


 オロールが馬車を降りると、ブライアン殿下自身が出迎えてくれた。この王子様は、腰が軽くて自ら動くことに躊躇いが無い。

「待っていた。皆、ご苦労だった。兵営に戻って休息に入ってくれ。オロール嬢、気分が大丈夫ならこちらに来てくれ。とりあえず、最も重要な人物を紹介しておく」

 どことなく嬉しそうな雰囲気で声を掛けると、ブライアンは大股でさっさと歩き出す。オロールはどこか覚束ない足取りで、何とかその後を追った。


「こっちがエフィー・フォリア夫人だ。私の世話係だが、侍女頭でもある」

 自室にオロールを招き入れると、そこには年嵩の女性と若い娘がいた。ブライアンは先ず、フォリア夫人を紹介する。

「フォリアでございます。こっちは侍女のメリアン。オロール様の部屋付きになります」

 礼儀正しく挨拶をする夫人と、まだ少しぎこちなく頭を下げる娘。

「オロール・スキルヴィングです。よろしくお願いします」

 オロールの静かな声に、フォリア夫人はマナーも忘れたように声を上げた。

「えっ!・・・スキルヴィング公爵家の、ご令嬢でいらっしゃる・・・」


 これは失敗した、と夫人は心の中で焦った。

『オロール』と言う名前だけは聞いていたが、名字や家柄については聞いていない。ブライアンは特に隠すつもりは無く、たまたま口にしなかっただけなのだが。夫人は、そうは取らなかった。

(デリケートな問題、と殿下が仰っていたのは身分上のことだと思っていたわ)

 フォリア夫人は、彼の『意中の女性』がオロールであると思っている。けれど彼女が下級貴族か下手をすれば平民であって、身分が釣り合わないのだと思っていた。

 けれどそういう事なら、その女性を上級貴族の養女にしてしまえば大丈夫だろう、とまで考えていたのだが。

(公爵家のご令嬢なら、何の問題は無いのに・・・何故?)

 いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

 今、傍らに控えている侍女メリアンは、つい先日まで下働きをしていた娘だ。気働きが出来るので、格上げして侍女にしたが、まだ経験は浅い。身分の低い女性のお付きならば、それで充分だと思っていたのである。


 貴族のご令嬢は、性格があまり宜しくない方が多いと聞く。お屋敷で働く友人たちから、愚痴を聞くことも多いのだ。気位が高く我儘なご令嬢には、それこそ百戦錬磨の侍女でないとやっていけないのではないだろうか。

(メリアンには、荷が重いわ・・・)


 フォリア夫人がそんなことを考えている間に、ブライアンはオロールに話しかけていた。

「夕食をとっていないのではないか?」

「・・・はい、でも今晩は食べられそうにありませんので。それより、図書室に行かせていただけないでしょうか?」

 馬車での長距離移動による疲労で、食欲など全くない。それより何より、一番心が引かれた凄い蔵書数の図書室を見てみたい。出来れば数冊、ベッドに運んでこれから読みたい。

 目をキラキラさせて彼に尋ねるオロールだが、その顔色は蒼白だった。


「いや、頼むからそれは体調が良い時にしてくれ。とにかく今晩は、すぐにベッドに入るように」

 頼むと言いながらも、有無を言わせないブライアンの言葉に、オロールは目に見えて落胆した。

「・・・解りました」

 身体から力が抜けたような様子を見て、彼は眉を顰めながらフォリア夫人に声を掛けた。

「実は、オロール嬢は身体が丈夫ではない。そうなるとそこの侍女1人では、色々対応が難しいだろうと思う。そこで、手が空いた時だけでも良いから、世話を手伝って貰いたいが?」


 パッと顔を輝かせて、夫人は勢い込んで答えた。

「お任せくださいませ!」

 懸念していたことは、これで何とかなる。自分から申し出ようとさえ思っていたのだ。病弱で気難しい御令嬢でも、自分ならお世話をこなすことが出来るはずだ。しかも大事な殿下の『意中の人』を、いや今はまだ『記憶に残る(忘れられない)女性』なのだろうが、傍で観察できるのだ。

 夫人は深々と頭を下げると、ぼんやりと立ち尽くすオロールを促して退出した。


「今晩は、こちらでお休みくださいませ。オロール様が暮らされるお部屋は、調度類などのお好みを窺ってから整える予定でございます」

 案内された部屋は、広さや家具調度は十分すぎるほど整っている。けれどこの屋敷内では、中程度の客室のようだ。次の間に寝室があるわけでは無く、部屋の奥にベッドが設えてある。けれどオロールに否やは無い。ただ少しでも早く、横になりたかった。


「お召替えをお手伝いさせていただきます」

 フォリア夫人はメリアンに寝間着を持ってこさせて、彼女のドレスを脱がせに掛かった。

(地味だけど、布も仕立ても最高級ですわね・・・)

 灰青色の、襟が高く長袖のドレスは飾り気は無いが、流石は公爵家のご令嬢が身に着けるものだと感心する。

 ドレスを脱がせると、次はコルセットを外しに掛かった。

(・・・これ、必要ないくらいでは?)

