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風を紡ぐ   作者: 甲斐 雫
第3章 サンリット首長国

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3-4 北との戦 白い生贄

 白い漆喰の家が隙間なく並ぶその1つが、目指す場所だった。

『デュランダル王国 外交官 官邸』

 と書かれた金属のプレートが埋め込まれた横にある木製の扉を、ブライアンは力強く叩く。

 そのまま暫く待つと、重い音を立てて扉が開き、ぬっと顔を出したのはターバンを巻いたいかつい顔の大男だった。


「何の用だ?」

 不愛想な声で威圧するように問う男に、ブライアンは平然と答える。

「コイヌール外交官はいるか?不在なら、留学士官でもいい」

 陸軍から派遣されている留学生も、この官邸にいる筈だ。彼らなら自分の顔を知っているはずだと思った彼だが、大男は不審そうに眉を顰める。

「皆、出払ってる。ついさっき、夕飯を食いに広場の方に行ったんだ。暫くは帰ってこないから、アンタたちもメシを食ってきたらどうだ?」

 大男はブライアンとオロールをザっと見定めると、口調を柔らかくして答えてくれた。旅人の姿の中に、どことなく漂う品の良さを見抜いたのだろう。

「この先に、幾つか居酒屋があるからな。暫くそこで、時間を潰してくるといいぞ」

 ブライアンは頷いて、とりあえず軽く夕食を済ませようと決めた。

「では、馬と荷物を預かっておいてくれないか?」

 流石に馬2頭と荷物を持って行くのは大変だ。店の外に繋いでいても、馬ごと盗まれる可能性も大きい。

「ああ、ちょっと待っててくれ」

 男はそう言って中に引っ込み、扉を閉める。そして少し離れた場所にある、大きな扉が開いた。

「馬はここから入れてくれ。ああ、犬も預かっておくよ。混んでる居酒屋じゃ中に入れて貰えないだろうしな。馬も犬も、ちゃんと世話して置いてやるから、安心しな」

 フィザルの頭に手を置いて気さくに話す男は、どうやら動物好きで、見掛けに寄らず親切なのだろう。

 ブライアンは安心してプリンスボンドたちを預け、手回り品だけを持ち、オロールと2人で食事をしに出掛けた。



 薄暗い居酒屋のテーブルに腰かけた4人の男たちは、苛立たし気に酒を煽っている。

 褐色の肌と衣服などから、この辺りのどこかの部族の兵士の様に見えた。

「・・・ったくヨオ~~何だってあの野郎、勝手に死んじまうんだってぇの。死ぬんなら、俺らの役に立ってからだってイイじゃねぇか」

「テメェが油断したのが、いけねぇんじゃねぇか!お陰で、俺らまでこんな命令受けちまったんだぞ。儀式が始まる前までに代わりのを調達してこいなんて、無理じゃねぇか」

「だよな~~、あの捕虜だって苦労して殺さずに連れて来たんだぜ」

「もし代わりがダメだったら、死体で何とかするんだろうけど、やっぱ俺らに処罰は下るだろうしなぁ」



 怒鳴るような話し声が飛び交う居酒屋の喧騒の中に、ドアが軋む音が微かに鳴って、2人の旅人が入って来た。先に入った大柄な男性はドア近くに空いている席を見つけると、小柄な女性らしき連れを席に座れせ、近くに座る気の良さそうな年寄りに問いかける。

