2-3 北へ向かう旅の始まり 途中の町で初デートのはずが
砦を出た一行は、先ず東へと進んだ。
ミツキという大きな町が、北へ向かう街道の傍にある。王都から隔たってはいるが、交易商人などが数多く利用するため、設備も整っていた。
街道はそこから北に向かって峠を昇り、ギムレット王国領に入る。例のテソーロ候の領地を掠めるようにして進むと、やがて北の王都に辿り着く道だ。
山脈の麓にあるミツキは、山から吹き下ろす風の影響もあって、既に初冬のような寒さだった。一行はこの町で、山越えと冬支度を整えつつ、同時に情報収集も行った。
それによると、今年は例年になく冬の訪れが早く、山脈の西の方では半月も前に積雪があったと言う。この辺りではまだ降雪は無いが、それも近いのではないかと言われていた。
ブライアンとオロールは、ミツキの情報局支所である伝書鳩の係官から、それらの情報を入手したが、驚いたのは気象以外の事だった。
以前、テソーロ候領からちょっかいを出されそうだと連絡があったが、ここ半月前辺りからパッタリと気配が無くなったのだと言う。
「何やら、不気味でさえあるな」
立太子式の関係で忙しくなったのかもしれないが、まさか国王代理の自分たち一行を、襲う準備でもしているのかと勘ぐってしまう。そこまでバカでは無いと思うが。
オロールは少し考えていたが、ブライアンに向かって答えた。
「半月前あたりからなら、効果があったのかもしれません」
「効果?」
怪訝な顔の彼に、彼女は参謀の顔になって説明を始めた。
半月前に降った雪は、融雪と凍結、そこに新たな降雪と続いた。
「以前、ソリとスキーの試作品をお見せしたことがありましたが、あれを使って少々実験的にやってみたのです。人工的に、雪崩を起こすという事を」
オロールの言葉に、ブライアンはポカンと口を開けた。
「雪崩?あれを、人工的に起こしたのか?」
「はい、雪崩は気象条件によって起こりやすいと、村の古老に聞きました。普段から冬の山に入る猟師などからも、色々な話を聞いたんです」
よく『雪崩は大きな音によって起きる』と言われているが、猟師たちは違うと言った。猟犬たちの吠え声や自分たちが出す大声で起きたことは無いのだ、と。古老も言っていた、雪の日は音が無く静かだが、それは雪が音を消しているのだ、と。
そして彼らは、雪崩が起きるのは音ではなく振動だろう、と口を揃えて言った。
「それを確かめる意味もあって、半月前あたりから準備をして砦から兵を出しました。ソリとスキーと、それに乗せる木箱を持たせて」
場所は精密な地図と測量で、雪崩が起きそうな斜面を探しておいた。砦から派遣された兵たちは、その場所で木箱に大量の石を乗せる。そして急斜面の頂上から、事前に双眼鏡で探しておいた大岩に向けてそれを滑らせた。
全てが成功したわけでは無いが、幾つかは見事に大岩に当たり砕け散った。その振動は、思惑通り雪崩を起こしたのだと言う。
「テソーロ候の西側で起こした雪崩は、山麓にある幾つかの軍事施設を飲み込んだようです」
詳しい戦果は解らないが、砦や軍馬の牧場などが使用できない程度には被害を受けたのだと思われる。実験結果については、報告書をまとめて王都の兵営に送ったが、ブライアンとは行き違いになったのだろう。
「今回は、運も良かったと思います。気象条件次第なので、何時でも出来るわけではありません」
つまりこれで、テソーロ候は領地の災害の対応で、ちょっかいを掛けるどころの話では無くなったのだろう。訓練した農民や猟師たちも、自宅や家族が心配で、帰りたがったに違いない。
「・・・凄い・・・な」
ブライアンは、この片思い相手の参謀の能力に、改めて感心した。運良く、と彼女は言ったが、周到な準備があってこそなのだ。先を見通す眼、とでも言えばいいだろうか。
「良くやった、スキルヴィング参謀」
彼女の魅力がさらに増したと思いながらも、ブライアンは陸軍大将として賞賛の言葉を贈った。
情報局支所から帰ると、山越えの準備に忙しいはずのオーギュストが、こっそりとブライアンのところへやって来て耳打ちした。
「殿下、チャンスですよ」
殿下と呼びかけられたという事は、プライベートな件に関するチャンスなのだという事は解るが、何のチャンスかは解らない。怪訝な顔になったブライアンに、オーギュストはニヤリと笑って言葉を続けた。
「オロール様を誘って、町に出てはいかがでしょう。治安は悪くないようですし、ミツキなら殿下の御顔を知っている者はあまりいません。まぁ、要するにデートに誘ってみれば?という事です」
なかなか魅力的な提案だが、彼女は誘いに乗ってくれるだろうか?
