2-4 北へ向かう旅 雪中行軍
準備を整えた一行は、途中休憩した集落を出発して峠を上った。プリンスボンドとシャカールも連れて来ていたが、2頭は荷物を背にして荷役馬のようになっている。王子の愛馬に誰かが乗る訳にもいかないし、シャカールに至ってはオロール以外の乗り手を頑として拒む。そこでプリンスボンドには、ブライアンの武具を、シャカールにはオロールの防寒衣類などを乗せることにしたのだ。
とりあえず2頭の馬は、大人しく馬車の後ろに付いていた。
しかし峠を上り切ったあたりから、雪が降り始めた。西から強い風が吹き、山脈の西側に雪を降らせた部厚い雪雲が移動してきたようだ。
「この時期に、こんな事は初めてでございます」
峠まで迎えに出ていたギムレット王国の士官も、驚いて告げる。
「酷くなる前に、山を下りてしまいましょう」
一行は速度を上げた。
ひと眠りしてすっかり回復したオロールは、馬車の窓から高速で流れてゆく景色を眺めている。ぴったり窓ガラスに寄り添って、顔を付けんばかりに雪景色を見る彼女に、ブライアンは声を掛けた。
「そんなに窓に寄って、寒いだろう?」
馬車の中でも、かなり寒い。オロールは毛織物のドレスの上から革製の上着、更にコートまで着せられているが、ブライアンとしてはもっと自分に寄って欲しいと思うのだ。
なんなら肩を抱いてやりたい、とまでこっそりと思っている。
「大丈夫です。こんなに間近で雪を見るのは初めてなので、珍しくて楽しいです」
「初めて?」
ブライアンは不思議に思った。デュランダルの王都では、確かに降雪や積雪はあまりない。けれど数年に一度くらいは、雪景色が出来るほどの雪は降るのだ。
「はい・・・子供の頃、どうしても雪に触ってみたくなって、こっそり部屋を抜け出したことがありまして」
まだ5歳くらいの頃だった。夜半に目が覚め、窓から雪が降るのを見た幼いオロールは、こっそりと部屋を出た。
「薄い夜着のまま裸足で廊下に出て、見つからないように外へ出る場所を探してウロウロして。結局出られないまま見つかってしまいましたが、風邪をひいて熱を出してしまい、凄く叱られてしまいました。それ以来、雪の日は分厚いカーテンを引かれ、窓辺に寄ることも禁止されてしまったんです。でも今回あちらに行けば、雪や氷に触ることも出来そうなので楽しみです」
淡々と穏やかに、子供の頃の事や雪や氷に触りたいと話すオロールは、ごく普通の深窓の御令嬢のように見える。
参謀という肩書ではなく、スキルヴィング公爵令嬢として随行するので、慣れておこうとしているのかもしれないが、ブライアンはそんな彼女がただ愛しくなった。
(雪や氷に触りたい、か・・・)
そんな事を思いながら、ふとオロールの手を眺める。彼女は再び窓近くに顔を寄せ外を眺めているが、ガラスにピッタリと当てられた手の先が、冷たさで赤くなっているのが解った。馬車内の暖かさに曇るガラスを、何度も手で拭いながら見ていたのだろう。
「オロール、手が・・・」
ブライアンは、腕を伸ばして彼女の手を掴んで引き寄せた。
「こんなに冷たくなっているではないか」
指先や掌が赤くなり、氷のように冷えて濡れた手に、彼は眉を顰める。
「え?・・・」
驚いて身体を固くするオロールに構わず、その手を自分の両手で包み込んだ。
「暖めるぞ。・・・どうだ?」
じんわりと伝わる熱に、彼女の身体から少しずつ力が抜けてきた。
「・・・殿下の御手は、暖かいのですね」
こんな風に、男性に手を握られたことさえないオロールは、戸惑いながら俯く。
これはなかなか良いシチュエーションだ。幼い恋人たちのように可愛らしい光景かもしれない。
(最初から、と言うのはこういう事なのかもしれないな・・・)
寄り添って歩いたり、手を繋いだり、肩を抱いたり、手を包むように握ったり。
言葉と行動で、少しずつ距離が縮まってゆく。
けれど、彼の口から出たのは甘い雰囲気とは少々違っていた。
「ああ、筋肉は発熱機関だとグラシュー女医も言っていたからな。鍛錬を欠かさないせいか、平熱も高いほうだ」
成程、とオロールは顔を上げて頷いた。
「以前読んだ医学書にも、そう書いてありました。私の平熱が低いのは、やはり筋肉量が少ないからなのですね」
恋の甘酸っぱい空気は、スポーツ医学のような話に綺麗さっぱり吹き飛ばされた。
(・・・ん?)
