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第5話 船を沈めた償いは、金を取らずに国を取る

5月8日のことであった。


長州下関の港を才谷亀太郎が乗った1隻の船が出港した。


彼はまだ、長崎に向かわずに、山口県に滞在していたのだ。


「ワシは、宮本武蔵じゃ。」


亀太郎は、そのようにうそぶいていたかもしれない。


巌流島の戦いにおいて、約束の時刻に遅れて向かった武蔵の姿になぞらえ、自分を投影した・・・要はナルシストであったということである。


紀ノ国藩の『輝光丸』は、その前々週・・・4月29日に、長崎に入港した記録にある。


やっとのことで、亀太郎が長崎に入港したのは、遅れること10日余り・・・5月10日のことであった。


到着したならば、すぐに紀ノ国側に連絡を取り交渉に入る。


と思いきや、亀太郎が真っ先に向かったのは、花街であった。


当時の長崎丸山は、日本有数の花街である。


到着したその日から3日間、彼は、花街丸山に入り浸り、芸者遊びにほうけた。


亀太郎みずから三味線を抱え、よく通る声で自作の歌を唄ったのである。


周りの芸者たちはやんややんやと囃したて、亀太郎の遊び歌は長崎丸山に広がることとなった。


その歌が、その節とともに長崎の妓楼に残っている。



♪ふ~ね~ぇをぉ~しずめたぁ~そのつぐないわぁ~


 かぁねぇをぉ~とらずぅに~くにをぉとるぅ~♪



・・・船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る。



紀ノ国藩の者たちが、亀太郎に対して「長崎港は、海外の船がいっぱい出入りしている。一緒に長崎港に行こう。」と誘ったことで分かる通り、当時の長崎港は、物や情報の集積する、日本では数えるほどしかない国際港であった。


となると、長崎丸山という花街が、各藩の情報担当局員が集まる情報収集の場であるのは、当然のことである。


つまり、この場所でのフェイクニュースとプロパガンダは、恐ろしいほど効果的。


長崎丸山における情報操作で、世論の流れを作ってしまうと、あっという間に長崎中に広がり、するすると水がしみこむように各藩情報担当が所属する本国へと伝達されることとなる。


こうして亀太郎は、妓楼に入り浸り、みずから三味線を抱え唄うことで、「悪いのは紀ノ国藩の者たちである」との印象付けを行ったのだ。


下関市立歴史博物館には、才谷亀太郎の手紙が今も残っている。


そこには『長崎において商人から、子供に至るまで「紀ノ国を討てっ」「紀ノ国の船を獲れっ」と戦をすすめるようになってきました』と記述ある。


「此頃長崎中の商人小どもニ至るまで

 唯紀州をうての紀州の船をとれのと

 知らぬ人まで戦をすゝめに参り申候」

        伊藤九三宛龍馬書簡


彼の情報操作の結果、長崎がどのような雰囲気になっていたかが感じとれる内容と言えるだろう。



さて、亀太郎より遅れること3日。


「梅山社中」の隊員が、長崎へと到着した。


この日、亀太郎は、到着した土佐藩士・橋本麟之助を伴って、紀ノ国藩・高柳楠之助らの宿へと向かった。


まずは、先触れといったところであろうか?


交渉のためのアポイントメントを取りに行ったのだ。


そうして2日後の5月15日、今度は「梅山社中」の長岡謙吉を引き連れ、紀ノ国・高柳らと接している。


連れた長岡に応接筆記させた内容は30項目。


この30項目を文書で紀ノ国側に確認させ、今後は「万国公法」にのっとって議論することを高柳らに約束させた。



ところで「万国公法」とは何であろう?


有名であるのは、20世紀前半にかけて近代国際法を東アジア各国に普及させた国際法解説書の翻訳本で、多くの場合「万国公法」と言えばこれを指す場合が多い。


しかし、International Lawを「国際法」と呼び始める前まで「万国公法」という言葉が、International Lawの訳語であった。


「翻訳本名」と「International Lawの訳語」は区別されるべきであり、ここでいう亀太郎の万国公法は「国際法」のことである。


ただし、亀太郎自身は、なんとなく・・・ぼやっと「万国公法」という言葉を使っており、「翻訳本名」と「International Lawの訳語」との区別がついていなかったと言われてはいるが・・・。



さて、話に戻ろう。


翌5月16日。


前日の応接筆記は、「梅山社中」の長岡であったため、この日は紀ノ国側の成瀬国助であった。


記録を見よう。


出席者

土佐藩  才谷亀太郎ら他2名

  ・・・面白いことに記録では梅山社中ではなく土佐藩となっている

紀ノ国藩 高柳楠之助ら他2名


これは、実質的には、亀太郎と高柳の話し合いであった。


ここで、2人は対立した。


前日に長岡にとらせた応接記録を元に、2ヶ条を英文に翻訳して「万国公法」にて裁きを行うべきだとする亀太郎と、長崎奉行所・・・つまり幕府の公裁を仰ぐべきだという高柳の意見の食い違いである。