「注文はどうすればいいんだ?」

「ああ、食べもんなら、カウンターの中のオヤジに言いな。豆のスープがお勧めだな。飲み物は、カウンターに置いてあるのを勝手に持ってくりゃいいのさ」

 男は礼を言って、カウンターに歩み寄った。


「・・・おい、アレ見てみな」

 4人連れの下っ端兵士らしい男の一人が、ドア近くの席にいる女性を顎で指し示す。

 彼女は防塵ゴーグルを外して、ポンチョを脱いでいた。

「ん?・・・肌が白いが、女だぞ?」

「別に、男じゃなきゃいけねぇとは言われてないだろ。北の民に見えりゃイイんだよ」

 男たちはコソコソと話し合い、1人の男が席を立った。

「まだ、残りがあるからさ・・・」

 彼は懐から小さな革袋を取り出し、嫌な笑みを頬に浮かべた。


 カウンターで注文を済ませた男は、並べられていたぬるいミントティーのグラスを2つ持って席へ戻る。そして居酒屋の主がカウンターをぐるっと回って厨房から出てくると、手の中に革袋を隠し持った男が歩み寄った。

「オヤジ、手伝ってやるよ。こいつは、どこへ運ぶんだ?」

 主は手に、煮込み料理の皿を持っていた。

「あっちの爺さんだ。助かるぜ、今晩は1人なんでな」

「あいよ、次のもカウンターに置いてくれりゃ、運んでやるさ。何しろ今晩は、相当混んでっからな」

 それから男は、何度かカウンターと客席を往復し、次々と料理を運んだ。

「コイツは、ドア近くの席だ」

 主が豆のスープの皿を2つカウンターに乗せ、直ぐに次の用意をするために背を向けると、男はニンマリと笑って小さな革袋の口を開いた。




「おい!アンタ、起きろよ」

 ゆさゆさと身体を揺すられながら掛けられた声に、ブライアンはテーブルに伏せていた顔を上げた。

(・・・っ・・・何だ?)

 額と目元に手を当てて声の主を見るが、頭がズキズキと痛む。

「真夜中過ぎても来ないから、心配になって探しに来てみたんだ」

 そこにはターバンを巻いたいかつい顔の大男が、眉を顰めて立っていた。


(真夜中?・・・俺は寝ていたのか?)

 そこでブライアンは、前の席にオロールの姿が無いことに気付く。

「オロールは、どこへ行った!」

「え?俺が来たときは、アンタ1人だったがな」

 ブライアンは椅子を倒して立ち上がったが、ふらりと身体が揺れる。

(・・・薬を盛られたか)

 あの時、2人で一緒に豆のスープを食べた。自分の皿にだけ薬が仕込まれていたなら、オロールが何とかするはずだ。と、いう事は・・・

「オロールが、攫われた!」


 ブライアンはまだ店内に残っている客や居酒屋の主に、何か知らないかと尋ねて回る。探しに跳びだしたい気持ちを抑え、手掛かりを求める彼だったが、その間にターバンの男は店を出た。


「おい、こっちだ!」

 何の手掛かりも得られず居酒屋を飛び出したブライアンの耳に、大声が飛び込んできた。

「要るかと思って、出してきた」

 大男は、預けていた2頭の馬と1匹の犬を道路に出してくれていた。プリンスボンドとシャカールには、鞍が付けられている。


「助かる!・・・フィザル、来い!」

 ブライアンは店に置き去りになっていたオロールの上着を、フィザルに嗅がせた。

「追跡だ!頼むぞ!」

 彼女の服は大男に渡し、パッとプリンスボンドに跨った彼の近くで、フィザルは大きく胴震いする。

 軍用犬の仕事モードに入った大型犬は、猛然と辺りの地面を嗅ぎまわると、キッと前を見て走り出した。




 ドサリ、と体が投げ出されたような衝撃に、オロールは目を覚ました。

(・・・何?・・・何が起きたの?)

 痛む体を無視して頭を起こし、辺りを見回す。

 ガシャン・・・ガチン

 音がしたのは、鉄格子だ。鍵が掛けられて、その向こうに立ち去ってゆく男の背中が見えた。


(居酒屋で食事をしていて・・・)

 抗いがたい睡魔に負けてテーブルに伏したことだけは、朧気に思い出した。

(殿下は・・・ブライアンは、どこに・・・)

 頭痛と動かしづらい身体で、眠り薬が盛られたのだと言う事は解った。おそらく、彼も同じように眠らされたのだろうと思う。

(別の場所に、連れて行かれたのでしょうか?)