失敗したかな、と思わないでも無いが、彼にはもう軌道修正が出来なかった。
「手先が冷えているなら、同じ末端部分の足先も冷えているはずだ。見せてみろ」
ブライアンはオロールの足元に手を伸ばし、いきなり足首を掴んだ。
「えっ!・・・えぇっ!ちょっ・・・」
驚いて腰をずらし離れようとするが、あっと言う間に片足は彼の膝に乗せられてしまう。勢いで上体は後ろに倒れた。靴を脱がされるのは、ちょっと、いやかなり恥ずかしい。
その時、突然馬車が停まった。
「失礼いたします!緊急・・・わっ!なにやってンですか!」
バタンと馬車の扉が開けられ、オロールは仰向けになって頭だけが外に出る。逆さまの世界に、オーギュストの情けなさそうに呆然とした顔があった。
あられもない姿勢になったオロールも恥ずかしいが、そうさせた原因のブライアンも流石にバツが悪い。決して邪な考えがあったわけではないが。
それでも何とか居住まいを正し、2人はオーギュストの報告を受けた。
馬車はとっくに峠を下り、平地に入っていた。最初の予測では、山を下りれば雪は降っていない筈だったのだが、強い西風で吹雪になっていたのだ。
「かなり急激な積雪だったようで、街道が埋もれてしまっています。馬車は進めそうにありません」
ブライアンは急いでマントを羽織ると、馬車の外に出た。
強風にあおられた粉雪が、激しく頬を叩く。
先頭の騎馬士官も、馬を降りて呆然としていた。出迎えに来ていたギムレット王国の士官も、こういった事態には慣れていないようで当てにはならなそうだ。
「全ての士官を集めろ!」
ブライアンは雪風に負けない大声で、指示を出した。
「ここからは、全員馬で進む。馬車はここに置いてゆく」
ここで立ち往生していてもどうにもならない。引き返すよりも先に進んだ方が距離的に近いし、出来る限り急いだほうが良い。
馬車本体は後に取りにくれば問題ないだろう。今は、一番大切であるそれぞれの命を優先すべきだ。
ブライアンは力強い声で、士官たちに告げた。
「馬は外して、防寒用品など最低限の荷だけ乗せろ。後ろの馬車の女性たちは、体力がある馬を持つ士官が2人乗りで連れてゆけ。先頭は俺が行く」
堂々として落ち着いた陸軍大将の言葉は、全ての士官たちに勇気を与えた。
「オロール、聞こえたか?馬車を降りてくれ」
士官たちが慌ただしく準備をする中、ブライアンは馬車に戻って声を掛けた。オロールはコートの上からフード付きのマントを羽織り、手袋も着けて準備を整えていた。
「俺と一緒に、プボに乗れ」
その方が、この酷い寒さや雪から彼女を守れるだろう。
けれどオロールは、きっぱりとそれを断った。
「それはダメです、殿下。プボは先頭で、雪をラッセルして進まなければなりません。少しでも負担を軽減させてやるべきです。私たちが無事に到着できるかどうかは、プボと殿下に掛かっているのですから」
そう言うとオロールは、サッサとシャカールに跨ってしまった。
こうなると、彼女は絶対にシャルから降りないだろう。これが最善と判断すれば、頑固とも言えるほど考えを翻さないことは、良く知っているブライアンだ。
しかも、彼女の言う事は確かに尤もなのだ。
(自分だけだったら、代理で来て良かったと思うところだが・・・)
しかし今は、最善の策を実行しなければならない。
ブライアンは自分の装備を入れた荷から、行軍用のマントを2枚取り出す。そしてオロールの元へ戻ると、自分が来ていたマント脱ぎ、行軍用のそれと2枚重ねにして彼女に着せ掛けた。
「殿下、それではご自身が凍えてしまいます!」
有無を言わさず着せられた衣類で、オロールは馬上の小山のようになってしまった。
「行軍用マントは予備のものがもう1枚ある。防寒防水機能は折り紙付きなので、俺はそれで充分だ」
発熱体質だからな、とブライアンは不敵に笑った。
そして彼はシャカールの轡を取り、プリンスボンドのすぐ後ろに引いてゆくと、愛馬を軽く叩いた。
「プボ、不快かもしれんが我慢してくれ」
漆黒の長い尾の毛を一束掴み、ブライアンはそれを少し縒ってから、シャカールの轡に結び付けた。
「ブヒン・・・」
不満そうな声を上げたプボだったが、紐が無いと謝る主人の意図を直ぐに察したようだ。じっとするプボの尻に近い場所でシャカールも大人しくし、轡に黒い尻尾が結び付けられると、自分からもパクリとそれを咥えた。
猛吹雪に近い中、こうしておけば何かあった時は直ぐにプリンスボンドは気づくだろう。
