3-5 しがみつく指と白い背中 報復よりも今後の利益
どのくらい駆けただろうか。
都からの追手が来ないことを確認したブライアンは、目も眩むような怒りを無理やり抑えて、馬の足を止めた。
(・・・ここまで来れば・・・ん?)
風を切って駆けていたおかげで気づかなかった臭いが、むぁっと鼻を突いた。
自分の身体に着いた獣の返り血と汗、そして抱いているオロールからは獣の生臭さ。
(先ずはこれを何とかしないと・・・服も必要だしな)
ブライアンは、漸く冷静な思考を取り戻した。
少し先を走っていたフィザルはそれに気づくと、近くの大岩の上に跳び上がり、鼻を高く上げて空気の匂いを嗅ぐ。そして直ぐに飛び降りると、ブライアンに告げるように吠えて走り出した。
フィザルが導いたのは、川幅は広いが浅い流れで、そこから上流の方を見ると家の屋根らしきものがある。有能な軍用犬は、そちらに向かって小走りになりながら彼らを誘った。
川沿いの平屋で素朴な造りの家屋は、小さいながらも手入れは行き届いているようだ。川に面した庭の奥で、初老の女性が1人、竈の前でしゃがんでいる。
ブライアンはオロールを抱いたまま馬から降り、声を掛けた。
「すまないが・・・」
「あぁ?・・・ヒエッ!」
女性は振り向いて驚き、尻もちをついてしまう。
「あ、驚かせてすまない。少し休ませて欲しいのだが」
ブライアンは慌てて言葉を続けたが、相手が驚くのも無理は無いだろうと思った。
血まみれのシャツを纏っただけの女性を抱いて、上半身裸の逞しい男が立っているのだから。
老いてはいるが、こんな辺鄙な所で暮らすだけある。女性は機敏に立ち上がるとしげしげと様子を見定めて答えた。
「・・・あいよ、解ったから、ちょっと待ちな」
老女は手近にあった椀を手に取ると、竈の隣にある洗い場にちょろちょろと流れ落ちている水を汲んだ。
「とりあえず、お飲みよ」
節を抜いた竹の樋から流れ落ちる水は、川から引いているようだ。ブライアンは礼を言ってそのまま胡坐をかいて座り、冷たく澄んだ水が入った椀を受け取った。
「オロール・・・水だ、飲みなさい」
馬上で必死にしがみ付いていた彼女だが、いつの間にかその手は緩んでいる。極限まで張り詰めていた反動なのだろう。虚脱状態のようにぼんやりとして反応が無い。
けれど口元に椀を当てられると、反射的に何とかひと口だけ水を飲み下す。
「・・・もう少し、飲んで・・・」
優しく声を掛け、少しずつオロールに水を飲ませる彼の様子を見ながら、老女は庭の片隅に立てかけてあった盥を転がしてきた。
(とんでもない格好だけど、悪い奴じゃ無さそうえだねぇ)
大きな盥は浅いが、人間が1人入るには十分な大きさがある。老女はそこに、竈の上の大鍋で沸かしていた湯を入れて、水を加えて適温にした。
「その娘さん、ここで行水させてやんな。鍋の湯と水は、どんどん使っていいから。で、これ使いな。アタシは拭く布と何か着るモンを持ってくっから」
腰に下げていた手ぬぐいを盥に放り込み、老女はそそくさと家の中に入って行った。
ブライアンは立ち上がって、静かにオロールを盥の中に座らせる。
まだぼんやりとしている彼女は、されるがままに纏っていた彼のシャツを脱がされた。
生皮の血と脂で汚れた肌が露わになった。
(・・・こんな目に遭って・・・)
痛ましい気持ちを抱えながら、ブライアンは湯に浸した手ぬぐいで、丁寧にオロールの首筋から肩に向けて拭い始める。
華奢な肩から背中へと洗い進めて、ふと彼は思った。
(・・・何でこんな酷い状況の時ばかり、肌を見ることになるんだろうか)
前回は、オロールが凍えた時だった。
(もう、こんなことは御免だ。3度めは・・・3度目の正直という言葉もあるし、まともな状況であって欲しいものだ)
そんな事を考えて、いや今はそれどころじゃないんだと思い直す。
背中の血と脂の汚れが大分落ちたところで、ブライアンはこれで良いかと手を止めた。
(生臭さは取れたかな・・・)
白い背中の肩甲骨あたりに、鼻を近づけてみる。
(・・・ああ、大丈夫そうだ・・・が・・・)
