第6話 京都・近江屋事件
長かったこの話も、そろそろ一つの区切りをつける段階に近づいてきたようだ。
脚速く空を駆ける彗星は、光を失い、いずこかへと墜ちるものである。
それでは、その後の歴史の流れを追ってみよう。
5月22日に、賠償金額8万3496両198文が提示された事は、すでに述べた。
26日、才谷亀太郎は、紀ノ国藩船長・高柳楠之助と面談し、土佐藩参政・後藤象印郎とともに、紀ノ国藩勘定奉行・茂田一二郎のもとを訪れる。
この頃の長崎は、流行らせた遊び歌「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」の効果が絶大で、町を歩く子供たちまでそれを口ずさんだと言われる。
28日、紀ノ国藩は、薩摩藩・五代才助に調停を正式依頼する。
この日、紀ノ国藩士・岡本覚十郎は、高柳と共に亀太郎襲撃の目的でその宿を訪ねるも、不在のために断念したと記録される。
28日付の伊藤九三宛の龍馬書簡によれば、長崎での世論が梅山社中に有利であると書かれている。
その世論に背を押されたと感じている亀太郎自身、やや余裕が出てきたのであろう。
手紙に、妻・楢崎龍子宛てとして(避難先として妻を逃がした)下関に立ち寄ることができないことを詫びている内容が見られる。
5月29日、まとまりかけた調停案について、調査不十分を理由に仲介役の薩摩藩・五代に対して対応を保留したいと亀太郎が告げる。
しかしながら、小谷耕蔵や渡辺剛八に対し、事件について示談交渉の成立を知らせる29日付の手紙が見つかっている。
このことから、想像を超える8万両を超える賠償金に対し、この段階で、分け前分配に内輪でのいざこざの火種が生じていたのではないかと考えられる。
4か月余り後の10月19日。
亀太郎の代理として梅山社中・中島作太郎が長崎に下り、紀ノ国藩・山田伝左衛門と会談したとある。
この時、賠償金1万3000両余りを減額し、7万両でことを終わりとする和解がなされた。
香川県の讃岐・箱の岬沖で『いろはに丸』と『輝光丸』が、衝突したのが、4月24日。
6か月の時間をかけ、和解が成立したのだ。
そうして11月7日。
土佐藩に対する賠償金が完済される。
これは、主にミニエー銃400及び金塊の賠償である。
12月30日には、土佐への賠償金から梅山社中一同に対し1万5345両余りが分配されている。
これは、梅山社中・副隊長から隊長へと昇格していた佐々木高雪の差配であったと言われる。
また、同日に愛媛千洲藩の「いろはに丸」船価などの返還が完了したと記録される。
さて、賠償金分配を差配した佐々木高雪は、暴力を使わぬ精神的圧迫のため、梅山社中隊員に「紀ノ国切り込むべし」と騒がせた際、絶対に暴発させぬよう亀太郎が命じた前述の副隊長である。
いつの間にか、この人物が、副隊長から隊長へと昇格してしまっている。
それでは、梅山社中・隊長であった亀太郎は、いったいどこへ行ってしまったのであろうか?
