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第8話 35億円の夕食 -蛇足其の2-

津田射弦は、紀ノ国藩士の津田三郎右衛門の長男として、現在の和歌山県和歌山市に生まれた。


蘭学・徂徠学を学び、藩の小姓業奥右筆組頭を勤め、藩主・紀ノ国公の厚い信頼の元、執政太夫に登用されると、藩の執務を一任され藩政改革の責を担っていた。


しかしながら、藩主・紀ノ国公と1対1で夕餉をとったことなど、いままで一度も経験したことがないことであった。


ぐつぐつと音を立てる2つの小さな鍋が、紀ノ国公と射弦の前に並べられる。


「すまぬな。そなたの徴兵令の論は、悪いものではなかったが・・・。」


紀ノ国公は、射弦に向かって、詫びるよう告げた。


「はっ。恐れ多きことにございます。しかし、先の長州征討のことを考えますと、徴兵令は、紀ノ国藩に不可欠にございます。」


長州戦争において、紀ノ国公は、第二次征長軍の先鋒総督に任命され、芸州口に出陣し、破れはしなかったものの、将軍家茂の死去に伴う講和によって、長州戦争自体が幕府軍の実質的敗北で終結していた。


この芸州戦線で、長州藩と戦った彦根藩と高田藩は、あっけなく壊滅したが、その後、紀ノ国兵が両藩に代わって戦闘に入ると、紀ノ国側が押し気味ながらも膠着状況に陥った。


この際に、敵として戦った長州藩の指揮下の維新団は、平民以下からなる民の部隊であった。


この部隊の勇猛果敢ぶりは、先鋒総督名代として参加した紀ノ国藩附家老・安藤直裕によって「且又維新団之働驚眼事に御座候」と報告されている。


射弦は、この話を聞き、藩主・紀ノ国公に兵制改革の一環として、武士身分だけではなく、平民層からの徴兵制を上奏していたのだ。


射弦の言葉に、軽く首を振った紀ノ国公は、目の前の鍋をさした。


「今日は、毒見をつけておらぬ。熱いうちが、うまいらしいのでな。わしのことは、気にせずともよい。」


付小姓が、鍋のふたを開けようと寄って来るのを、紀ノ国公が手で払う。


「聞こえぬところまで、離れておれっ。」


どうやら、夕餉を1対1でとることとなった理由は、紀ノ国公より何か話があることが理由のようであった。


鍋のふたを開け、箸をとる。


「茂田を、処分することとなる。」


紀ノ国公が、ボソリとつぶやいた。


勘定奉行・茂田一二郎のことである。


「いろはに丸」という土佐系汽船と、紀ノ国藩の「明輝丸」が衝突した事件において、「いろはに丸」を操船した「梅山社中」ら攘夷派の過激な言動や、土佐藩・後藤象印郞、中島作太郎らの脅迫を恐れ、パニックに陥った茂田が、独断の策窮で薩摩藩・五代に仲裁を依頼し賠償金の支払いを約束してしまったのだ。


その額、8万3496両198文。


その後の交渉により、1万3000両余りを減額し、7万両でことを終わりとする和解をしたものの、あまりに巨額の賠償金額であった。


独断の策で、これを約束した茂田が、処分されるのは、当然のことであろう。


「才谷亀太郎とやら、調べてみたら土佐の坂本何某という者であった。」


そう、「いろはに丸」を操船した「梅山社中」の才谷亀太郎は、土佐出身の坂本という者の変名であったことが分かったのだ。


「しかしながら、その才谷、寺田屋のことを考えると薩摩・西郷らの犬であろう。」



*****



これは、慶応2年(1866)1月に、寺田屋に宿泊していた才谷亀太郎と、護衛役である長州の支藩・長府藩士の三吉慎蔵が、伏見奉行の捕り方に襲撃された事件の話である。


実はこの時、才谷亀太郎が、幕府役人に書類を押収されたと記録されている。


この押収された書類について、伏見奉行所報告所一報・京阪書通写によると、『宿に残された資料を取り調べたところ、薩と長が交渉したとされる書類を見つけた。』『薩の返書もあり、長が幕と戦いとなった時、薩が助け幕をうち破るとの記される』との記述されている。