亀太郎は、援軍を待った。


そうして、待つ間にも、細工は続けた。


まずは「梅山社中」の隊員には、「紀ノ国切り込むべし」と騒がせる。


しかし、絶対に暴発せぬよう副隊長の佐々木高雪に言明しているから面白い。


つまるところは、暴力を使わぬ精神的圧迫である。


紀ノ国藩の高柳らが、明治の世になって話した記録が残っている。


明治25年に聞き取られたというその記録によると高柳は、「梅山社中の隊員たちは、浮浪の暴士ばかりで事件に猛って脅迫威圧をかけてきた。」・・・そう話したとある。


これを見る限り、亀太郎が行った精神的な揺さぶりは、ボディーブローのように効果を発揮していたのであろう。


そうして、亀太郎自身がやったことは、長崎丸山の妓楼通いであった。


「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」の歌はもちろん唄うが、この頃には、すでに歌が爆発的に流行していた。


亀太郎が唄わずとも、妓楼だけでなく長崎中で子供から大人まで口ずさむようになっていたのだ。


唄うためではない。


それでは、亀太郎の妓楼通いの目的は何であったか。


計画を実行する援軍待ち・・・それは、人に助けを借りることにあった。


この時、長崎丸山の妓楼で亀太郎が話し合った会った人物たちは、実に面白い。


長州藩の政治トップ・木戸孝允に、土佐藩の政治トップ・後藤象印郎。


そしてあの薩摩藩・五代才助。


もう一人は、土佐開成館長崎商会の主任であった土佐藩・岩﨑菱太郎。


明治維新の雄藩といえば薩長土肥であるが、最も後発参入であった肥前藩を除いた薩長土の幹部・要人たちと面会しているのだ。



それでは、その後の交渉の過程を眺めてみよう。


ご記憶にあるように「いろはに丸」は、土佐藩の荷物を運んでいるという名目があった。


そのため5月22日には、聖徳寺にて土佐藩参政・後藤象印郎と、紀ノ国藩勘定奉行・茂田一二郎との応接が行われる。


ここで、薩摩藩・五代才助が調停に入った。


これは、英国艦隊が長崎に入港していたことを利用したもので、前述の、長岡にとらせた応接記録を元に、英文翻訳して・・・という話があったが、状況を英文に翻訳し、英国艦隊関係者にアドバイスをもらおう・・・土佐の後藤が議論をそのような流れに持って行ったのだ。


薩摩藩は、文久3年(1963)にこの英国艦隊と戦争をしており、その講和交渉を通じて彼らと関係が深い。(薩英戦争)


薩摩藩・五代が調停役として介入する余地は、ここにあった。


こうなると、この話し合いの場に紀ノ国藩の味方は居ないのが分かるだろう。


必然、話は紀ノ国藩に不利に流れ、彼らが賠償を支払う提案がその場で出されたという。


この内訳を金銭面で算出したのが、土佐開成館長崎商会の主任・岩﨑菱太郎であった。


突き付けた金額の合計は8万3500両ほどであったいい、記録「土佐守内梅山社中隊長才谷亀太郎紀伊蒸気船明輝丸応接書」には、その証文内容が残っている。


 証文内容

 賠償金額 8万3496両198文 也

 内

 3万5600両     イロハニ丸沈没ニ付キ船代

 4万7896両198文 積荷物等対価


まずは、愛媛千洲藩の「いろはに丸」の購入金額。


これが、3万5600両。


土佐藩主・山内容堂より依頼されて運搬いたミニエー銃400及び金塊。


多少の米と砂糖。


これが、4万7900両といったところか。


とんでもない金額であった。


これを聞いた紀ノ国藩士・岡本覚十郎が、亀太郎を襲撃するため僚喰町の宿を訪ねるも、不在のため断念したという記録が残っているほどだ。


しかし、岡本が亀太郎を襲撃に向かった同じ5月28日に、紀ノ国藩は、正式に薩摩藩・五代に対して調停を申し入れている。


五代への申し入れとなったのは、当時、表向きは薩摩が、徳川側と見られていたためだ。


ただ、自分の側からの調停の申し入れには、非を認め、相手に賠償する意図が含まれてしまう。


プライドが高く、メンツもある。


その上、言いたいことも多くあったであろう彼らが、賠償要求を一方的に飲む流れになった理由は何であろうか?


一つには、亀太郎と長州藩・木戸孝允が、面会したという情報が意図的に流され、要求を飲まなかった場合、先の長州征伐において幕府に勝利した長州藩と、土佐藩が組んで、紀ノ国藩に攻め込むという噂が長崎中に流れていたことだ。


実は、これによって、交渉現場の高柳・茂田らが、冷静に判断を下すことが出来ないパニック状態に陥ってしまっていた。


そして、もう一つは、紀ノ国藩お抱えの薬込役によって藩主へ伝えられた情報が「紀ノ国藩に理がなく、イロハニ丸側が正しい」「長崎では紀ノ国を討てという声が溢れている」などであったため、現場の高柳や茂田らに対して内々の示談検討の指示が、藩上層部より下りてきていたのである。


才谷亀太郎のフェイクニュースとプロパガンダ・・・加えて「船を沈めたその償いは、金を取らずに国を取る」という遊び歌は、世の中を廻りに廻って、恐ろしい効果を発揮したのであった。

次話は、30日に投稿予定とします。

まだ1文字も書いていませんが・・・

頑張れ・・・わたし。

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