準備が整うと、ブライアンは声を張り上げた。
「出発!」
白い恐怖に包まれていた一行だが、先導する大将への信頼に鼓舞され、再び先へと進んだ。
雪は粉雪になり、これ以上積雪が増すことは無さそうだが、既に馬の膝頭より高く積もっている。西の風が強く、地吹雪のように積もった雪をも巻き上げていた。
視界が悪く、進む方角さえ危うい道を、けれど漆黒の馬は雪を蹴立てて進んだ。
ブライアンは、以前この街道を走った記憶がある。その時も、この愛馬は一緒だった。この雪中行軍で、頼りになるのは自分とプボの記憶とカンだ。
体力お化けと言われるほどのプリンスボンドは、逞しい筋力に物を言わせて、倦まず弛まず雪をラッセルしてゆく。馬と騎手の吐く息が、横殴りの風に千切れて飛んで行った。
シャカールに乗っているオロールも、しっかりと手綱を握り締めて身体を小さくしていた。
前を見る必要はない。それよりも、少しでも風の影響を受けないようにするべきだ。自分が今ここで出来ることは、前を行くブライアンの負担にならないようにすることだけだ。
何重にも包みこまれている身体だが、それでも寒い。だが、それに耐えて意識を保つことが最優先だと考えた。
オロールはしっかりと唇を噛み締めて、ブライアンとプボ、そしてシャカールに全てを委ねた。
どのくらい時間が経ったのだろう。オロールには全く分からなかった。
寒さで体が強張り、意識が朦朧としてくる。けれど眠ってしまえば命が無いということは良く知っていた。必死に眠るまいとするが、何時まで耐えれば良いのか解らないだけに、不安と恐怖が混ざって侵食してくる。それに対抗できるのは、ブライアンに対する信頼だけだ。
(大丈夫・・・きっと、殿下は私たちを連れて行ってくれる)
ブライアンの方は、自分の鼓動と愛馬の一歩から計算し、おおよその位置が解っていた。
(目的地まで、あと2㎞くらいのはずだが・・・)
気づけばプリンスボンドも、流石に疲れが出ているようで、僅かに速度が鈍っている。
あと少しだからと無理させる方が危険だ、と彼は判断した。目的地を目と鼻の先にして動けなくなれば、メリットは凍死体の発見が早くなることくらいだ。
(確か、この辺りには・・・)
ブライアンは記憶を探り、周囲を探った。地吹雪が吹き乱れる合間に、見覚えがある大木が見えた。
(あの妙に捻じ曲がった木・・・右手には数軒の家屋があったはずだ)
後方を見透かせば、少し遅れてはいるが、後続の騎馬たちの気配がある。
「ここで小休止する!分かれて家の中に入れ!」
数軒の家屋に人の気配はないが、風雪をしのぐ役には立つだろう。ブライアンは、後方に向かって大声を掛けると、自分たちは一番端の家に向かった。
扉に鍵は掛かっていなかったが、中は空っぽで何も無い。家具どころか暖炉さえないそこは、倉庫として使われていたものだろう。けれど造りは頑丈で、雪は風で吹き飛ばされているから、屋根が落ちる心配は無さそうだ。
他の家屋の様子を窺えば、何とか到着できた後続の部下たちが、次々と馬を降りている。あちらの方は、これで大丈夫だろうと思い、ブライアンはまだ馬上にいるオロールに近寄った。
「オロール、大丈夫か?ここで少し休むぞ」
声を掛けると、ギギギッと音がしそうなぎこちなさで体が動いた。
けれど、返事が出来そうな気配はない。
ブライアンは有無を言わさずオロールを抱え下ろし、そのまま抱いて小屋に入った。
床に下ろされたオロールだが、布の塊のような姿は固まったように動かない。
「少し待て」
そう声を掛け、ブライアンは急いで外に出ると、2頭の馬を中に入れた。
普通馬は、狭い場所に入ることを嫌がる。けれどプリンスボンドはしっかり訓練を受けているし、シャカールは中にオロールがいることを確認すると、寧ろ嬉々として中に入ってきた。
2頭の馬をそれぞれ壁際に寄せ、ブライアンは自分の行軍用マントを脱ぎ、小屋の床に敷いた。そしてその上にオロールを乗せる。これで少しは、下からの冷気も防げるはずだ。
プボもシャルも、自分たちの役割を理解したように大人しくしている。両方の馬の身体からは湯気が立ち、たてがみからは溶けつつある雪がポタポタと落ちていた。
激しい運動を余儀なくされて馬たちは、熱源となるほど小屋の中を暖める。
ブライアンは続けて彼女のマントを脱がせて傍らに置くと、もう一度抱き上げて腰を下ろす。胡坐をかいた膝の上に、オロールの身体はすっぽりとはまり込んだ。
(・・・え?)