つまり、直前に締結された薩長同盟の内容であった。


これを伝え聞いた勝海舟が、「薩が長と結んだと伝え聞いた」と衝撃を受けている様子が海舟日記にも記されている。


しかし、この書類、押収されたのではなく、押収させたものであった。


というのも、寺田屋は、京都伏見における才谷亀太郎の常宿である。


しかも、当時の才谷亀太郎は、すでに要注意人物としてマークされており、寺田屋は常に、幕府つまりは、伏見奉行所の監視下にあった。


そこに亀太郎が、なぜか重要書類と共に舞い戻り、その居住情報が、京の奉行所へと流れる。


そう、これは、薩長同盟の事実を情報として、裏から幕府へ伝えることが目的であったのだ。


普通に公表して伝えてしまうと、幕府に臣従している薩摩が窮地に追い込まれる。


そのため、裏口から書類押収という形で伝えることで、薩長同盟がなったことを幕府はうすうす知っているが、表向き薩摩は、まだ幕府に臣従しているという微妙な立場を成立させたのだ。


この手法で同盟を既成事実化することで、薩摩の西郷らは、藩内の薩長同盟慎重派閥に対し優位に立ちつつ、薩摩藩の幕府にたいする表向きの立ち位置は変わらないという絶妙なポジショニングを確立したと言われている。


一説によると、実質的に薩摩藩の外交を差配していた小松帯刀・西郷吉之助に対し、五代才助が、才谷亀太郎をうまく使い策を成功させることが肝要だと説いたと言われている。


その際五代は、「虚名であろうと、名声は名声。名がありながら、危険に向かう必要のあるのは、実のない者のみ。それが、才谷亀太郎である。」と、亀太郎に書類を押収される役を割り振ることを推したという。


寺田屋顛末とは、つまるところ 薩摩藩の巧妙な情報操作であったと考えられている。


今に残る才谷亀太郎の家族宛の手紙には、『わたしが、あわてものの幕府役人に出会って幸いであったと申しおうたところです。薩屋敷にて小松、吉之助とともに大笑いしました。』とあるが、これは、薩摩の寺田屋顛末が情報操作であったことの証拠となるものであろう。



*****



藩主・紀ノ国公は、鍋をひとつつきすると続けた。


「その薩摩の犬であるが、とんだ詐欺師よ。伊予千洲藩の手の者より報告があった。」


暴れん坊将軍として有名な徳川幕府8代目は、徳川吉宗である。


この吉宗、紀ノ国藩の出身であった。


吉宗の施策で有名なのが、御庭番と呼ばれる隠密集団だ。


これは、紀ノ国藩に伝わる薬込役という集団が前身であり、今でも藩主・紀ノ国公に各地の情報を伝える役目を担っている。


その薬込役が、千洲藩・国島八左衛門の悲劇と共に、八左衛門らの徒党から、情報を仕入れてきていたのである。


「あの詐欺師、航路を偽っておったらしいわ。」


事故後の交渉において、才谷亀太郎は、「いろはに丸」が北西(広島)から南東(四国)方向に航行しており、紀ノ国「明輝丸」は、東から西へと航行していたと主張した。


しかしながら、実際には、来島海峡を経由していたとする「いろはに丸」に同乗していた千洲藩の人物の言葉が今日の記録に残っていることから、「明輝丸」側の主張通り、「いろはに丸」は南西から北東へと航行していたと考えるのが自然であり、亀太郎ら「いろはに丸」側に事故原因があった。


この千洲藩の情報が、薬込役により、紀ノ国公に伝わったのだ。


「あちらに非があるものを、嘘によって我が方に非をなすりつけたのだ。」


その結果が、脅迫を恐れパニックに陥った茂田の巨額の賠償金の約束に繋がったのであった。


「直ちに、その者を討ちましょう。」


射弦は、紀ノ国公に向かって告げる。


「いや、才谷とやらは、すでに死んでおる。」


「それは、我が藩の手の者が?」


「違う・・・しかし、あの者、あまりに多くの者の恨みを買っており下手人が分からぬのじゃ。飼い主の薩摩や、出身の土佐まで・・・手を下した可能性がある者は、予想がつかぬほど多い。」