いや、元々外に出る機会が少なかっただけで、室内に籠っているのが好きというわけでは無いだろう。様々なことを自分の目で確かめられる機会なら、寧ろ喜んでくれるかもしれない。
ブライアンは少し考えた後で、ありがたく彼の提案を受け入れて実行することにした。
(・・・ああ、何だかもう、これは・・・)
ミツキの町の通りで、ブライアンは額に手を当てて溜息をついた。
最初はまだ良かったのだ。
思った通り喜んで誘いに乗ってくれたオロールだったが、並んで歩き始めても、あちこちに視線を投げては落ち着かないことしきりだった。そして我慢できなくなると『すみません、ちょっと失礼します』と言っては離れてゆく。
見に行った先は、知らない家の郵便受けだったり道端の樽だったり、荷車の車輪を直すオヤジの手元だったりと、何故それ?と思うような物ばかりだ。
無表情だが目はキラキラさせて、いつも通りの静かな雰囲気を纏いながらも、気持ち小走りで。
妙にアンバランスな様子に戸惑うブライアンだが、どうしようもない。
離れていっても、彼女は出来るだけ早く戻って来ては、きちんと頭を下げて礼を言う。
「すみません、失礼いたしました」
けれど息が切れているその様子に、とうとう彼は言ってしまった。
「ああ、もういちいち戻ってこないで良い。好きなように歩け。俺が後をついてゆくから」
王子殿下にそれは失礼かとは思ったが、オロールはこれ幸いとばかりに仰せに従った。
(後で、まとめてお詫びとお礼を言えば良いでしょうか)
そんな風に考えて、早速彼女は通りのあちこちで興味を魅かれたものに歩み寄っては観察するという事を繰り返した。
先に進まないこと、この上ない。
おまけに、出店の商人やら暇そうに腰かける老人にも声を掛けて質問するものだから、ブライアンとしては退屈さえ感じてしまう。
(そう言えば、出入りの商人や村人と話すことには慣れているのだな)
外に出られない時は厨房に出入りする商人などから話を聞き、出られる時は散歩の折になど村人などから情報を得ていた。
話を聞く能力に長けているのだろうが、おそらく話を聞くことが好きなのだろう。
とは言え、これではとてもじゃないがデートとは言えそうにない。
やがて通りは、町の中心にある広場へと出た。
「殿下、あれは?」
オロールはやっと彼の傍に来て、広場の人混みを見ながら尋ねた。
「ああ、マルクトだ。市が立っているんだ」
マルクトというのは、この地方の方言で、要はマーケットのことだ。市が立つ日、その場所はマルクト広場と呼ばれる。
「賑わっておりますね。見て来てもよろしいですか?」
微かに上気した頬が可愛くて、ブライアンはつい許可してしまった。
さあ、それからが大変だった。
オロールは屋台や地面に広げられた出店の品物などを、次々と見ては移動してゆく。何しろ広場一杯にあるそれらは数も相当なので、流石に長時間一か所にとどまることは無かったが、ブライアンにとってはその方が大変だったのだ。
うっかり目を離せば、見失ってしまう。一度見失うと、この人ごみの中ではまた見つけるのが大変だ。何度もそんな大変さを味わった後、ブライアンは真剣に思った。
(紐をつけておきたい)
そう言えば以前、子持ちの士官の話を聞いたことがあった。幼い子供の行動は予想が付きにくく、しかも以外にタフなのだ、と。目が離せないので、紐をつけて置きたいと思うくらいだ、と。
(子守というのは、つまりはこういう事なのか?)