 彼の現状を知るすべは無いが、先ずは今の状況を出来るだけ把握しなければならない。オロールは気を引き締めると、周囲を調べ始めた。


 天井近くに、小さな明り取りの窓があったが、その向こうはどうやら地面のようだ。足音や人の気配は無く、どうやらここは半地下の牢屋なのだろうと解る。

 先ほど閉められた鉄格子に近づくと、複数の獣の唸り声が微かに聞こえ、その臭気も感じられた。

(何種類かの肉食獣が、飼われている?)

 さらに遠くから、人々のざわめきのような音も聞こえてきた。


 ここから脱出することは、自分の体力では不可能だと解ったオロールだが、そうすると可能性があるなら、誰かがここに来た時だけだと思う。何とか上手く話を持って行って、情報を得るしかない。

 牢の中の床に座って思考を巡らせていたオロールだったが、やがて複数の足音が聞こえてきた。


「気が付いてたか。そろそろ時間だからな、手間が省けて良かったぜ」

 見慣れない戦装束の男たち3人は、どこの部族の者なのだろうか。

「私と一緒にいた連れの男性は、どこですか?」

 オロールは真っ先に、ブライアンのことを尋ねる。

「は?知らねぇよ。まだ居酒屋で寝てるんじゃねぇか」


 そこでオロールは、ここにいる男たちが、自分だけを拉致してきたのだと理解した。

「では、ここはどこですか?」

 ガチャガチャと鍵を開けて中に入ってきた男たちは、妙に落ち着き払っていた。

「円形闘技場だ。夜明け前に、儀式を始めるからな。さっさと準備しないと時間もない」


 円形闘技場、儀式、そして獣の声と臭い。

(・・・まさか)

 オロールの背中に戦慄が走った時、男たちが2人傍にしゃがみこみ、乱暴に服を掴んだ。

「獣たちが腹を壊すといけないからな、服は全部脱がせる」

「や、やめてっ!」




 オロールの行方を追っていたブライアンは、時折立ち止まっては匂いを確認して追跡を行うフィザルの後をついてゆく。

 やがて彼らは、ある方向に向かって歩く人々に追いついた。

「おい、この人混みは何だ?」

 かなりの人数が、急ぎ足で歩いていた。

「ああ?急がないと始まっちまうんだよっ!」

 苛立たし気に答えた男に、ブライアンは怒気を滲ませて馬上からその襟首を掴んだ。

「答えろ」

「ヒッ・・・とっ、闘技場だよっ。円形闘技場!」

 半ば宙づりにされた男は、何とか声を出して答える。

「こ、今晩は特別な見せもんがあるんだ。ハンメル族の戦前の儀式を、無料公開するんだよ」


 北からのテソーロ候の軍勢と、近々戦端が開かれると言う。そのためにサンリット首長が呼び寄せた部族たちの1つ、ハンメル族が都に滞在していた。

 荒々しい部族たちの中でも、ハンメル族は特に粗暴で、戦の前には生贄を捧げて儀式を行う。


「昨日お触れがあって、その儀式を闘技場でやるからって・・・しかも今回はその生贄が、いつもの牛や羊じゃなくて、戦相手の白い民だっていう話だから・・・」


 普段闘技場では、剣闘士や獣、或いは獣同士の戦いを見世物にして料金を取っている。時には首長自らも見に来るような、この国の娯楽と言って良い。

 今回の儀式を無料公開したのは、大きな戦となりそうな先行きを見越して、都の中の意識を盛り上げようとする意図もあったのだろう。


「なん・・・だと・・・」

 ブライアンの背中を、嫌な感覚が駆け上がった。

 フィザルは、円形闘技場を目指して追跡している。自分はここの国の民では無いが、それでも日焼けした肌でかなり周囲に馴染んでいる。けれどオロールは、北の民と同じくらいに色白なのだ。