 女性に必須の下着であるコルセットは、生活に余裕がある平民でも女性ならば着用する。貴族であれば、まだ少女のうちから身に着けるものだ。

 細いウエストを得るためのものだが、着用する人によっては拷問具に等しいほど締め付ける。

 痩せているオロールのウエストにとっては、締める必要もないコルセットだが、固く丈夫に作られているそれは、着用するだけで呼吸もしづらい代物だ。


(明日からは、無しで過ごしていただいた方が良いかもしれないですね。それには、部屋着を・・・)

 オロールの健康向上のために、何やらやる気が燃えあがってきた夫人は、色々と考え始めた。

「メリアン、厨房に行って私からの指示だと言って、急いで持って来て頂戴・・・」

 フォリア夫人は、若い侍女の耳元に囁いた。


 元気よく返事をして小走りに部屋を出たメリアンは、ややあって戻ってくる。

「先にこちらを、お持ちしました。もう一つの方は、少し時間が掛かるので、もう一度行ってまいります」

 彼女が持ってきたのは、ホカホカと湯気を上げるマグカップだった。

 ベッドに入り横たわろうとしていたオロールに、フォリア夫人はその飲み物を勧める。

「何も召し上がらないのは、お身体に悪いです。ホットミルクは寝る前の飲み物としても、とても良いものなので、よろしければ少しでも・・・」

 そっと差し出されたカップを、冷たい手で受け取ったオロールは、大人しく口をつけた。

「・・・・・・甘い・・・」

「はい、蜂蜜を入れさせましたが、甘いものはお嫌いですか?」

 オロールは、ゆっくりと答えた。

「・・・いいえ・・・甘いものは、主治医から禁じられていたので・・・凄く久しぶりです」

「え?・・・禁じられていらしたのですか?」

「甘いものは、食事が食べられなくなるから、と」


 ただでさえ食が細い彼女の事を慮っての事なのだろうが、フォリア夫人はこの病弱なご令嬢が可哀そうになった。

 オロールは、特に表情も変えずに、けれど味を楽しむように少しずつホットミルクを飲む。そしてすべて飲み干してしまう頃、メリアンが戻って来た。

「まだ冬では無いので、こちらしか用意できないとのことです」

 彼女が抱えてきたのは、布に包まれた湯たんぽだった。

「そうですか。こちらでも良いでしょう」

 夫人が湯たんぽを受け取ると、メリアンはすみませんと頭を下げて付け加えた。

「明日、倉庫から出しておいてもらうよう伝えておきました。中に入れる火種の用意も」

「良い気働きですね、メリアン」

 夫人は若いメイドを褒めると、オロールの手からカップを受け取り、掛布団の裾を持ち上げて湯たんぽを入れた。着替えを手伝った時、彼女の手足が恐ろしいほど冷えていることに気付いていたのだ。


「失礼いたします。女性の身体に、冷えは大敵でございますので。・・・メリアン」

 夫人は小声で侍女を呼ぶと、明日の朝食の指示を与えて、自分はクローゼットに向かった。

(ワードローブは、オロール様に合わせて、少し考えなおした方が良いわね。でも、今は・・・)

 彼女は揃えておいた衣装の中から1枚を選び出すと、腕に抱えてベッドサイドに静かに戻る。


 オロールは、呆気ないほど深い眠りに落ちていた。

 穏やかな寝顔は、不愛想さは無くなって、素の表情になっている。顔色こそまだ悪いが、無垢なあどけなさが年相応の娘のようだ。

(・・・娘が生きていたら、こんな寝顔を見れたのでしょうね)

 フォリア夫人は、母親のように慈しみの笑みを見せて、オロールの肩に布団を掛けなおすと、静かに部屋を出て行った。



 翌朝かなり早い時間に、オロールは自然に目が覚めた。起き上がって部屋を見回し、昨夜のことを思い出す。

(・・・ぐっすり眠れたみたい)

 初めての部屋とベッドなのに、今までにないほど気持ち良く眠れた気がする。頭と体が軽くなったようで、昨日の疲労も消えていた。


「オロール様、お早いお目覚めでございますね。良くお休みになれましたでしょうか?」

 早速傍に近づいて来たフォリア夫人に、オロールは静かに頷いた。

「はい、昨晩は、ありがとう」

 こちらに顔を向け、自然に答えたオロールに驚いた。

「・・・恐れ入ります」


(使用人に対してこんな風にお礼が言えるご令嬢も、珍しいと思うのですが・・・こんな、お顔の方だったのですね)

