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第9話 薩長同盟秘話 -蛇足其の3-

薩摩屋敷にて小松帯刀の声が響いた。


「才助どん。それはならん。」


隣に座る西郷吉之助は、目を閉じて、起きているのやら寝ているのやら・・・。


慶応2年(1866)1月18日、薩摩の小松、西郷らは、長州の政治トップ木戸孝充と、深夜まで国事について話あった。



俗にいう「薩長同盟」である。



小松が、五代才助に「それはならん。」と声を荒げたのは、その翌日のことであった。


なんと五代は、この同盟の会談に一切かかわっていない才谷亀太郎を薩長同盟6カ条における保証人として、その盟約書に裏書き署名させようと提案してきたのだ。


「確かに、あの者が、江戸で桂小五郎と名乗っていた木戸孝充や渡辺昇と親交はあったことは知っておる。」


亀太郎は、北辰一刀流の桶町千葉道場で塾頭を務めたことがあり、この際に同様に江戸留学して練兵館の斎藤弥九郎の道場で剣術を行っていた木戸孝充と友誼を結び、今も親しくしている。


しかし、小松は、亀太郎の今の状況が、ただの脱藩浮浪者集団の大将でしかないと考えていた。


「しかし、あれは、浮浪人ではないか。同盟の保証人として、軽すぎる。」


五代は、言葉を返した。


「いえ、土佐の後藤と話もうした。才谷らの脱藩を赦免し、彼らをもって土佐藩の外郭団体とする予定であるとのこと。」


実際、五代の言った通りとなり、慶応3年(1867)1月13日に亀太郎と後藤によって清風亭会談と呼ばれる話し合いが行われ、亀太郎らは脱藩を赦され、梅山社中も土佐藩の外部組織となった。


「しかし、それでも・・・。」


言葉に詰まる小松。


五代は、畳みかける。


「我が藩主・茂久公も、また久光公も、この同盟の決戦相手を、徳川将軍家ではなく『会津』『桑名』と見ておられ、そのために長州の復権を薩摩が支援すると考えておられる。徳川そのものを倒すつもりは、ござらん。」


当時、京都政局を制していたのは、一橋慶喜、会津・松平容保、桑名・松平定敬であった。


そして、徳川将軍家を継ぐ権利を持つが軍事力を実家の水戸藩に頼らざるを得ない一橋慶喜は別として、会津藩と桑名藩こそが、薩摩藩として、京都における障壁であったのは確かである。


また、篤姫として知られる天璋院は、薩摩藩島津家の一門。


彼女は、第13代将軍・徳川家定の妻であり、存命である。


なるほど、島津茂久にも、島津久光にも、徳川家自体をつぶしてしまうことに、それほどメリットは無いのかもしれない。


「しかしながら、我々は、幕府を潰し、徳川を滅ぼすつもりでござる・・・今は、外交を我々が主導しておっても、それでは都合が悪いとなった時にそのテーブルをひっくり返される可能性が高こうござる。」


要は、国元の非主流派閥の者どもに、藩主とその後見・久光の威光のもと、小松・西郷らが主流派の地位を追われる可能性があることを、五代は、心配していたのである。


「才助どん、ひとつお聞きしもうす。金ば出しておんためやないんとか。」


その時、西郷が目を開き、五代に尋ねた。


薩摩藩の事業に、「お金方」というものがある。


内容は、にせ金造りである。


事業は、金メッキ・銀メッキで、一分金・二分銀を造るもので、極秘に江戸の鋳物師・西村道弥を薩摩に招き、約3年間に300万両を鋳造したといわれている。


慶応元年(1865)5月、五代才助は、このお金方事業で得たの資金の一部を梅山社中に出資するとともに、亀太郎ら主要メンバー・・・亀太郎、新宮、高松、千屋、白峰、陸奥、沢村らには、薩摩藩より給金を支給していたのだ。