「今回は首長様も来るっていうから、もう闘技場は満席だろうけどなぁ・・・ヒッ!」

 地面に下ろされ、ぶつくさ言い出した男の目に、馬上のブライアンが纏った空気が、燃え上がるように見えた。



 服を全て剥ぎ取られ、最後にターバンを毟り取られたオロールの髪が、その背中と肩を覆った。

「・・・ぅお・・・」

 思わず息をのんだ男たちの前には、透き通るように輝く白い裸身と、流れるように光を放つ銀糸の髪がある。

「な・・・生っ白い肌・・・しやがって」

 目を奪われてしまった己を誤魔化す様に、男の1人が声を絞り出して立ち上がる。

「き、北の民の・・・生贄にはうってつけだぜ」

 もう1人の男も立ち上がってそう言うと、3人目の男が、床に横座りになって背を向けながら身体を隠すオロールに近づいた。


 ベシャッ!


 男が手に持った物を投げつけると、湿った音が響く。

「獣たちの餌のために、さっき解体した牛の生皮だ。こいつを纏っておけ」

 血と脂と、獣の臭い。

 吐き気を催すほどの生皮だったが、それも獣たちを興奮させるのに役立つのだろう。

 裸で引き出されるよりはマシだろう、とオロールは込み上げるえずきを堪えて、生皮の前を合わせた。


「そろそろ時間だな」

 生皮を投げつけた男が、先に牢を出てゆく。

 残った男2人がオロールを立たせようとしたが、彼女はその手を振り払って、自分の脚ですっくと立った。


(・・・この状況は、もうどうしようもないですね)

 とりあえず、ブライアンの心配は無さそうだ。彼が無事なら、それだけでも安心できる。

(まさか、自分の最後が生贄だなんて、昔は想像したことも無かったですが・・・)


 オロールは、彼の顔を脳裏に浮かべた。

(人は死ぬ前に、それまでの人生が走馬灯のように頭に浮かぶというけれど・・・出来ればそれは、後半・・・数年分だけが良いですね)

 ブライアンと出会ってからの時間だけで良い。それ以前の事は思い出したくも無いし、走馬灯が過ぎてゆく間に途中で時間切れになったら残念過ぎる。


 牢を出て通路を歩くオロールは、ただ彼の事だけを考えていた。

(まだ、ちゃんと役に立っていないのに・・・)

 参謀として計画したことは、まだ道半ばだ。それを見届けることが出来ないのは、残念だし無責任の様にも思える。

(あんなに・・・大切にしてもらったのに)

 いつも気遣ってくれて、面倒なことも優しく対応してくれた。

(好きだって・・・言ってくれたこともあったけど)

 何となくだが、それが恋愛に近いものだということは薄っすらと理解している。

(それに関しては・・・寧ろこの方が良かったかもしれないですし)

 せめてそう思う事で、この先の事を受け入れよう。女性として不完全で欠陥品な自分が、彼の想いに応えることなど出来ないのだから。

 そうとでも思わなければ、足が進まない。


 暖かいキスも、優しい手も、心が籠った言葉も、どれだけ嬉しかったか解らない。

 1つずつ記憶の中からそれを思い出しながら、やがてオロールは通路の出口、円形闘技場の中へと足を踏み入れた。


 その瞬間、物凄いどよめきが周囲から叩きつけられる。

(・・・煩い)