自分より年少の相手は、子供時代からしたことがないブライアンは、初めての経験に困惑していた。
「そろそろ疲れたのではないか?どこか、店にでも入って休まないか?」
もういい加減、かなりの時間が経っている。マルクト広場の中もひと通りは見て回れただろうと思われる頃になって、ブライアンはオロールに声を掛けた。
「あ、はい・・・」
石畳に広げられた雑貨をしゃがんで見ていた彼女は、慌てて立ち上がろうとするが、アッと声を上げてよろけてしまった。
「おい・・・大丈夫か?」
サッと手を伸ばして彼女の腕を掴んだブライアンは、彼女をしっかりと支えた。
「す、すみません。ちょっと、足が・・・」
「疲れているんだ。掴まれ」
オロールがちゃんと立てたことを確認して、彼は軽く曲げた腕を差し出す。
「・・・ありがとうございます」
素直に彼の腕を掴んだ彼女に、ブライアンはこっそりと安堵の溜息を小さくついた。
これで何とか、彼女をエスコートする男性の格好にはなれた、と言えよう。
(・・・2度目だな)
最初にこうやってオロールをエスコートしたのは、初めて出会った舞踏会の晩だった。
何やら妙に懐かしく、くすぐったいような気になるブライアンだったが、オロールの方は・・・
(これで2回も、ご迷惑をお掛けしてしまいました)
と、後で深くお詫びとお礼を言わなければならないと考えていた。
2人は、マルクト広場に面したカフェの中に向かい合って腰を下ろしていた。
王都を意識したらしい店内は、重厚感もあるこじゃれた空間になっていて、客層も高い様子だ。漸く腰を下ろしてホッとしたらしいオロールは、自分では気づかなかったようだが、かなり疲れているのだろう。しかしブライアンは、やっとデートらしくなってきたと心が弾んでいる。
やがて2人の前に、お勧めだと言うケーキとお茶が運ばれてきた。
「これは、チョコレートケーキか?」
ツヤツヤ黒々としたそれに、そっとフォークで触れながらブライアンが呟く。甘いものが苦手なわけでは無いが、何となく嫌な予感がした。
「・・・はい、そうです」
促されて先にひと口食べたオロールが、軽く頷く。普通に食べている彼女に安心して、毒見させたわけじゃないぞと心中で言い訳しながら、彼もひと切れ口に入れた。
(・・・うわ・・・甘いっ!)
チョコレートのスポンジケーキに、更に分厚いチョコレートのコーティング。甘いだろうと予想していたが、これはそれを超えた甘さだった。
(う・・・歯が浮きそうだ・・・お茶!)
暴力的とも言えそうな甘さに、大急ぎで口の中にお茶を流し込む。
甘味は正義とばかりに、ふんだんに砂糖を加えているらしい。贅沢な王都風の店に相応しく、甘さを最大に前面に押し出して、高級なのだと誇示しているようなチョコレートケーキ。
甘ければ甘いほど良い、という価値観なのだろう。
(これは、ちょっと・・・)
完食するのは難しいかもしれない、と思いながらブライアンが向かいのオロールを見ると、彼女は表情も変えず淡々とケーキを食べきっていた。
「オロール・・・」
疲れていて甘味を欲していたのかもしれないが、普段彼女が物を食べるのは彼よりも遅い。
(よく食べられるな・・・)
感心したような彼の視線に気づいたオロールは、軽く首を傾げた。
「殿下?・・・お気に召さないのですか?」
「いや・・・甘すぎないか?これ。よく全部食べられたな」
「確かに相当甘いとは感じましたが、普通に食べられました」
甘いものが好きだと言うのは知っていたが、それでも途中でお茶を飲むこともせず、一気に完食したのが凄いとしか言いようがない。
「そうか、それならこれも食べてくれるか?」
ブライアンはつい、海軍時代の気安さで自分のケーキの皿を彼女の前に押し出した。
「・・・いえ、流石にこれは」
殆ど手つかずのケーキは、かなり荷が重い。
「では、これならどうだ?」
フォークでひと口大にしたそれを、刺したまま差し出す。このくらいなら食べられるかと思っただけの彼だが、いい大人の男女がそれをすれば、それはケーキよりも甘い恋人同士の光景だ。
思わず見とれてしまったウェイターの視線に気づいて、それと気づいたブライアンは、赤くなりながらも進展したと思われる関係に、こっそりとほくそ笑んだ。
カフェを出たブライアンは、カロリー補給と休憩で多少回復しエスコートの必要が無くなったオロールと再び歩き出す。
「何か、欲しいものはないか?気に入った物があれば、いい機会だから買って行こう」
オーギュストから、帰りがけに何かプレゼントすると良いですよ、と助言を貰っていた。
「・・・特にありません。必要なものは、揃えていただいておりますし」
一応普通に歩いてはいるが、実は足が棒になっているオロールは、懐かしい不愛想さで答えた。
「そうか?確か、ミツキの町にも、本屋があったはずだが」
続いた彼の言葉に、オロールの背筋がピンとなった。
疲れなど吹っ飛んで、別人のように元気が出たように見える。
(そうでした、本は買える物でした!)