 笑顔でもないが、素の表情は仏頂面でも不機嫌そうでもない。肌の色は抜けるように白いが、昨晩のように青褪めてはいないので、普通に綺麗に見える。身体が暖まっているのか、唇が桜色に染まっていた。


 着替えをする段になって、オロールは少し不思議そうに尋ねた。

「・・・あの・・・これは?」

「部屋着でございます。室内でお勉強されるのでしたら、この方がお楽ではないかと」

 コルセットも無しで着せられた服は、胸の下に切り替えがあるゆったりとしたデザインで、布は柔らかく暖かかった。

(コルセット無しでも良いなんて・・・王族の屋敷内なのに・・・)

 けれどこれなら、随分楽に過ごせるだろう。オロールは安堵して、運ばれてきた朝食の席に付いた。


 フルーツのコンポートが乗ったポリッジは、蜂蜜が掛けてある。ワンプレートに盛り付けられているのは、定番の目玉焼きやソーセージと焼いたマッシュルームにトマト。飲み物はミルクとオレンジジュースだった。

「お好みが解りませんでしたので、召し上がれるものだけでもどうぞ。ご希望がございましたら、お教えいただければ次はそのようにさせていただきます」

 普段のオロールなら、見ただけで満腹になりそうな量だが、全ては無理にしても、今朝はそれなりに食べられそうな体調だ。

「いいえ、特にはありません。・・・残しても良いのでしたら」

「召し上がれるだけで、よろしいのですよ」

 そう言い残してメリアンと一緒にベッドを整えに行ったフォリア夫人に、オロールはホッとしたようにスプーンを取り上げた。


 今まではいつも、監視されているように食事の様子を見られていた。そして食欲がない時でも、もっと食べるように促されていたのだ。

 ゆっくりと、静かに朝食を口に運ぶオロールは、ポリッジの半分とワンプレートの料理のを少しずつだが全て食べることが出来た。

「ひと通り召し上がってくださったのですね。素晴らしいですわ」

 食事で褒められたことなど無かった彼女は、一瞬ポカンとしてしまう。ニコニコしている夫人の顔をついぼんやり見ていた時、ノックの音がして、同時にドアが開いた。


「起きていると聞いたのでな」

 手に書類の束と数冊の本を抱えたブライアン殿下が、颯爽と部屋に入ってきた。

「坊ちゃま!それは流石に、無作法と言うものです。女性の部屋に来る時は、先に使用人を来させてください。着替え中だったりする場合もあるのですよ!」

 彼に乳を与えてオシメを変えたこともある乳母上がりの世話係は、遠慮なく言葉を投げつけた。


「あ・・・すまん。その・・・家を出る前に、オロール嬢に伝えておきたい事と、渡しておきたい物があったんだ。で・・・今は、大丈夫か?」

(全く、相変わらず朴念仁なんですから。オロール様は、部屋着のままだと言うのに・・・でも、それを気になさるような殿下ではありませんから、ヨシとしておきましょう)

 とは思ったが、流石に声には出さず、フォリア夫人は小腰を屈めて答えた。

「はい、丁度朝食を済まされたところでございます。オロール様は、今朝は体調もおよろしいものと存じます」


 オロールの方は、コルセットも着けない部屋着のままであることを、左程気にしてはいないようだった。

「おはようございます、殿下」

 立ち上がって朝の挨拶をする彼女に近寄ったブライアンだが、テーブルに乗った朝食の残りを見てキュッと眉を顰めた。

「・・・これで、朝食は終わりなのか?」

 彼にしてみれば、小鳥が啄んだくらいしか減っていないように見える。

「はい、普段より食べたと思います。ごちそうさまでした」


 一般的な女性の食事量などは知らないブライアンだが、彼女の身体が弱いのはこのせいもあるのかもしれないと思った。


「そうか、食事についてはフォリア夫人に任せておけば大丈夫だろう。それより、今朝は体調も良さそうだな。現在の王国軍備に関する資料を、とりあえず持ってきた。足りないものがあったら、すぐ用意するので言ってくれ。無理はしなくて良いから、体調を見ながら目を通すように。それと、今日から図書室にも行って構わない」

 思ったよりもずっと早く疲労から回復してるように見えるオロールに、ブライアンは機嫌よく伝えると、サッサと部屋を出て行った。

「今日は、早めに帰宅する。夕食は、自宅でとる」

 扉を出る直前に、そう言い残して。



 その日の夜、夕食を一緒にと伝えてきたブライアンの言葉に従って、オロールはダイニングルームへ向かった。屋敷内に食堂は2つあるが、普段使う方は小さくてダイニングルームと呼ばれている。客を呼んで行う食事会などは、大きなダイニングホールになる。