 一瞬目を瞑ったオロールだが、目を開けてゆっくりと辺りを眺めた。



 すり鉢のような闘技場は、観客で埋まっており、これから始まるショーの興奮が既に高まっている。

 観客席の最前列がやや高い場所になっているのは、獣たちが飛び込まないようにするためなのだろう。ハンメル族の兵士たちが、その壁の前に間を置いて立っている。

 闘技場の床は円形で、その円に沿うようにぐるりと溝が掘ってあった。溝の中には薪が置かれ、今まさに油が注がれている。


 中央の舞台に通じる場所は何か所かあって、それらは全て扉から伸びていた。あの扉から、獣たちが放たれるのだろう。そしてその後、薪に火が付けられるのだ。

 炎に照らされた生贄の儀式は、さぞかし凄惨でおぞましいものになりそうだが、観客の方は腹立たしい戦相手が犠牲者なら罪の意識など持たないのだろう。


 観客席の中段には豪華な席が設けられ、異国の派手な衣服を身に着けた壮年の男性がふんぞり返っている。あれがおそらく、サンリット首長だ。警備の兵も、物々しい出で立ちで控えていた。


 そんな観客席を一瞥すると、オロールは静かに足を踏み出した。

 僅かに顎を上げ、真っ直ぐに前を向いた顔は無表情だ。

 自分らしく、ありたい。

 最後は、自分がそうありたいと思うように行動したい。

 そう思った。


 オロールは視線だけを僅かに上げ、明けゆく空を見る。観客の喧騒は、もう耳に入ってはこない。

 こうして空を見続けていれば、最後の瞬間には彼の顔が映るかもしれない。幻でも想像の産物でもいいから、見ることが出来たら幸せだろう。

 極限まで意識を張り詰め、今まで生きてきたように平然と全てを受け入れよう。


「白い生贄だ!」

「女だぞ!」

「・・・泣きわめかねぇのか?」

「何であんなに、堂々としてるんだよ」


 騒いでいた観客たちの声が、ザワザワしながら潮が引くように消えてゆく。

 静まり返った闘技場の真ん中に、血と脂で汚れた生皮を羽織った裸の女性が座らされた。けれど彼女は、まだしっかりと顔を上げ、空を見上げている。


 そして、闘技場の隅に立てかけられていた、組み立て式の簡素な檻が運ばれてきた。

 細い枝を縄で縛り、鳥かごのように作られたドームのようなそれが、オロールの周囲に組み立てられる。

 放たれた獣が、一気に襲い掛かって儀式が直ぐに終わらないようにとの思惑なのだろう。獣が生贄の周囲をうろつき、中の犠牲者が恐れて怯える様も見られるし、長く楽しめるということなのだ。

 実際に檻の作りは形だけのようなもので、獣が本気になれば、容易に壊されるだろう。


 儀式の口上が始まり、静まり返った闘技場の中に、緊張と期待の空気が漲っていった。




 ブライアンは、東の空を見た。

 未明の空は、薄紫に色を変えつつある。彼は愛馬の腹を蹴ると、道の先にある闘技場に向かって駆け出した。

(・・・間に合えっ!)

 何も命令されずとも、プリンスボンドには全てが解っているようだった。漆黒の馬は、彼の最大限の速度で地を駆ける。そしてシャカールとフィザルも、同じように全ての力を集めたように直ぐ後を走った。