何とか思考が再開したオロールだが、ブライアンは気にも留めずに傍らのマント3枚分を羽織った。彼に抱かれたまま、分厚いマントに包み込まれた形になり、おまけに彼の身体が密着している。
「・・・あ・・・(ガチガチ)・・・あっ・・あ、あ、あ(ガチガチ)・・・・あのっ(ガチガチガチ)」
何とか声を出そうとするが、今度は歯がガチガチと鳴って言葉にならない。
少し暖まってきたせいなのか、身体が震えて止まらなくなってきていた。
「舌、噛むぞ。少し黙ってろ」
ぶっきらぼうな物言いの中に優しさも含ませて、ブライアンはギュッと彼女を抱きしめた。
(うぅぅぅ・・・・な・・・も・・・)
凍え切った身体が寒さを感じることが出来るようになったオロールは、何やらもう、情けなさでいっぱいだった。
先日人工雪崩のことで役に立てたらと思ったら、峠を登る時は酔って嘔吐するし、今度は凍えて動けなくなった。迷惑を掛ける方が断然多いこの状況を考えると、『役立たず』が『頼りになる』に昇格するのはいつの日か。せめて多少は『有益』になりたいのだけれど。
落ち込むオロールは、震えながら身体を固くしている。
「まだかなり寒そうだな・・・」
ブライアンは、彼女の顔色を見ようとその顎に手を掛けた。
薄っすらと青褪めた頬と、紫色の唇。少し腫れているのは、噛み締めていたせいだろう。
軍隊の雪中行軍ならば、強い酒を携帯するのが普通だが、今回はまさかこういうことになるとは思っていなかったので持っていない。
そうすると、他に何か方法を考えるしかない。
「・・・オロール、熱を分けてやる」
ブライアンは、いきなり唇を押し付けてきた。彼女の、紫色に冷え切った唇に。
(・・・!・・・えぇぇ!)
驚いて目を見開くオロールだが、次の瞬間更に驚愕する。
口内の温度を確かめる意図だったが、彼の舌が中に入ってきたのだ。
けれど次の瞬間、慌てたようにブライアンは唇を離した。
(・・・あっ!噛みつかれる可能性が・・・)
そう、以前オロールは、小姓と間違われていきなりキスを仕掛けた相手の舌を噛んだ、という前科があったのだ。
「あ、その・・・決して変な意味じゃなく・・・本当にただ・・・暖めてやろうと・・・」
どぎまぎと言い訳するブライアンに、オロールの方も少し驚いていた。
(・・・あの時のように、背筋を駆け上がるような気持ち悪さは無かったです)
薄く口を開いたまま、ポカンとしたような彼女の顔に、怒ってはいないようだと安堵するブライアンだが、次はちゃんと確認と許可を取りつけてから実行しようと決意した。
いつの間にか、オロールの身体の震えは止まっていた。
けれど、暖かな彼の体温と、力強く規則的な鼓動が、眠気を誘ってくる。このまま眠ってしまうのは失礼だし迷惑も掛かるだろうと必死にこらえるが、身動きできないくらいに抱きこまれているので、睡魔に抗うのはかなり難しかった。
そんなオロールが、ついウトウトとしてしまった時、ふいにブライアンが顔を上げて外の様子を窺った。
「・・・犬の声だ」
遠くに聞こえた犬の声は、次第に近づいてくる。ブライアンはオロールを膝から降ろすと、剣の柄に手を掛けてそのまま外に出た。
一匹の足の長い大きな犬が、雪の中を跳ねるように走ってくる。そしてその後ろから、何頭もの大型犬が引くソリがやって来た。
「見つかった!よくやったぞ、ベガ!」
犬ぞりから飛び降りて駆け寄って来た若者は、犬に声を掛けてからブライアンの前に立った。
「ラキシス・リンデン兵長。ギムレット王国への留学生として駐在しています」
ラキシスと名乗った若者は、まだ吹き付ける吹雪の中、キリッと姿勢を正して敬礼した。
デュランダル王国陸軍は、留学生として有能な若者を選抜して様々な場所に彼らを派遣している。国外の場合は、外交官の警護の目的にもなるので、ギムレット王国には数名の留学生がいた。留学生となるには参謀局の推薦が必要で、その対象は主に士官だが、兵長とは言え兵に過ぎない彼が留学しているのは、その能力が群を抜いていたからに違いない。
