私はこれを失恋と呼ぶ
私には気になっている男の子がいた。
彼は決して活発な人ではなかったし、教室の中心にいるような生徒でもなかった。運動も勉強もそこそこで、先生から呼び出されるようなこともない、至って普通の男の子だった。
五月のはじめのころ。入学から一か月が経過し、誰と誰は仲がいい、しかしあの人とは仲が悪いなど、人間関係が目に見えるようになったころ、彼は特定のグループに属している様子はなかったが、空気といえるほど、友だちがいないわけでもなさそうだった。
彼を目で追うようになったのもその頃だった。彼はいつも一番早く教室にいた。私は学校が近かったというのもあり、比較的早く登校していたが、雨の日であっても、彼は私より早く教室にいた。誰よりも早く登校し、必ずカオリさんを眺めていた。
四月、クラス運営を決める際、彼は生き物係に立候補した。小学校の頃にもあった係であるから、みんなどんな仕事をするかはわかっていた。クラスで飼育する魚や動物に餌をあげたり、清掃をしたりする。他の係に比べて毎日仕事はあるし、時間の少ないHR前に終わらせなければならない。ほとんどの生徒が面倒がってやらない、言わば「ハズレ係」と呼ばれるものの一つである。彼はそれに立候補した。
私が教室に入るとき、既に給餌は終わっており、彼はただ、じっと、カオリさんを眺めているのだった。
カオリさんはクラスで飼育している金魚だ。この学校では授業とは関係なしに、クラスで魚を飼育するのが伝統らしく、私たちの学年では金魚を飼育することになっていた。入学したころから教室におり、初めての学級活動は名前決めだった。様々な候補が上がる中、お調子者が提案した「担任の母親の名前」というのを面白がり、先生は渋い顔をしながらも、賛成多数で「カオリ」に決まった。由来が由来なので、親しみを込めて「カオリさん」と呼んでいる。
カオリさんを眺めるその横顔から、私は目を離せなかった。彼の瞳は情熱的であり、夢を見る少年のように穏やかだった。
「おはよう。」
挨拶をする。ゆっくりと顔をこちらに向ける。瞳が正面に見える。どこまでも深く、吸い込まれそうな真っ黒な瞳。
「おはよう。」
瞳の熱はすぐに収まり、彼は少し目をそらしてから軽い会釈をする。
私は毎朝、かならず彼に挨拶をした。一瞬でもその瞳をこちらに向けて欲しかった。
「沙織っていつも真人のこと見てるよね。」
「え、嘘。趣味悪くない?」
そんな私の視線が気づかれたのは林間学校の夜だった。先生の巡回も終わり、夏虫の鳴く陰で、ひっそりと恋愛トークに花を咲かせていた。
「ちょっとやめてよ、そんなんじゃないって。」
「でもいっつも見てない? 今日だってさ、ご飯食べるときじーっと見てたよね。」
「いやそれは、その。」
「ほら、やっぱり見てたんじゃん。」
見ていたのは本当だった。彼は本当にご飯を美味しそうに食べる。決して量を食べるわけでもないし、がっつくような食べ方をしているわけでもない。一口一口を大事に、かみしめ、味わいながら食べる。私はそんな彼の食事風景にあの瞳と同じ熱を感じていた。
「本当にそんなんじゃないんだって、ただ……」
「ただ?」
今日もそうだった。今日はみんなでチキンカレーを作った。味付けはレシピの通りだし、お母さんのカレーにも、給食のカレーにも勝てるはずもない。ただ彼は一つ一つの具材をしっかりと見つめながら口に運んでいた。いつものカレーよりもゆっくりと、なくなってしまうのを惜しむように食べていた。
「いや、なんか……でもほんとそんなんじゃないんだって。」
「なにソレ。まぁでもそっか、沙織とアイツじゃ話も合わなそうだしね。」
「それより聞いてよ、バレーの先輩がさ……」