生皮の臭いは取れて、少し暖まった白い肌が鼻先にある。
つい唇をそこに触れさせたくなってしまったブライアンだったが、その時ふいにオロールが振り返った。吐息のようなものが背中に掛かったことで、ハッと我に返ったようだ。
「えっ!」
「あっ!」
ブライアンは慌てて顔を遠ざけ、オロールは驚いて身体を隠すように縮こまる。
「いや、その・・・背中は綺麗になったぞ・・・」
そこで漸く、オロールは現状を理解した。
「あ、ありがとう・・・ございます。あ、後は自分で・・・」
耳まで赤くなったオロールが、ブライアンから手ぬぐいを受け取る。背中を丸め、髪から洗い始めた彼女に、彼は手桶に追加の湯を作り少しずつ掛けてやった。
黙ってひっそりと隠すように身体を洗う彼女の背中を、転がるように湯の玉が落ちてゆく。あんな酷い目に遭った後でも、湯を弾く玉の肌が美しい。
不謹慎だと思いながらも、目が離せずにいるブライアンだった。
そこに老女が、布やら古着やらを腕一杯に抱えて家から出てきた。
「とりあえず、使えそうなモンをかき集めてきたからね。こっちに置いとくけど、アンタも湯を使って綺麗になんな。娘さんの方は、アタシがやっから」
助かったような気もするが、もう少し見ていたかったという残念な思いもあったブライアンだ。けれどここは、大人しくその言葉に従う。確かに自分も、相当に臭いのだから。
老女の手助けで行水を終え、彼女の古着を借りて家の中に入ったオロールは、何とか自分の脚で歩けるようにはなっていた。
粗末な家の引き戸を開けると、そこは土間になっている。その奥が板張りの部屋で、靴を脱いで上がるような生活様式らしい。
裸足のオロールは足を拭いてもらって部屋に上がり、板の間にぺたりと座り込んだ。
そこに、大急ぎで体を洗ったブライアンが入ってくる。借りた服は彼には少々小さいようで、前を合わせることが出来ない。それでも上半身裸だと言うよりは、かなりマシな恰好だろう。
「本当に助かった。感謝する」
「ああ、どう致しましてだねぇ。うちの爺さんと孫の服の中から、一番多大きいのを選んだつもりだったけど、それでもやっぱり小さいかねぇ」
ブライアンの服もそうだが、オロールの方も袖丈や裾はつんつるてんな有様だ。けれど前を合わせてサッシュのような帯で締めれば、充分身体は隠せるので問題はない。
老女は忙し気に立ち働いて、奥の部屋を用意してくれた。
「こっちを使うといいさ。孫の部屋だけど、客間なんぞないから我慢しておくれ。布団も孫ので一組しかないけんど、後で冬用の毛布をもってきてやっから」
板張りの部屋は、家族の団欒用なのだろう。それ以外の部屋は、2つしか無いらしい。
「すまない、だがそうするとお孫さんが困るのではないか?」
オロールを休ませることが出来るのは本当にありがたいが、いきなり飛び込んできた不審な男女に一部屋と布団を譲るのは親切すぎるのでは無いだろうか。
「孫はアタシらと一緒に寝るから大丈夫さ。・・・いや・・・ね。何か、他人事じゃない気がするんだよ。息子と嫁がね・・・孫がまだ赤ん坊の頃に、殺されちまったのさ」
息子夫婦は、部族同士の争いに巻き込まれたのだと言う。孫を置いて農作業に出ている時だったそうだ。老夫婦は孫と一緒に家にいたが、それ以後はその土地を離れて、この場所でひっそりと暮らしてきたと話した。
「何かね・・・息子が嫁と一緒に、命からがら逃げて来れたっちゅうことをさ・・・何度も願ってたからかもしれんねぇ。そん時の事を、思い出したんだよ」
だから、出来るだけの事をしてやろうと思ったのだと老女は言った。
そんな話を聞きながら、オロールは疲れからか再びぼうっとしていた。それに気づいたブライアンは、黙って彼女を抱き上げて隣の部屋に運ぶ。孫のものだと言う藁布団に寝かせて、薄い掛け布団をそっと掛けてやると、その額に優しくキスを落とした。
丁度その時、土間の引き戸が勢いよく開いて、元気のよい声が響いた。
「ただいまっ!婆ちゃん、誰か来てるのか?馬と犬が外にいるけど!」
老女の孫とその連れ合いが帰って来た。