*****
それは、11月15日。
その日は、奇しくも才谷亀太郎の誕生日であったと言われている。
場所は、京都・河原町にある近江屋。
土佐藩御用商の井口新助邸である。
蛤御門の変の後、この屋敷は土佐藩士の基地として使われるようになっていた。
というのも、この井口新助は、醤油商であったため、守りに適した強固な土蔵をその邸内に構えていたからである。
この日の午後7時頃、同じ土佐出身の中岡神太郎が、亀太郎を訪ねてきた。
京都の冬は冷える。
3日ほど前から風邪をひいていた亀太郎。
「あったかい鍋を食いたいのぉ。」
体をぶるりと震わせて、そうつぶやいた。
「そうじゃ。京の寒い夜は、軍鶏鍋にかぎるぜよ。」
中岡も、同意する。
彼らは、同席していた書店菊屋の息子である鹿野峰吉に軍鶏を買いに行かせた。
午後9時過ぎ、やっとのことでその軍鶏肉が近江屋に届く。
肉が届いたとの知らせは、近江屋の2階に伝えられた。
そう、守りに適した強固な土蔵ではなく、近江屋の2階である。
前述のとおり、亀太郎は、風邪を引いており、この前日、11月14日から、寒い土蔵を離れ、近江屋の2階へと居を移していたのである。
下ごしらえを峰吉らに任せ、亀太郎と中岡は「いろはに丸事件」について話していたようだ。
「そうじゃの。唄・・・俗謡っていうのがキモじゃ。」
船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取るの遊び唄の話であろう。
「よく似たメロディが流れた瞬間にその歌詞が頭に浮かぶ。1週間もたった頃には、三味線の音が聞こえただけで、あのうたを唄い出す子供すらおったからの。」
「なるほど、覚えてしまえば、頭の中で勝手にメロディが流れてくる。そうすれば、歌詞も勝手に頭に浮かんでくるか・・・鶏が先か、卵が先か。それはそうと・・・鶏と言えば、軍鶏はまだかのぉ。峰吉はトロいわ。」
ずいぶんと、勝手な言い草である。
鹿野峰吉は、彼らに命じられて慣れぬ軍鶏肉に奮闘していたのだから。
それでは、峰吉の軍鶏鍋料理の様子を見てみよう。
★☆★☆★峰吉の軍鶏鍋料理☆★☆★☆
まずは、骨。
1 軍鶏ガラをお湯でゆでて、色が変わったら取り出し、軍鶏ガラから、血合いなどを取り除いておく
2 次に、その軍鶏ガラと昆布を、水を入れた鍋に放り込む
3 これを火にかけ、あくを取りながら30分煮出し、こして軍鶏ガラのスープを取る
※なお、この過程は、鍋に水を入れ、沸騰後、市販の鶏ガラスープと和風ダシの素を放り込むことで省略できるが、残念ながら峰吉の手元にそれはない。そりゃ、遅くもなるわ。
具も用意しよう。
4 レバーや砂肝は、一口大の大きさにカット
また、レバーや砂肝は、一度湯通し、下ごしらえする
この時、砂肝の筋の部分や血合いは、取り除いておく
5 軍鶏のモモ肉やムネ肉も、一口大の大きさにカット
肉は、軽く湯通しておく
6 白ねぎ、白菜は食べやすい大きさにお好みでカット
しらたきは、一度湯通し、下ごしらえする
しいたけには、飾り切りをいれておこう
えのき、しめじは、ほぐしておく
ラストスパート。
7 鍋に軍鶏ガラのスープを入れ、醤油、酒を加える
8 ここにレバーや砂肝、モモ肉やムネ肉、
しいたけ、えのき、しめじ、しらたきを入れ、火にかける。
9 煮立ってきたら、白ねぎ、白菜を加え、火が通るまで待つ。
さぁ出来上がり。
軍鶏の旨みがたっぷり。
京にぴったりの鍋でございます。
お好みで卵につけてもOK。
どうぞお召し上がりくださいませ♪
★☆★☆★峰吉の軍鶏鍋料理☆★☆★☆
軍鶏鍋が、近江屋の2階に運ばれ、亀太郎と中岡の目の前に用意されたのと、ほぼ同時であった。
アポイントメントもなく、突然訪ねてきたその客は、十津川郷士を名乗ったと言われる。
応対に出たのは、護衛に雇われていた山田藤吉であった。
彼が切られたのは、階段下。
藤吉が倒れ、大きな物音がする。
「ほたえなっ。」(うっさい、さわぐな、ボケ!の意味・・・意訳)
叫んだのは、亀太郎であった。
刺客は階段を駆け上がり、ふすまを開け、奥の八畳間に乱入した。
亀太郎は、刀で前頭部を横に払われる。
「刀はないか、石川、刀はないか。」
相手方に中岡の正体がばれないよう石川と呼びながら刀を探す亀太郎。
しかし、奥の床の間にあった刀を取ろうと振り返ったところ、右の肩先から左の背部を斬られ倒れた。
中岡は、屏風の後ろに隠した刀を取り、しかし、それを抜く間を与えてもらえず、鞘のままで防戦した。
屏風の後ろから刀を取る際に、斬られた後頭部をかばいながらの奮戦も、右手はほとんど切断され、尻も骨に達するほどの傷を負い、もはや出来ることは、死んだふりだけであった。
騒ぎに気付いた近江屋・井口新助の知らせを受けて土佐藩邸からかけつけた藩士たちが聞いた亀太郎の最後の言葉は、
「惜しいのぉ・・・軍鶏を食い損ねてしもうた。」
であったというが、これはどうであろう。
あまりに出来過ぎており、後世のつくり話ではなかろうか?