 地響きを立てて疾走する馬たちの勢いに、人々は驚いて逃げるように道を開けた。



 儀式の口上が終わると、合図とともに1つの扉が開いた。

 中から10頭のデザートウルフ、砂漠と荒野に生息する獰猛な大型狼の一種が出てくる。腹を空かせているようで、直ぐに生皮の匂いを嗅ぎつけたようだった。

 デザートウルフたちが中央の檻の方に足を向けると、床に刻まれた溝の中の薪に火がつけられる。蒔いた油のせいで勢いよく燃えあがった炎に、ウルフたちは一瞬たじろいだ。

 円を描く炎から遠ざかるように身体を逃がす獣たちだが、近づかなければ良いと判断したのか、後は食欲に忠実に檻に近づいた。


 グルルル・・・

 低く唸りながら、デザートウルフたちは檻の中の生贄を見定めている。

 オロールは一瞬だけ獣たちを見たが、無表情を崩さずに再び空を見上げた。

 ギシギシギシ・・・

 粗末な小枝の檻は、狼たちが頭で軽く押すだけで不気味な音を響かせる。



 その時、闘技場の客席出入口から、馬の足音が轟いた。

 今から始まる場面を食い入るように見ていた通路際の観客がそれに気づき、舌打ちしながらチラッと目をやると、その視界を真っ黒な疾風が駆け抜ける。

「ぅわっ!」

 思わず上げた声に、他の観客も目を向けた。

 漆黒の馬に跨った男と、それに続く金の鬣の馬、そして最後に薄茶色のつむじ風のような犬が、観客席の階段を駆け下りる。

 そして闘技場の床に飛び降りると、目の前に上がる炎の壁をものともせず、プリンスボンドは蹄の音を響かせて跳躍した。


「うわっ、何だっ!」

 いきなり出現した闖入者たちに、観客は騒然となった。

 更にもう1頭の馬も炎を飛び越えて降り立ち、サルーキ犬も軽々と跳躍して中に入る。サルーキと言う犬種の跳躍力は、犬の中でも屈指のものだ。


 黒馬から飛び降りた男は、既に剣を抜き放っていた。

 一気に間合いを詰め、飛び込んできた馬に驚くデザートウルフの1匹の首を、鮮やかな斬撃で切り飛ばす。その光景を見た他のデザートウルフが飛びかかるが、彼はその動きを見切って、返す剣でその胴を薙ぎ払った。


 辺りに漂う血の臭いに興奮した狼たちの前に立ちはだかり、クルリと素早く向きを変えて、シャカールの蹴りが炸裂する。顔のど真ん中を蹴り上げられた1匹は、ギャインと鳴いて吹っ飛ばされ、炎の中に背中から落ちた。さらに連続して繰り出された蹴りで、もう1匹がプリンスボンドの前に転がってくる。地獄の使者のような黒馬は、前脚を振り下ろしてその背骨を叩き折った。

 フィザルは軽快なフットワークで、跳躍しながら攻撃を繰りかえす。自分の身体の2倍はある相手にひるむことなく、デザートウルフの後ろ脚を狙って噛みついては跳び離れた。

 その間も、ブライアンは着実にウルフを倒してゆき、10頭の獣たちは全て息の根を止められる。


 闘技場で繰り広げられる、凄まじい剣技と馬や犬の働きに、観客たちは息を飲んでいた。

 けれど闘技場内にいた兵士たちは、のんびり見物している場合ではない。儀式が滅茶苦茶にされたわけだし、生贄を捧げなければならないのだ。

 最後のデザートウルフが倒れた時、闘技場のもう1つの扉が、兵士たちの手で開けられた。


 取り囲む炎の上に板が渡され、扉から出てきた2頭の獣が剣と盾で追い込まれながら、ブライアンたちの前に現れる。

 それは見事な鬣を持つ、オスの獅子だった。



 炎が燃え移る前に、渡された板は外され、ブライアンは大きいほうの獅子と対峙する。

 もう1頭のやや小さめな獅子は、プリンスボンドとシャカール、そしてフィザルが取り囲んでいた。

 獅子と戦うのは初めてだが、1対1なら十分すぎる勝算がある。ブライアンは剣を構え、集中を高めた。血の臭いと炎で目を血走らせた獅子は、怒りの唸りを上げながら四肢に力を籠め、彼に向かって飛びかかる。その動きをしっかりと捉え、素早く身体を横に流しながら、ブライアンは獅子の右前脚を薙ぎ払った。

 爪と牙、先に到達するはずの前脚を切り裂かれ、獅子はバランスを崩す。けれど直ぐに頭を彼の方に向け、グァッと口を開けた。鋭い牙が彼の身体に埋め込まれる寸前、電光石火の速さで剣を戻したブライアンは、剣の柄で獅子の鼻先を殴りつけた。