「オロール、寝ていてくれ。俺は彼らに、状況を説明してくる」
ブライアンは彼女を宥めるように優しく掛け布団を軽く叩くと、立ち上がって部屋から出て行った。
「俺たちはデュランダル王国から来たんだが、彼女が攫われて、生贄の儀式に使われそうになったので助け出してきた。あの血は、儀式に使われた獣の返り血だ」
かなり端折って説明したブライアンに、老夫婦とその孫は成程と頷いて信じてくれた。
「追手は来ていないようだが、今のところ都に戻れそうも無いので、本当に助かった」
真摯に頭を下げるブライアンに、ただの旅人では無さそうな雰囲気を感じながらも、この家の住人たちはそれ以上の事は詮索しないでくれる。
「それじゃ、儂は外の荷物を下ろして来っかな。八百屋に卸した残りと買ってきた干し肉があるから、飯の支度をしてくれや」
かくしゃくとした老農夫がやっこらせと立ち上がると、15・6歳くらいに見える孫もそれに続いて笑いながら言う。
「んじゃオイラは、うちのロバと・・・ついでに兄ちゃんたちの馬と犬の世話をしてくるわ。スゲェ汚れてるけど、イイ馬と犬だろ。川に連れてって、水を飲ませて洗ってやるよ。飼い葉もやって・・・ああ、爺ちゃん、荷車の干し肉少し犬にやってもいいだろ?」
「ああ、構わんよ。多めに買えたからなぁ。儂は終わったら先に、行水使うからよぅ」
至れり尽くせりの言葉に、ブライアンは深く頭を下げて感謝する。それにしても、和やかな家族だと笑みが浮かんだ。
ガラリと引き戸が開くと、オロールはハッとしたように藁布団から起き上がった。
「起こしてしまったか?」
ブライアンは急いで歩み寄り、その傍に腰を下ろす。床には丁寧な仕事の筵が敷いてあるが、藁布団はそこに直に敷いてある形だ。
「いえ・・・眠れなくて・・・」
弱々しい声で答えたオロールに、彼はそれは尤もだと思った。
(独りで見知らぬ部屋の中で、寝ろと言われて眠れるような状態じゃないだろうな)
「プボたちは面倒見てくれるそうだ。食事を作って貰っているから、今は彼らに甘えよう」
ブライアンはそっと彼女を抱き寄せて、優しく言葉を掛けた。
新鮮な野菜と干し肉を煮込んだ具沢山のスープと、小麦粉を練って焼いた素朴な堅パンだったが、味はなかなかのもので、ブライアンは美味しく平らげる。けれどオロールは、スープだけを少量すすっただけで、それ以上は食べることが出来なかった。
それでも少しは胃に物が入ったのだから、と再び彼女を寝かせることにする。
「今晩はずっと、傍にいるからな。安心して眠れ」
そう言って、自分は毛布を体に巻き付ける。藁布団の傍に横になったブライアンは、オロールが眠るまでその顔を見守った。
けれど暫くすると、隣の布団から寝苦しそうな声が聞こえてきた。
「・・・・ぅ・・・ん・・・・やめ・・・」
ハッと目を覚まして彼女の様子を窺うと、悪い夢でも見ているようだと気付く。
「オロール?・・・どうした?大丈夫だぞ」
苦し気に顔を歪ませるその頬に暖かい掌を当て、ブライアンは心配そうに囁いた。
その声と温もりに、オロールはハッと瞼を上げる。
「・・・ブライアン・・・」
定かではない視線と共に、微かな呟きが唇から漏れた。けれどそれは、自然に滑らかに綴られた言葉だった。
ずっと言いづらく、なかなか素直に呼べなかった名前。
けれどそれは、これが2度目なのだということにブライアンは気づいた。
(あの時も・・・呼んでくれた。手を差し伸べて・・・)
円形闘技場で檻を壊し、彼女の名を呼んで傍に膝をついた時。
オロールは『ブライアン』と彼の名を呼んで、その手を彼の頬に伸ばしたのだった。
「・・・ありがとう・・・オロール」
まだ悪夢から覚め切らない彼女の傍に、彼は身体を滑り込ませた。
粗末な藁布団の上で、薄い布団を一緒に掛けて。
そしてその胸の中に、しっかりと彼女を抱え込む。
力強く規則的な鼓動が、ぴったりと押し付けられた頬から聞こえ、オロールは彼のシャツを握り締めた。
「・・・どっちが・・・夢?」
独り言のような呟きに、ブライアンはその耳に囁く。
「こっちだよ」
そして静かに唇を合わせ、確かめるように何度もキスを交わした。