 オロールは、一応王族との会食に近いと考えて、フォリア夫人が選んだ淡い色合いのオレンジ色のドレスを着ている。

(・・・・ん?・・・何だか、雰囲気が違うが・・・)

 けれどブライアンの方は、その程度しか感じていない。

(それよりも・・・朝より顔色が悪い)


 ダイニングルームで向かい合って食事をする2人だが、オロールの方は食が進まない様子だ。

「今日は、1日何をしていたんだ?」

「部屋で、書類と本に目を通しました。ひと通り済ませたので、今は疑問点を書きだしたり、欲しい関連書物をメモしております」

「・・・早いな」

 あれだけの書類や本に全て目を通して、更に次の段階に入っているとは思ってもいなかった。少なくとも数日は掛かるだろうと思っていたが、読む速さも相当のものなのだろうと感心する。

 しかし、それゆえの顔色の悪さなのだ。朝は自然な赤みを帯びていた唇が、青くこそなってはいないが、色を失って白っぽい。

「あまり根を詰めるな。図書室へは、行ったのか?」

「いいえ、特に気分転換の必要はなかったので。あのような書類や本も、読むのは好きな方です」

 納得したような、しないような。ブライアンは軽く首をかしげたが、疲れるほどに楽しく勉強できたらしいと思う。


「そうか・・・欲しい関連資料とは何だ?」

 図書室にあるなら自分が探して持ってくるという殿下に、オロールは素直に答えた。

「武器や馬の図鑑・・・でしょうか。サイズや価格なども知りたいです。王国で所有する数は書類で解りましたが、イメージすら浮かばないので。具体的な性能なども知っておきたいところです」

「成程・・・では、明日兵営に行って部下に資料を作らせよう。デュースなら、明後日には提出できるだろうから持ち帰る」

「お手数をおかけして、申し訳ありません」

 律儀に頭を下げるオロールは、公爵家のご令嬢と言うより、有能な仕事仲間のようだ。


「ところで・・・その・・・オロール嬢、君は読書のほかに好きなものは無いのか?」

 見た目は御令嬢で話すと仕事仲間のようなギャップに、ブライアンは話の方向を変えてみようと試みた。

「その前に・・・」

 けれどオロールは、真っ直ぐに前を見て口を開いた。

「私はこちらに、勉強のために来ているのですから、呼び捨てにしていただけませんか?」

 王子殿下に教えを乞う立場だし、その方が気が楽だと言う。そもそも御令嬢として来ているわけでは無いのだから、いちいち尊称をつけるは不要だろう。

「解った。ではオロール、君の好きなものは?」


 何故そんな事を聞かれるのか、彼の意図は解らないが殿下の質問には答えなければならないだろう。

「好きなもの・・・ですか。昼間も、食べ物や調度や色については、フォリア夫人から聞かれましたが・・・」

 それらに関しては、特に無いと答えたけれど。

「読書以外だと・・・そうですね・・・風が好きです」


「風?」

 意表を突かれた言葉に、ブライアンは少々驚いた。女性ならばここで、花とか宝石とか、綺麗で可愛いものが出てくるのではないかと思っていたのだ。

「はい。部屋の窓を開けた時に入ってくる風や、嵐の時に窓を叩く風。馬車の窓から入る風も・・・好きです。空気が生きているような気がして」


 長い時間を閉鎖された空間で生きてきた。ただ静かに終わりに向かうだけの人生で、気分を癒してくれたり力を感じさせる存在は、それだけで非日常を感じさせるものでもある。


「ふむ・・・それなら、俺も風は好きだな。特に馬を全力疾走させた時などは、最高の気分だしな。汗をかいて馬を降りて、草原に立つ時の風も気持ちが良い。だが、やはり一番好きなのは、潮風かもしれないな。あの香りと心地よさは、今も懐かしく感じる」

 こんな会話は、楽しくて心地よい。社交の場で、致し方なくご令嬢たちの相手をするよりも、遥かに心が浮き立った。

「潮風、とはどんな香りがするのですか?」

 海さえ見たことが無いオロールが、興味深そうに尋ねた。

「うむ・・・何と言うか・・・爽やかで・・・自然の香りだからな、上手く表現できない」

 そして彼は、潮風を知らない彼女を、海へ連れて行ってやりたいと思った。


「いつか、機会を見つけて連れていこう。海は素晴らしいからな」

 そういう機会が本当に来るかどうかは置いておいて、オロールはいつもの不愛想な顔つきのまま、それでも穏やかに答えた。

「その節は、どうぞよろしくお願いいたします」




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