「ミツキからの連絡で御一行が出発したと聞き、この先の町に来ていましたが、急激な天候変化を鑑みて、街道周辺を見回っておりました」
ただ吹雪が酷かったので、発見できたのは犬のお陰だ、とラキシスは笑う。
「コイツはベガと言いまして、自分の相棒です。自分はゆっくりと街道を南下していて、見つけることが出来たのは周囲を探ってくれたベガのお陰です」
ギムレット王国では、冬の間、移動には犬ゾリや馬ソリを使うのが一般的だ。馬車だと車輪を外して大きなスキー板のようなものを付ける。雪や氷だと、滑らせたほうが楽に移動できるのだろう。犬も大変身近な動物で、一般家庭でも大型犬が飼われている。
ベガという名の犬は、どうやらボルゾイのようだ。狼猟にも使われる猟犬で、身体が大きく脚が細くて長い。顔やウエストも細いが体力があり、雪の中を長時間走れる。けれど見た目は優雅で、長い被毛も美しく、高貴な騎士の印象があった。
小屋の中に入って説明をしたラキシスは、鼻の頭を真っ赤にしている。雪焼けで染みが浮いている彼の顔は、ブライアンの命令を待っていた。
「助かった、ありがとう。他のメンバーは、別の家の中にいる」
「それは良かったです。ここから町までは数キロの距離で、犬ゾリなら30分もかかりません。ですが、吹雪はまだ半日くらいは続くと思われます」
「そうか・・・とりあえず、他の家に入っている者たちに伝えて来てくれ」
「はい!それでは、多少の物資を持ってきておりますので、そちらへも届けましょう」
ラキシスは犬ぞりに戻り、積んできていた荷物を下ろして酒瓶を数本ブライアンに渡すと、残りを抱えて吹雪の中へ消えていった。
小屋の中に戻ったブライアンは、床に座り込んだまま再び震えだしたオロールを見て眉を顰めた。
痩せているオロールは、自分で体温を作り出す力が弱いのだろう。しかも、来る途中で嘔吐して、胃の中は空になっている。
(出来るだけ早く、もっと暖かい場所に連れていかなければならんな)
ラキシスが犬ゾリで戻り、馬に引かせた馬ソリを用意して再びここに来るには、1時間以上は掛かるだろう。それを待って小屋に留まるよりも・・・
ブライアンはラキシスに相談し、荷物を下ろして空いた犬ゾリの荷台に、オロールを抱いて乗った。他のメンバーは、向こうに着いたら迎えを寄越せば良い。その辺りは、ラキシスが手配をすると言ってくれた。先ほど貰った酒で、自分もオロールも大分暖まっている。これなら犬ゾリに乗っても大丈夫だろう。
「・・・何だか、不思議な乗り心地です」
風を切って進む犬ゾリは、吹雪の中を風を切って進む。ブライアンに抱きこまれて、2人一緒に布の小山になったようなオロールが呟いた。
ソリを引く犬の様子が見たいと、彼女は何とか腕を動かして布の隙間から目元を出す。けれど犬の姿は、ラキシスの背中の向こうになっていて見えない。ただ冷たい風が、目に染みるだけだ。
「顔を出すな。それだけでも体温を奪われる」
ブライアンはそう言って、再び彼女の彼女の頭を包みこんだ。
(・・・眠ってしまいそうになるのですが)
そうは思ったが口にせず、オロールは大人しく彼の言葉に従った。
結局彼女は、睡魔に屈して5分と経たないうちに眠り込んでしまった。幾ら抱かれて包み込まれているとはいえ、こうなると少しでも早く暖めないと拙いだろう。
「リンデン兵長!一番近い、暖かい場所に向かってくれ!」
ブライアンは、マッシャーとなっているラキシスに怒鳴った。
犬ゾリが向かっているバローズの町は、ギムレット王国の王都からは左程遠くない。そこそこ大きな町ではあったが、迎賓館がある訳でもなく、貴族や王族が宿泊できるような高級な宿屋が1軒あるだけだ。一行は、一応その宿に泊まる予定だったが、場所的には町を突っ切った向こう側になる。