そして翌朝、ブライアンが懸念していた通り、オロールは熱を出していた。
(シャツ1枚で、馬で駆けたわけだし・・・その前は、冷たくて臭い生皮を纏っていたしな)
想定内ではあったが、やはりこうなるともう暫くはここで厄介になるしかない。ブライアンは彼女に寝ているように言って部屋を出た。
農夫たちの朝は早い。爺さんと孫は、日が昇る前に朝飯を終えて畑に出ていた。婆さんは、ブライアンたちが起き出す前に後片付けや洗濯を済ませてしまっていた。
「おんや、よく眠れたかいな?」
気の良さそうな笑顔で声を掛けてきた婆さんは、どうやら彼が起きてくるのを待っていたようだ。
「ああ・・・だか、彼女が熱を出してしまってな。すまないが、もう暫く居させて欲しい。厄介を掛けるが、出来る限りの礼をするので・・・」
「なぁに言ってんだかなぁ。礼なんかが欲しくてしてるんじゃないんだよ。それより、アンタは朝飯を食っちまいな。娘さん、熱があんなら薬を作ったげるからな」
ぶっきらぼうな物言いに似合わないような笑顔で、婆さんは戸棚の中から乾かした植物を何種類か取り出すと、庭へ出て行った。
こんな田舎暮らしでは、薬の類も自家製なのだろう。外の竈で煎じるのは、臭いが凄いという事なのだろうか。
暫くして運ばれてきた薬は、案の定とんでもない代物だった。
色はどろりとした腐った沼のようで、ツンと鼻を突く臭いは不気味ですらある。
「・・・これは、薬か?」
椀を覗き込んだブライアンは、思い切り眉を顰めて呟いた。これを彼女に飲ませたら、それだけで更に具合が悪くなりそうな気がする。
「我が家の秘伝だぁね。ユキノシタ、ドクダミ・センブリにショウガ・・・色々使ってあっから、解熱だけじゃない万能薬みたいなモンさ」
自信たっぷりに椀を差し出す婆さんに、オロールも恐る恐るだが受け取るしかない。
普段は無表情に近い彼女の顔が、流石にその見かけと臭いに歪んだ。
「・・・っ・・・ぅ・・・」
鼻を摘まんで一気に飲み干したオロールは、吐き出しそうになる口元を手で押さえる。
「だ、大丈夫かっ!」
ブライアンは彼女の背中をさすりながら、手に持っていた水の茶碗を差し出すより他は無かった。
「・・・・・にが・・・えぐみ・・・臭く・・・ぅ」
水を飲んでも消えない口の中の感覚に、何とかそれだけを呟いて、オロールはぐったりと藁布団に沈み込んでしまった。
けれど、そんな暴力的で刺激的すぎる薬だったが、効果は充分にあったらしい。
ぐっすりと眠りこんだオロールに安心して、ブライアンは庭に出てみた。
「おお、おはようさん」
爺さんが荷車に朝採りの野菜を積みながら、長閑な声音で挨拶を寄越す。
「娘さんは、大丈夫かな?」
「いや、熱を出したんで今薬を作って貰って飲ませたところだ」
「ああ、婆さんの薬は良く効くから・・・だが、あれをよく飲めたもんだ」
磊落に笑う爺さんは、自分も飲まされたことがあるのだろう。
「あ、おはようございます!」
そこにロバを連れた孫がやってきて、明るい声を掛けた。
「昨日は言うのを忘れてたけど、オイラはサートゥルって言うんだ。これから爺ちゃんと一緒に都に行って、八百屋に野菜を卸しに行くんだけど、何か用ってあるかい?」
気さくに問いかけて来るサートゥルは、少年っぽさが残る顔つきだが、一人前の仕事をしている自信に満ち溢れている。
「ああ、俺はブライアンと言う。彼女はオロールだ。よろしく頼む」
信頼できる家族だと解り、彼はここで漸く名を明かす。そしてこの賢そうな青年の、気遣いに甘えようと思った。
「それじゃ、頼まれて欲しい。俺と彼女の服をひと揃い、買って来てくれないか。古着で構わないので、目立たないような物を。何しろ儀式の真っ最中に飛び込んで、彼女を助け出してそのまま都から脱出したので、荷物が無い。それと、その後どうなったかを知りたいので、噂でも構わないから色々聞いて来て欲しいんだが」
そしてブライアンは、ズボンの隠しポケットから1枚の銀貨を取り出した。
「これは服の代金と・・・もしあったらウォーターメロンを買ってきてくれないか。彼女の好物なんだ」