図書室にある書物しか知らなかった彼女は、本屋という存在は知っていたが、町を歩いて買いに行くと言う発想が無かったらしい。
「お、お願いいたしますっ!」
とても珍しい早口で、連れて行って欲しいと頭を下げたオロールだった。
ミツキの町の本屋は、王都ほど大きくは無いが、それなりに品物は揃っていた。お屋敷の蔵書とは違い、新しい書物が多く雑誌の類が目を引く。
オロールとしては始めてみる様な珍しい本の並びに、目を輝かせて立ち尽くしてしまった。
「これが・・・買えるのですね」
呟いた彼女に、ブライアンは少し焦って声を掛けた。
「ああ、だが旅の途中だからな。持てる程度にしておけよ」
放っておいたら、どれだけ購入するか解らないようなオロールだ。出来ることなら全てを買い占めて、送って貰うくらいの勢いを見せている。
「あ・・・はい、そうですね。解りました」
確かにその通りだ、と納得しながらも残念そうに返事をしたオロールだが、こっそりと決心をしていた。
(王都に帰ったら、外出して買いに行けば良いのだわ。そうしましょう)
この旅には、書物の類は一切持ってきていなかった。旅の途中なら退屈も無いが、向こうに着いて暇が出来たらどうやって時間を潰そうかと考えていたオロールである。
(読むのに出来るだけ時間が掛かるような本は・・・)
持ってゆける数には限りがある。真剣に吟味を始めた彼女に苦笑を漏らし、ブライアンは一旦外に出た。本屋の中には、気の良さそうな店主しかおらず他に客はいない。
う~~ん、と思い切り伸びをしたブライアンだが、その時、本屋の斜め前に花屋があることに気付く。
『帰りがけに、花の1本も贈ると良いですよ。ただ、選ぶ花は慎重に。花言葉というものがありますからね。中には『憎悪』とか『絶縁』なんて花言葉のものもあるんですよ。それについては花屋の方が詳しいですから、買うなら聞いてみてからをお勧めします』
オーギュストのアドバイスだった。
買うにしても買わないにしても、花屋の話を聞いてみたくなったブライアンは、本選びに夢中でまだまだ時間が掛かりそうな彼女を置いて、花屋の前に向かった。
花屋の中は、今が盛りの秋バラがずらりと並んでいる。
しげしげと見ている男性に気付いて、店員が寄って来た。
「贈り物でいらっしゃいますか?1本からご用意できますよ」
「ああ・・・花言葉と言うものがあると聞いたのだが」
男性が花屋に足を運ぶ場合、誰かに想いを伝える目的が多いことを良く知っている店員は、丁寧に説明を始めた。
「バラは、色ごとに花言葉が違うんです。例えば、赤は愛情、ピンクは恋、黄色は友情、オレンジは信頼で白は純潔という感じですかね。でも別の意味を持つ場合もあって、黄色のバラは嫉妬の意味もありますし、白は自分はアナタに相応しい、なんて微妙な意味もあったりするんです」
「・・・難しいものなのだな」
今の自分の心としては、ピンクが良いのではないかとも思うが、先走りすぎているような気もする。多分彼女のことだから、知識として花言葉くらいは知っているだろう。引かれてしまっては、元も子もないし。
結局、さんざん悩んだ末、ブライアンはオレンジ色のバラを1本買った。彼女が貰って喜ぶ花言葉は、現段階では『信頼』だろうと思ったのだ。
そしてあまり目立たぬようにラッピングをしてもらい、花屋を出た時にはかなりの時間が経ってしまっていた。
そして彼が本屋を覗いた時、オロールの姿は無くなっていた。
その少し前、彼を待たせてはいけないと大急ぎで5冊の本を購入したオロールは、それを抱えて本屋を出た。けれどブライアンの姿は見えない。
丁度その時、彼は花屋の中で熟考中だったのだが、まさか花屋の中に彼がいるとも思えないオロールは、辺りを探しながら歩き始めた。
(先に帰ってしまわれたのでしょうか・・・)
もしかしたら、かなりの時間、待たせてしまったのかもしれない。
(でも・・・殿下なら、そんなに無責任なことはなさらないように思います)
暫く歩いてから、オロールは足を止めて考えた。
丁度その時、ブライアンが本屋に戻ってきたのだった。
(しまった!1人で帰ってしまったのか?)