「了解しました!」
ラキシスは犬たちに声を掛けながら、少し考える。
「ここからだと、入湯所が一番近いので、そこに向かいます!」
振り返って答えると、ラキシスは犬たちに合図を送った。
入湯所とは、いわゆる浴場である。ギムレット王国では、風呂に入ることを湯浴みとは言わず、入湯と言っている。大きな湯船に大量の湯を満たし、中に入って身体を暖めることが最高の冬の贅沢になっているのだ。冬に来客があれば、先ず風呂を勧める。それが、ここギムレットでは最大のもてなしになっている。
温泉が湧くところではそれを利用するが、そうでないところでも湯を沸かして風呂に入る。裕福な者は自宅に浴室を持つが、そうでない者たちは公衆入湯所を利用している。どんな町でも入湯所は数軒あり、これから向かうバローズも同じだ。
ラキシスが向かう入湯所は、町外れにある高級入湯所で、ごくたまに訪れる王都の貴族たちが利用する施設だった。彼が知る限り、客がいた試しはないが、今はそれがありがたいと思える。何しろ、客が誰もいない時でも、施設は準備万端整えてあるのだ。利用料金がバカ高いのも,肯ける。
いきなり隣国の王子様を連れて行っても、きちんと対応してくれるだろう。
ラキシスは、自国の外交官の名も使って交渉するつもりだった。
そして雪まみれの犬ゾリが到着したのは、見事な黒曜石の玄関前だった。
中に飛び込んだブライアンは、館内の暖かさに驚愕する。暇そうだった受付スタッフが慌てて駆け寄ると、ラキシスが前に出た。
「デュランダル王国、第6王子ブライアン・オルフェ殿下だ。王都へ向かう途中、この吹雪で遭難された。施設の利用を求める!」
ギョッとしたスタッフだったが、今のブライアンは雪まみれのマントを羽織り、女性を抱いている。緊急事態だという事は解ったが、信用してよいか迷っているように見えた。
ラキシスは上着の内側に隠し持っていた小袋から、金貨を数枚と身分証を差し出した。
「自分はギムレット王国に駐在する外交官の配下だ。後程、正式な手続きを行う」
とりあえず納得したスタッフは、彼らを部屋に案内するために従業員を呼ぶ。その間にラキシスは、ブライアンに上申した。
「自分はこれから、馬ソリの手配をして御一行を迎えに行きたいと思います」
「ああ、頼む。ここに案内してくれ」
そう答えると、ブライアンは小走りに奥へと入って行った。
施設側は、一応王族であるという事なので、最上級の部屋に通してくれたようだ。
部屋の中は充分暖められており、別室ではないが上等のベッドが設えてある。家具調度も上質のものが揃えられ、床に敷き詰められた毛皮が分厚い。
けれどブライアンは、それだけでは足りないと思った。このままオロールをベッドに寝かせても、直ぐには身体は暖まらないだろう。
「失礼いたします。入湯の準備も整っておりますので、暖まれてはいかがでしょうか?」
彼の後ろから、スタッフが声を掛けた。
(そうだ!風呂だ!)
パッと振り返ったブライアンに、スタッフは言葉を続けた。
「入湯補助のスタッフがおりますので、5名ほど呼ばせていただきます」
「いや・・・ちょっと、待て」
ここはデュランダル王国ではない。
政情不安で治安も良くないと聞く、ギムレット王国なのだ。更にここは、公的な施設ではなく、今は部下も近くにいない。
敵国ではないが、不安要素がある他国なのだから、出来る限りの用心をしなければならない。
「必要ない。それよりも、後からくる者たちが到着したら、ここに寄越してくれ。浴室に、鍵は掛かるな?」
何かあっても、浴室に閉じこもれば時間は稼げる。そう考えたブライアンは、スタッフを下がらせると、オロールを抱いたまま浴室に入って鍵を閉めた。