砂地で育つと言うウォーターメロンなら、首長都の店には置いてあるのではないかと思ったブライアンだ。昨日以来ろくに食事をしていないオロールだが、好物なら喉を通るかもしれないと考えた。
「あいよ・・・って・・・ウォーターメロン・・・荷車に積み切れるかな・・・」
古着を買った残りで買うと、数十個くらいは買えるだろうと暗算したサートゥルだ。
「え?・・・ああ、いや1個で良いから。残りの金は、まぁお礼のつもりで受け取って欲しい。こんな事しか、今は出来ないのが心苦しいのだが・・・君やお爺さんやお婆さんに必要な物とか、好物を買って貰えれば嬉しいと思う」
見ず知らずの闖入者に、これほどの助けを与えてくれた相手に、どれほど感謝しているかは言い表せない。そんな真摯なブライアンの態度に、サートゥルは銀貨をキュッと握り締めて答えた。
「解った、それじゃ爺ちゃんと婆ちゃんに伝えて・・・どうするかはそれから決めるけど、とりあえず頼まれたことは引き受けるよ」
思慮深く答えたサートゥルは、最後にニッコリと微笑んで見せた。
その日の夕方近く、サートゥルと爺さんは都から帰って来た。
その頃には、あのとんでもない味と臭いの薬のお陰で、オロールの熱は綺麗さっぱりと下がっていた。良薬口に苦し、いや死ぬほど苦くて臭いと言うべきかもしれない。
買ってきて貰った服に着替え、川で冷やしたウォーターメロンを食べた彼女は、ほぼいつも通りに動けるようになっている。ちょっと前に比べたら、随分と体力も付いて来ているのだろう。
板の間に輪になって座り一緒に食事をしながら、ブライアンとオロールはサートゥルの話を聞いた。
「儀式のことだけど、街中その話でもちきりだよ。『炎陽の勇者』が、生贄にさせられそうになった女性を助け出したってさ。儀式は滅茶苦茶になったけど、街の人は凄い物を見たって大喜びしてたな。あれってハンメル族の儀式だったんだろ?首長様やハンメル族は、その勇者を探してるみたいだけど、もう都の中にはいないだろうって諦めてるみたいだな」
ブライアンは、眉を顰めた。
(何が炎陽の勇者だ・・・)
あの時の事を思い出すと、はらわたが煮えくり返る。そのハンメル族や首長、そしてそれを楽しもうとしていた都の住人さえも、報復の対象にしたいとさえ思う。
そんなブライアンの心中を、オロールは敏感に察していた。
その晩、オロールは彼を誘って庭に出た。
「・・・助け出して下さって、ありがとうございました」
律儀に頭を下げる彼女に、ブライアンは寧ろ慌てる。
「いや、油断していた俺も悪い。と言うか、生贄の儀式のために人を攫う奴らが、一番悪いと思うが」
「油断していたと言うなら、私も同じですから。それに・・・その後も色々とお手数お掛けしました」
一糸纏わぬ姿で汚れた自分を、行水で洗って貰ったことはある程度覚えている。
けれど裸を見られたのも2度目になると、最初の時のような動揺は無かった。思い出すと恥ずかしくはあるのだが。
川のほとりで水音を聞きながら、次はどこから話を切り出そうかと考えるオロールに、先にブライアンが口を開いた。
「ここから真っ直ぐに、デュランダルに帰るか?」
あんな酷い目に遭ったのだから、一刻も早く帰りたいのではないだろうかと気遣った。
けれどオロールは、ゆっくりと頭を横に振る。そして問い返す様に、話しかけた。
「ブライアンは、彼らに報復したいと思っているのでは?」
図星を指されて、ブライアンは思わずキュッと身体を引き締める。
「それは、まぁ・・・その通りだが・・・あんな目に遭わされて、逃げるだけじゃな・・・だが、お前が帰りたいと言うなら、今はそうしようと思う。報復は、帰国した後でもできるからな」
それは、デュランダル王国とサンリット首長国の間に、戦端を開くという事なのかもしれない。
私怨には違いないが、第6王子であり陸軍大将である彼の大切な存在を、生贄などにしようとしただけでも立派な理由になるだろう。
そこまで考えるほど、ブライアンの怒りは凄まじいという事なのだ。