五代は激高した。


「金など・・・そげなことあらば、この腹切っことか。才谷亀太郎・・・この者は、名が知れており、長州の者に信頼されてござる。虚名であろうと、名声は名声。名がありながら、危険に向かう必要のあるのは、実のない者のみ。それが、才谷亀太郎でござる。」


「ふぅむ。失礼を申した。おはんに、任せることに決め申す。」


西郷がそう言ってうなずくと、隣の小松もしぶしぶといったていではあったものの、首を縦に振るのであった。



*****



それでは、薩長同盟の経過を、これを記録している薩摩藩「桂久武上京日記」より見てみよう。



「1月18日-長ノ木戸(孝充)と深夜まで国事について話あう」


長州の木戸らと話し合ったこの18日に、6カ条の盟約内容が決まったと言われている。


なお、才谷亀太郎は、大阪にいたためこの場にはいない。



「1月20日-長ノ木戸(孝充)の送別会」


これは、翌21日に木戸孝充が京より長州に帰るためであった。


国事について話し合われた18日に、事実上、盟約が成されていないならば、送別会などが20日に開かれるようなことはあり得ない。


揉めていた話し合いを、亀太郎が仲介して成立させたという話が残っているが、彼が京都に戻ったのは、1月21日のことであり、薩長の面子が国事を話し合った18日に大阪にいた彼が、同盟の成立に直接的に関わることは無かったといえよう。



さて、同盟の保証人の話である。


薩長同盟が結ばれた会談の内容は、その場で記録されることはなく、正式な盟約書も残されていない。


ただし、木戸孝充が京都に書簡を送付し、亀太郎がその内容を確認した記録が残っており、現在も、宮内庁の図書寮文庫において、その書簡を見ることができる。


一、戦ひと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し

  只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、

  京坂両処を相固め候事


一、戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、

  其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事


一、万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て

  壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、

  其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事


一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、

  直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事


一、兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも

  朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、

  終に決戦に及び候外これ無きとの事


一、冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し

  皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に

  誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事


この書簡の裏書には、朱色の文字でこれを保証する亀太郎の文が残っている。


 表に御記成被候六条は、小西両氏及老兄龍等も御同席にて

 談論せし所にて毛も相違これ無き候、


 後来といへとも決して変り候事はこれ無きは

 神明の知る所に御座候


文章にある「小西両氏」というのは、もちろん小松帯刀、西郷吉之助のことで、内容は「確かにこの6カ条は間違いないと私が保証します。これは、小松帯刀、西郷吉之助、この2人及びその他も、しっかりと確認して署名するものであります。後々にもこれは変わらないものであることを神に誓います。」といったところか。


さて、この文書であるが、ひじょうに面白い所がある。


それは、見た目である。


ものすごく長いのだ。


その長さ4メートル。


上記の通り、たかだか、十数行でまとめられる6カ条の文を、ふんどしより長い紙に書き記す。


異常である。


どれほど大きな文字で書いたのか?と言いたくなるが、そうではない。


文字は普通なのだ。


問題は、6カ条の間に挟み込まれたお願い文であった。



 よく読んで間違いがないか才谷亀太郎が確認をしてほしい。


 間違いがないと確認できたら署名をお願いしたい。



この文言が、5回ほど書かれている。


お願いの書かれた分量は、6カ条を全て合わせた内容分よりも多い。


なんと、4メートルの長さのの半分以上を、才谷亀太郎へのお願いに費やしているのだ。


これは、小松帯刀の画策であったと言われている。



 心配性で、神経質。


 今晴れていても、明日の雨を心配する。


そのように評された木戸孝充の性格を上手く操り、亀太郎に裏書署名させて同盟を保証させるよう仕向けたのだ。



あり得ないほど長い紙に、さらさらと朱色の筆を走らせている亀太郎の天狗のような鼻が目に見えるようであるのだが、この保証役の割り振りこそ、亀太郎を調子に乗せ、ある狂言の役者を引き受けさせる五代才助の策謀であった。