これが恋ではないと、私自身はっきりと自覚していた。少女漫画の主人公のように、自分の気持ちに対して鈍感なわけではない。はっきりと、「これは恋ではない」と言葉にできる。ただその正体に名前を付けることができずにいるだけである。その熱に私は魅入られているのだ。
学校祭が終わり、教室の片づけを行なっているときだった。たまたま彼と担当する掃除場所が重なった。彼は黙々と段ボールの残骸を運んでいる。私はそのテープの切れ端だとかを箒で集める。ここまで会話がないのも不自然だと思い、話しかける。
「学祭、楽しかった?」
「え、うーん。どうだろ。楽しかったかも。」
「かもって?」
「いや、ごめん。楽しかったよ。」
「たとえば?」
「あー、雰囲気とか。」
「なにそれ、他には?」
「これってのはないんだよね。佐藤さんは?」
「隣のクラスの出し物。結構楽しかったよ。見た?」
「お化け屋敷だっけ?」
「いやメイド喫茶ね、男子がメイドしてたやつ。見てないの?」
「あー、見てないかも……」
「隣のクラスなのに? 今日一日なにしてたのさ。」
「展示物系をぐるぐる回って、あとは友だちと話してたかな。」
「ふーん……」
彼は嘘をついている。彼はずっと授業準備室に篭っていた。学校祭に向けて、別室に移動されたカオリさんがいるからだ。みんなが青春を謳歌するなかで、彼はその生き物係としての仕事を全うしていた。
「カオリさん。」
「えっ?」
ふと口に出た名前に彼が振り向く。
「真人っていつもカオリさんのこと見てるよね。」
「……うん。」
「なんで?」
「綺麗だからかな。」
「金魚、好きなの?」
「……まぁ、そうかな。」
思ったよりも味気のない回答に戸惑う。これまでの毎日を見てきて、熱量に違和感を覚えるのは当然だ。
「……私もさ、カオリさんに餌あげてみていい?」
「どうだろ、あんまりあげるのも良くないらしいし。」
「じゃあさ、今度私も早く来るから一緒にあげていい?」
「あー……うん、いいよ。」
「やった、じゃあまた今度ね。」
教室は大方片付き、私たちは教室に戻った。
休み明け、やはり彼は教室にいた。いつもより早く登校したにも関わらず、彼はじっと水槽を眺めていた。
「おはよう。」
「あぁおはよう。」
彼はいつもより早くこちらに気が付いた。瞳の熱も感じられなかった。
「餌、あげてみていい?」
「うん、いいよ。少しずつね。」
彼は金魚の餌をこちらに渡す。赤いパッケージには金魚のイラストが描いている。蓋を開けると磯のような植物のような、どうにも食欲をそそらない匂いが鼻に届く。
「ゆっくり、少しずつね。」
アドバイスの通り、ゆっくりと筒を水面に傾ける。茶色の顆粒が水に沈む。先ほどまで水槽の隅にいたカオリさんは餌に気付くなり、すぐさま上昇し、パクパクと忙しなく口を動かした。顆粒は次々と口の中に吸い込まれる。思った以上にその様子を眺めるのは楽しかった。
なるほど、真人を魅了していたのはこれだったのか。感想を共有しようと彼の方に振り向く。
息を呑んだ。
彼の瞳を、隣で見るのは初めてだった。瞳は艶やかに濡れており、その頬はいつもより血色が良かった。水槽にぴったりと張り付き、湿った吐息が水槽を曇らせていた。私は思わず目を背けた。決して不快だからだとかそんな思いで逸らしたわけではない。むしろ魅力的だとさえ感じていた。それでも目を背けたのは、無礼な気がしたからだ。これは私が見ていいものではない。この瞳はただ一人の女性に向けられる視線だと、気づいたのだ。
私はこの日の衝撃を失恋と名付けることにした。
彼とはあの日以来、会話をしていない。極力遅く、教室に着くようにし、挨拶もしなくなった。