中岡は、2日後の11月17日の夕刻に死亡。
その場で昏倒した亀太郎は、ほぼ即死であった。
*****
そう、梅山社中一同に対し賠償金が分配される頃、もはや亀太郎はこの世になく、その舌先で紀ノ国藩より巻き上げた7万両は、1銭もその懐に入ることが無かったのだ。
幕末の世に現れ、風雲の中消えて行った才谷亀太郎とは、いったい何者であったのであろうか?
亀太郎の跡を継ぎ、梅山社中の隊長となった佐々木高雪の言葉が、ここに残っているので、それを2つばかり紹介しよう。
☆元来、坂本という男は、
時と場合とにより臨機応変、
言わばデタラメに放言する人物なりき。
☆例えば温和過ぎたる人に会する時には非常に激烈なる事を言い、
これに反して粗暴なる壮士的人物には極めて穏和なる事を説くを
常とせり。
☆斯様の筆法なる故に、坂本には矛盾などいう語は
決してあてはまらぬなり。
☆昨日と今日と吐きし言葉が全く相違するといって
少しも意とせず、所謂人によりて法を説くの義なりと
知るべし。
◆才谷は、度量も大きいが、其の遣り口は、全て人の意表出て、
そして先方の機鋒を挫いて了ようにする。
◆実に策略は、見ていて心地よいものであった。
ここで、佐々木が、坂本あるいは才谷と呼ぶのが、亀太郎のことである。
ご覧になって、どうであろう?
時と場合とにより臨機応変、言わばデタラメに放言する人物なりき
昨日と今日と吐きし言葉が全く相違するといって、少しも意とせず、所謂人によりて法を説くの義なりと 知るべし
遣り口は、全て人の意表出て、そして先方の機鋒を挫いて了ようにする。策略は見ていて心地よい
というのが、ひとつヒントになるのではなかろうか?
「その場しのぎに、デタラメに放言し、昨日と今日では、言っている話が全く違う。」
「人の意表を突く突拍子もないやり方で、相手の機鋒くじいて、自分の思うように物事を進める。」
佐々木は、「実に策略は、見ていて心地よいものであった。」と英雄視してあるが、紀ノ国藩のように当たり屋被害を受けた側にとっては、「デタラメに放言するまさに詐欺師」。
見る角度によって全く見え方の違う姿こそ、その答えとなるものだろう。
*****
150余年以上経った今日でも、彼の人気は高い。
彼が幕末の世に駆けずり回った京都では、今も、彼が食べ損ねた軍鶏鍋料理が愛されており、京農林水産技術畜産所において軍鶏の系譜を継ぐ肉質の良い地鶏が大切に育てられている。
山に囲まれた自然の美しい南丹波の美川村。
桔梗の紋が掲げられた鶏舎の前では、今日も、ニコニコ顔の坂本氏が、あなたを待っているに違いない。
よしっ
完結
・・・せずに、いつもの蛇足へ