それこそが、俗にいう寺田屋襲撃。


慶応2年(1866)1月23日、薩長同盟成立直後にそれは起こった。


京都の寺田屋に宿泊していた才谷亀太郎と護衛役の三吉慎蔵が、京伏見奉行の役人・・・つまりは幕府方に襲撃されたのだ。


いち早く気付いた亀太郎の妻・龍子が、風呂から裸のまま裏階段を2階へ上がり、亀太郎らに危機を知らせたことで逃走に成功し、難を逃れた。


伏見奉行が動いた理由は「薩摩藩士を騙る不逞浪人・・・才谷亀太郎が寺田屋にいる」という通報だったようであるが、その通報者が薩摩のなまりであったというから面白い。


誰が何のために、通報などしたのか。


実はこの時、幕府役人に書類を押収されたと記録されている。


この押収された書類は、『宿に残された資料を取り調べたところ、薩と長が交渉したとされる書類を見つけた。』『薩の返書もあり、長が幕と戦いとなった時、薩が助け幕をうち破るとの記される』と記録されている。


直前に締結された薩長同盟の内容だ。


そう・・・これは、薩長同盟の事実を情報として、裏から幕府へ伝える五代才助の策謀であった。


同盟を既成事実化することで、五代は、藩内の非主流派に対し優位に立ちつつ、薩摩藩の幕府にたいする表向きの立ち位置は変わらないという絶妙なポジショニングを確立したのだ。


巧妙な情報操作と言えよう。


こうして見事、狂言役者を演じきった亀太郎であったが、この事件が原因で2つほど、失ったものがあった。


ひとつは、左手の親指である。


寺田屋2階に踏み込まれた亀太郎らは、問答の挙句に捕り方の役人と斬り合いとなる。


彼は、捕り方2名を射殺し、数名を傷つけたが、銃を持つ手を捕り方の刀で払われた際に、負傷。


このことで親指のほとんどを失ったといい、以後、写真撮影では、それが理由で左手を隠している。


それでも、この時は、辛くも裏木戸から家屋を脱出して路地を走り、伏見薩摩藩邸に逃げ込むことに成功した。


余談ではあるが、この刀傷の治療のため、亀太郎は、薩摩にて療養することを決めている。


これには妻・龍子も同行し、薩摩に83日間ほど逗留した。


2人は、霧島山、霧島温泉、日当山温泉、塩浸温泉などを巡ったと記録されている。


そう・・・親指の傷の療養のためではあるが、亀太郎と龍子との蜜月旅行といえるものであり、これこそが日本で最初のハネムーン旅行である。


さて話に戻ろう。


確か、亀太郎が、寺田屋襲撃事件が原因で失った2つ目のモノの話をするところであった。


それは、自身の命。


明治維新後の箱館戦争において政府に投降し、捕縛された見廻組・今井信郎は、尋問において近江屋事件(亀太郎が殺された事件・第6話)への関与を認めた。


その供述で、才谷亀太郎襲撃の動機として、寺田屋における亀太郎の捕り方殺害と逃走を挙げている。


今井は、「彼は殺人・逃亡犯である。私が行ったのは、これに対する公務の執行であった。」と主張したとあり、これをもとに明治政府は近江屋事件を彼の罪の1つとして禁固刑の判決を出している。


この見廻組・今井信郎の供述が事実であるならば、薩長同盟の保証とそれに伴う狂言騒動が、亀太郎の命を奪ったことになる。


後世に、その策謀の証拠は、ほとんど残っていない。


「名がありながら、危険に向かう必要のあるのは、実のない者のみ。それが、才谷亀太郎でござる。」


五代才助の知略、恐ろしくも見事なものであったと言えるであろう。

時間があれば・・・次話・・・うーん、なかなかとれないですねぇ。

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