けれどオロールは、彼の目を真っ直ぐに見つめて、きっぱりと言った。
「まだ、帰りたいとは思いません。私だって、あんな目に遭わされたことには怒りを覚えています。ですから、どうせならこの状況を、何も遠慮せずにこちらの利益にさせてもらおうかと考えています」
「???」
ブライアンの頭に、盛大な疑問符が浮かんだ。
そしてオロールは、今日の昼間に考えて組み立てた計画を、彼に詳しく説明する。
それはかなり長い時間を要したが、最後にブライアンは陸軍大将の顔になって頷いた。
「解った、それでいこう。なかなかに面白い話だが、上手くいくのか?」
「失敗しても、こちらには何も損はありません。実験にもなります。ちょっとした意趣返しも含めての計画です。今後のサンリット首長国との関係も、優位に立てる可能性がありますし」
オロールはその頬に、微かな人の悪い笑みを浮かべていた。
翌朝、2人は老夫婦に感謝と別れを告げ、その際に身分を明かした。
「・・・な、なんか・・・身分の高い人じゃねぇかとは思ってたけどなぁ」
「まさか、王子様と公爵令嬢だとはねぇ・・・」
呆気にとられる爺さんと婆さんに、ブライアンは一つ提案をする。
「実はお孫さんであるサートゥル君の事だが、彼の将来について考えていることはあるのだろうか?もし可能なら、彼を首長都にあるデュランダル王国の外交官邸で働いてもらいたいと考えているのだが。通いでも出来る仕事なんだが、どうだろう?」
「へっ?・・・サートゥルを、ですか?」
当のサートゥルも、ハトが豆鉄砲を食らったような顔をしていた。
暫く顔を見合わせていた老夫婦だったが、やがて互いに頷きあって答える。
「それはありがたいこってす。儂ら夫婦はまだまだ元気ですし、孫はこの先こんなところで農夫をしていても、嫁さんだって貰えないでしょう。遠くに行っちまって顔を見れないという訳じゃ無し、コイツの可能性は広げてやりたいと思います」
うんと大きく頷いて、ブライアンはサートゥルに向き直ると、陸軍大将としてきっぱりと告げた。
「デュランダル王国陸軍の配下になるが、正式な役職などについては後々に定める。主に外交官や留学士官が、首長都で過ごしやすくするための案内役だと思ってくれ」
そういう事なら、とサートゥルは頷いた。愛国心豊かなサンリット人では無いが、異国の軍に入るのは少し抵抗があったのだ。
独特の文化、おそらくデュランダル王国とはかなり異なるこの国で、外交官や留学生には案内役が必要になるのだろう。そういう仕事なら、やってみたいと思う。何よりこの、炎陽の勇者と言われるような王子の下で働けるのはまたとないチャンスなのかもしれない。サートゥルは憧れで頬を染めながら答えた。
「サートゥル・アリーと申します。若輩ではありますが、精一杯お勤めしたいと思います」
そしてブライアンとオロールは、サートゥルを伴って首長都へ向かった。
「アリー君、最初の仕事だ。我々は誰にも悟られずに、デュランダルの外交官邸に入りたい。それを手伝って欲しい」
城壁が見える場所まで来て、ブライアンがそう告げると、サートゥルはニコッと笑った。
「変装ですね。お二人は昨日買ってきた防塵ゴーグルとスカーフである程度大丈夫だと思いますが、馬と犬の方を何とかしないと拙いと思います。街中の噂には、漆黒の馬と金の鬣の馬、サルーキ犬の話も入っているので」
いくら変装していても、噂に出てくる2頭の馬と1匹の犬を一緒に連れていれば、あっと言う間にバレそうだ。
サートゥルは辺りをキョロキョロと眺めると、小さな流れの傍にある泥地へと一行を案内した。
黒馬と栗毛馬、そしてサルーキ犬の変装が始まった。
泥を塗りつけるようにして馬体を汚し、シャカールに至ってはその鬣までにも泥を摺り込む。流石に嫌そうに逃げようとするシャカールを、オロールは何とか宥めて我慢させた。フィザルは自ら泥の中を転げまわり、ベージュの身体を薄汚れた茶褐色にした。
念のためサートゥルがフィザルを連れて先に門を潜り、少し離れてブライアンとオロールが後に続くと言う形で、一行は無事に外交邸宅へと入ることが出来た。