そこまで礼儀知らずではないと思うが、こと本に関しては全てを優先したいと思っているのではないかと疑いたくもなる。
少しでも早く、手に入れた本を読みたくて先に帰ったのかもしれない。
自分より本を優先する相手など、普通に考えたら気持ちが冷めてもおかしくはない状況だが、それよりも心配が先に立った。
(1人歩きは、危ないだろう!)
重い本を抱えて、疲れた足で歩くオロールの姿を想像して、不安が膨れ上がった。
ブライアンは迷子を捜すような心境で、本屋を飛び出した。小走りに探しながら進んだ方向が、オロールが歩み去った方向と逆だったのは運が悪いとしか言いようがない。あまりに焦って、せっかく熟考の末に選んだバラの花を落としてしまったが、気づくことも無く辺りを捜しまわった。
オロールの方は、立ち止まって考えた後、ゆっくりと踵を返して本屋に戻った。
(はぐれた時は、その場を動かないのが最善ですよね)
そして本屋の店先で立っていると、店主が出てくる。
「すみません、ここで待たせていただいても、よろしいでしょうか?」
「ああ、行き違いになったみたいですね。さっきお連れだった背の高い男性が、店を覗いた後、慌てて出て行かれましたよ」
本屋の主は暖かく微笑んで、椅子を持ってきてくれた。
数百メートルほどを走って、ブライアンはふと足を止めた。
夕方近い時間だが、まだ明るい。比較的治安が良いというミツキの町なら、裏道でもない限りそうそう危ないことも無いような気がする。オロールが迎賓館に帰るにしても、裏道を通る必要はないことにも気付いた。
大きく息を吸って、先ずは落ち着こうとしたブライアンは、何気なく来た道を振り返った。
(・・・もしかしたら)
オロールは本屋に戻って、待っているかもしれない。
何故か、そう思った。
今日の恋人紛いの時間が、2人の間になにがしかの絆のようなものが芽生えさせていたのかもしれない。
それはまだ、空気を縒ったような頼りないほど弱いものだったかもしれないけれど。
ブライアンは、その思いに従って、冷たくなり始めた夕風の中を駆け戻った。
「・・・オロール」
本屋の店先には、椅子にちょこんと座って、膝の上に広げた本を読んでいる彼女の姿があった。
「あっ、すみません殿下。行き違いがあったようです」
駆け寄るブライアンに気付いた彼女は、急いで本を閉じると立ち上がって謝った。
「本屋で長居をしてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
「ああ、いや・・・もういい」
時間にすれば、ほんの15分程度のことだったのだろう。けれど、もっと長かったような気もする。
落ち着いてみれば、彼女が先に1人で帰ったと思い込んだことも恥ずかしく思えた。
でも何より、こうしてまた会えたことがただ嬉しくてホッとする。
「それじゃ、帰るか」
夕風に冷えてしまったオロールの身体に自分のコートを脱いで着せ掛け、ブライアンは彼女を守るように歩き出す。重い荷物である5冊の本は、当然のように彼が持っていた。
夕焼けの陽に照らされた微笑ましいその姿を、本屋の主は椅子を片付けながら見守っていた。
準備が整った一行は、ミツキの町を出て峠に向かった。
街道とは言え山道は凹凸も多く、馬車はガタガタと揺れる。そんな中、オロールはブライアントの話がひと区切りしたところで、本を取り出した。
ミツキの本屋で入手した5冊である。
「あの時の本だな。どんな物を買ったのだ?」
オロールは本の表紙を彼に見せた。どれもかなりの厚さがあったが、数学的パズル本、チェス・プロブレムの本(詰将棋のような物)、鉱石図鑑、北方植物図鑑、獣医学の専門書と種類はバラバラだった。
「何度も繰り返し読めそうで、読むのに時間が掛かりそうなものを選びました」