彼はカオリさんが好きなのだ。
変だとは思うが他に思うところはない。人の性的指向に対してとやかく言うほどに恋愛経験が豊かなわけではないし、前時代的でもない。ただ変だとは思う。だって相手は金魚だ。私は金魚に負けたのだ。
進級を控えた、冬のことだった。
進級に際してカオリさんの処遇を決める学級会議が行なわれた。
真っ先に彼の方向を見る。先生の口から「カオリさん」の名前が出たとき、少し肩が揺れていたように見えたがそれ以降は至って穏やかだった。
議論は静かに進んだ。「逃がす」や「解剖の資料」などあまり人道的とは思えない意見も散見されたが、最終的には来年、同じく2組だったクラスが引き続き担当することになった。どうやら毎年この議論は行なわれるようで、そうしてこの結論に落ち着くらしい。
この結論に彼の背中は安堵しているように見えた。
事件が起こったのはクラス替え発表の日。
クラス名簿を見て驚愕する。彼は2組ではなかったのだ。
「よかったー、また同じクラスだね!」
「う、うん。そうだね。」
「えー、なんかあんまりうれしそうじゃないんだけど。」
「えっ、いや違うの。ただ……」
「もしかして真人くん? やっぱり……」
「そんなんじゃないの!」
冷やかしを背に私は職員室へと走った。
「なんで僕が2組じゃないんですか!!!」
廊下まで響く大きな声。初めて聞く彼の大声に、足がすくむ。
「おぉどうしたどうした。お前、そんなに先生のクラスがよかったのか?」
「はぁ!? そんなわけないでしょう! どうして僕が、僕があの娘と離れ離れになっているのかって聞いてるんですよ!!!」
職員室を覗くと、彼は担任に噛みつかんとする勢いで迫っている。
「なんだ、お前。好きな子がいたのか。そうか……でも、ごめんな。」
「は?」
「いや、そういう不満は誰にもあることでな。みんなの意見は聞けないんだ。」
「……っ!」
言葉を待たずに彼は職員室を飛び出す。避け切れずに肩がぶつかったが、彼はこちらを一瞥もせず教室の方向へと走った。掛ける言葉は見つからない。ただ一人にしてはいけないような気がして教室へ向かった。
「あぁどうして。どうして僕たちが離れ離れにならなきゃいけないんだ。おかしいよね、カオリさん。僕たちこんなに愛し合ってるのに。あいつもどうしてわかってくれないんだ。いや、わかってて僕らをバカにしているのかもしれない。どうせ子供の恋だからってバカにしてるに決まってる。ああいやだよ、カオリさん。君が他の、僕以外の誰かに愛されるなんて。この綺麗なドレスも、愛らしい眼も口も、全部、全部僕だけのものなのに!!!」
教室に入れない。入ってはいけない、あの時と同じ感覚に溺れる。
「こんなことになるなら君と出会わなければ良かった。そんな悲しい顔をしないでおくれよ。僕にもどうしようもできないんだよ。ああ君とはまだまだ語りたいことがあるのに。もうこうして君を愛することができないんなんて。君と一緒にご飯を食べることも。愚痴を言い合うことも。今日はいい天気だねって笑い合うだけでも僕は幸せだったのに。こんなことになるくらいなら……」
私はあの時、この胸の内を失恋と名付けた。
「こんなことになるくらいなら……ああ、そんなことになってしまうくらいなら、いっそ――」
水のこぼれる音が聞こえた。教室の扉を開く。
「何を、してるの?」
彼は両手を掲げて口元に近づけている。手のなかでは何かが跳ねている。
「セックス。」
そのままそれを飲み込んだ。
失恋などではない。より鮮やかで、より残酷な、ふさわしい言葉がきっとあるに違いない。しかし、今はまだ、その言葉が見つからない。だから私は、これを失恋と呼ぶ。