*****



そう、薩摩藩・五代や小松・西郷ら黒幕説、賠償金の分配にからんだ土佐・後藤象印郎ら黒幕説、見廻組の今井信郎ら、あるいは新選組の関与。


とんでもない話では、グラバーらが関与したフリーメイソンによる暗殺説まで存在する。


もちろん、巨額の賠償金をむしりとられた紀ノ国藩もその犯人とされる有力候補であるが・・・。


とにもかくにも、才谷亀太郎殺害犯は、本能寺の変に並ぶ日本史の1つのミステリーとして様々な異説があり、現在まで取り沙汰されている。



*****



「しかし、土佐に支払いを済ませた7万両は、巨額でございました。我が藩の財政が・・・。」


射弦の言う通りであった。


11月7日、紀ノ国藩は、土佐藩に対して、賠償金7万両の支払いを済ませたばかり。


藩の財政は、火の車である。


執政太夫に任ぜられ、藩の執務を一任される津田射弦にとって、見過ごせるものではなかった。


「心配せずともよい。ご公儀より借り受ける算段がついた。」


「また・・・でございまするか?」


実は、この紀ノ国藩、幕府への借金や援助金で、その財政難をやりくりをする癖がついている。


8代将軍吉宗を出した後に、支藩から宗家を相続した第6代紀ノ国藩主の宗直は、享保飢饉による財政難を幕府の2万両の公金拝借で切り抜けた。


以後は、財政赤字を幕府公金で繕うやりくりが踏襲された。


将軍家に近いことから、紀ノ国藩は、財政的に幕府への依存をどんどんと深め、これが財政を圧迫し、幕府崩壊の一因なったともいわれている。


例えば、現在の紀ノ国公の3代前、第11代藩主の斉順は、幕府の大坂蔵詰米より新たに2万俵を借用した。


この時、天明年間の拝借金が棄損となっているにもかかわらず、拝借金残金は4万5千両に達していた。


その後も、借り入れは続き拝借金残金は膨らんでいる。


そうしてさらに、7万両の借り入れである。


射弦が、声を上げるのも無理はない。


「ほれ、箸が止まっておる。食え。」


あまりの話に、鍋を前に手を止めてしまった射弦に対し、紀ノ国公が食事を進めるようにうながした。


「この鍋じゃがのぉ。あの詐欺師、軍鶏鍋を食べようと準備させ、それを食う目前に斬られたと聞いておる。どうじゃ?7万両(現代の金額で35億円)の鍋じゃ。よい味であろう。」


紀ノ国公は、射弦にそう告げた後、ある沙汰を下した。




- 執政太夫・津田射弦、その任を解き、禁固処分とする - 




こうして、射弦は、地位を追われ、無期限禁固処分とされた。


表向きは、藩内抗争に巻き込まれ、地位を追われたとされるが、実際のところは、いろはに丸事件に伴う勘定奉行・茂田一二郎の上司として処分されたと思われる。



*****



さて、蛇足の多いこの小説。


またも、余談である。


35億円の夕食の後、無期限禁固処分となった津田射弦であるが、その後、復帰することとなる。


1688年11月、紀ノ国公より、再び藩政の全権を委任される。


そうして、明治政府の高官に対し、紀ノ国公にも上奏した徴兵令や郡県制度の構想を伝えたのだ。


1869年2月、藩政改革で、軍務局を設置。


1869年7月、版籍奉還上奏後、和歌山藩大参事に。


1869年10月、最初の徴兵令である交代兵取立之制を発令し、交代兵要領で施行。


1870年1月、交代兵要領を廃して、兵制改革兵賦を編成し、兵賦略則を布達する。


これが、明治政府による徴兵令の元である。


廃藩置県に徴兵令。


維新三傑に、津田を加えて維新四傑とすべきと称されるこれらの功績は、大久保利通の日記に「実に非凡な人物」と評されるものであった。


気になるのは、津田射弦が、徴兵令や郡県制度の構想を伝えた明治政府の高官。


その名を、 陸奥陽之光。


この人物、津田射弦と同じ紀ノ国藩出身ではあるが、薩摩藩・五代や小松・西郷、そして才谷亀太郎と親交が深い。


弁が立つ才子で、勝海舟の神戸海軍操練所に在籍したころは、周囲に「嘘つき小次郎」と呼ばれて、はなはだ評判が良くなかったらしい。


しかし、慶応3年(1867)、彼は、才谷亀太郎の「梅山社中」に加わり意見書「商方之愚案」を提出。


亀太郎に認められ、商事部門を任され外国商人からの武器買付などを行った。


亀太郎をして「刀を二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほど腕をふるったという。


そう、彼こそは、「いろはに丸事件」で、事故交渉の相手方となった「梅山社中」の中心で、紀ノ国藩において津田射弦が失脚する原因を作った人物でもある。


紀ノ国は、紀伊の国。


それだけに・・・とはいわぬが、歴史とは、誠に奇異なもの・・・不可思議である。

とりあえず完結。


完結なのに、次話は、一応6日予定とさせていただきます。7日になったらごめんなさい。


・・・蛇足が長い。

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