少し誇らしげな目の色で、オロールは穏やかに答えたが、ブライアンとしては本の内容に軽く首を傾げた。
(興味の方向性が、多様過ぎるな・・・)
そんな彼には気づかず、彼女は続けて言った。
「今、読んでもよろしいでしょうか?」
少し上目遣いで、言いにくそうに許可を求める瞳に、やはり可愛いと思ってしまったブライアンは、快く頷く。本を読む彼女の横顔を眺めるのも悪くはない、と。
けれど小一時間も経った頃、いきなりオロールが口元を抑えて俯いた。
「・・・・っ・・・」
「え?どうした・・・・」
「停めて・・・馬車・・・」
ブライアンが御者に合図を送り馬車を停めさせると、オロールは転がり出るように外に出て・・・
嘔吐した。
「・・・酔ったのか」
急いで自分も外に出て、彼女の背中をさすりながら呟くブライアンだ。
ガタゴト揺れる馬車の中で、ひたすら本を読んでいたせいだろう。あまりに集中していたせいで、気づいた時には吐き気が限界になっていたらしい。
「・・・す・・・すみません・・・ごめん・・・なさい」
酸っぱい匂いが漂う中、切れ切れに謝罪するオロールだが、当然顔色は真っ青だ。着ていた服も、吐瀉物で汚れてしまった。けれど、それ以外の言葉を出すような余裕はない。
後続の馬車からグラシュー女医たちも出て来て、何とか応急で処置をするが、結局一行は少し進んだ先の、山の中の小さな集落で休憩を入れることになる。
小さな家を借りて、オロールは口を漱いで服を着替えた。少しさっぱりしたところで、グラシュー女医が用意した薬湯を飲む。
お陰で何とか気分が回復したオロールは、ブライアンの傍に近づいて来た。
「申し訳ありません。こんな場所で、時間を取らせてしまいました」
情けないやら済まないやら、オロールは身を小さくして頭を下げる。休憩のお陰で、馬車酔いは治まってはいるが、まだ顔色は良くない。
「気にするな。どうせこの辺りで、一度馬たちに息を入れさせたかったし、水も飲ませたかったからな」
ブライアンはそう言って、彼女の気持ちを軽くしようとする。
「まぁ、馬車内での読書は、もうやめておいた方が良いと思うがな」
「はい、身に沁みました。以後、2度といたしません」
実は途中で、頭痛は感じていたが、慣れているので無視していたオロールだったのだ。唐突の激しい吐き気はかなりツラく、今後は絶対に酔わないようにしようと決心した。
特に今回のように、彼に不快な思いをさせてしまったことが悔やまれる。自分自身の吐瀉物も見られ、その臭いも嗅がせてしまったわけだから、恥ずかしさもある。冷静無表情な参謀令嬢でも、羞恥心は人並みにあった。
そして馬車酔いも治まったオロールを乗せ、一行は再び峠を上り始める。多少の遅れはあったが、この分なら今日中に山を越えることが出来そうだ。
念のため横になって居ろ、と言うブライアンの言葉に従って、オロールは向かい側の座席に移ろうとしたが、それは彼の腕によって阻まれた。
「え・・・あの・・・」
「いいから、黙って居ろ。大人しく目を瞑って、寝られるなら寝ておけ」
促されて横になった彼女の頭は、彼の膝の上にあった。
(王子殿下の膝枕なんて・・・恐れ多くて・・・)
思わず身を固くするオロールだが、そんな身体に彼のマントがふわりと掛かる。
相変わらずガタゴトと揺れる馬車だが、暖かくなった身体がそれすらも心地よく感じられてくる。
寝ることなんて出来ないと思っていたオロールだったが、いつの間にか寝入ってしまっていた。
(・・・随分近しい間柄になれたような気がするな)
彼女の寝顔を見ながら、ブライアンは愛しそうにその髪をそっと撫でた。
けれど馬車内の暖かい空気とは裏腹に、外は異様とも言えるほどの冷たい西風が吹きつけている。
それは、軍人王子と参謀令嬢の、この先の出来事を暗喩しているようにも思えた。