 その力は、獅子を怯ませるに十分で、その僅かな時間で彼は一歩下がる。そして剣を逆手に握り直すと、獅子が態勢を整える前に、その頭に渾身の力で切っ先を埋め込んだ。


 断末魔の声を上げた獅子に、もう一頭の方は怖気を振るったようだ。

 そちらは既に、2頭の馬と1匹の犬の攻撃で、炎の際まで追い詰められている。シャカールの蹴りとプリンスボンドの踏みつけ、フィザルの噛みつきによって、満身創痍の姿になっていた。


 そこに血塗られた剣を持つブライアンが走り寄ると、獅子は意を決したように身を翻して、死に物狂いで炎の壁を突き破って跳んだ。

 慌てたのはそこにいた兵たちだ。彼らは自分の身を守るため、やむなく獅子を殺す羽目になった。


 観客は、目の前で繰り広げられた戦いに魅了され、歓声を上げる。生贄の儀式より、この方がずっと素晴らしい見せ物だと感じているようだ。

 そんなどよめきにも耳を貸さず、ブライアンはオロールが中にいる檻に駆け寄った。


 ブン、と剣が唸ると、小枝の檻はあっさりと砕け散った。



 ブライアンたちが闘技場に飛び込んできた時、オロールはその光景が現実の物だとは思えずにいた。檻の中に座ったまま、彼らの戦いを見る彼女の顔は無表情のままで、極限まで張り詰めた意識は既に限界だった。

「オロール!」

 ブライアンが駆け寄って屈みかけたその時、彼女の右手が伸びる。

「・・・ブライアン」

 呟くような声と共に、血と脂で汚れた指が彼の頬に触れた。


 オロールが腕を伸ばしたことで、纏っていた生皮がその肩からずり落ちる。

 彼女は一糸纏わぬ姿でいることに気付いたブライアンは、着ていたシャツのボタンを引きちぎる勢いで脱ぐと、オロールに着せ掛けた。


 そのまま彼女を抱き上げ、ブライアンは闘技場の真ん中で仁王立ちになり、観客の歓声さえも胸糞悪いと思いながら辺りを睨みつける。


 朝日が昇り、闘技場の舞台に陽光が差し込んでくる。

 汗で光る彼の身体は、陽の光と炎の赤に照らされていた。


「・・・炎陽の勇者・・・」

 観客の誰かが、ボソッと呟く。

 ウオォォォーーーっ!と観客席が湧いたが、それにさえ反吐が出そうなブライアンは、オロールを抱いたままプリンスボンドに跳び乗った。


 主の意思を察した黒馬は、数歩の助走で炎の壁を飛び越える。

 シャカールとフィザルも後に続き、そのまま観客席に飛び上がった。

 階段を駆け上がるブライアンたちを、へっぴり腰になっている兵士たちが追いかけて行った。



 闘技場を飛び出して疾走するプリンスボンドの前に、フィザルが全力疾走で回り込んだ。そしてそのまま、吠えながら駆ける。外でたむろしていた人々は、犬の声に驚いて道を開けた。


「都の外へ出るぞ!」

 ブライアンはフィザルに怒鳴った。

 追われることは間違いないだろう。このまま外交官の官邸に向かうのは、色々と拙いことになりそうだ。ここからなら都の門から外に出る方が、ずっと近い。

 そう判断したブライアンは、オロールを抱いたままプリンスボンドを走らせた。

 シャカールは殿を務め、後ろを警戒しながらついてゆく。


 オロールは彼の身体に指が食い込むほどしっかりとしがみ付いて、固く目を閉じている。

 その指先がもたらす微かな痛みを感じながら、ブライアンは真っ直ぐ前を見つめていた。


 涙が流れるのは、防塵ゴーグルが無いせいだ。

 砂が目に入ってくるせいだ。

 胸の中に渦巻く、激しい怒りのせいだ。


 昇る朝日の陽光を浴びて、彼らは都の門を飛び出し荒野を駆け続けた。


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