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第4話  フェイクニュースとプロパガンダ

それは、鞆の港に「明輝丸」がたどり着いた4月24日の真夜中・・・というより、すでに25日の未明のことであった。


鞆の回船問屋、桝屋清右衛門の屋敷の一室。


「右側通行ちゅうのは、アレか。ぶつかりそうなら、右に曲がらにゃならんちゅうことか。」


誰も居ぬ部屋でボリボリと、頭をかく。


「これは、いかんのぉ。うちらが悪ぅになっちょるわ。」


到着から一睡もしておらぬ亀太郎は、海事のルールを書き付けた書類を眺めながら呟く。


土佐の絵師、河田小龍に海運の重要性について教えを乞うたことはある(河田は、漂流しアメリカ船で船員として過ごしたジョン万次郎と話をしたことがある)。


幕府軍艦奉行並、勝海舟の海軍操練所で軍艦に便乗させてもらい、実地で経験したこともある。


しかし、才谷亀太郎は、正式に操船を学んだことは無いのだ。


「船を海に浮かべれば、何とかなる。」


その考えで、駆け抜けてきた。


しかし、やれ「ここを通ってはならぬ」やれ「一度確認してから」・・・手順だの、制度だの・・・うるさいことを言う海軍操練所の連中を「そいつぁ、屁理屈じゃ」の一言で片づけてきたツケが、ルールを無視した無謀運転による海難事故というきっかけで、我が身に降りかかってきているのだ。


しかし、このままでは午後1時より行われる予定の衝突責任をめぐっての交渉は、絶望的だ。


もう一度ボリボリと、頭をかくと、亀太郎は、ふところから1冊の綴りを取り出した。


船から離脱する直前に持ち出した「いろはに丸」の航海日誌であった。


「まぁ、昼までには乾くじゃろ。」


そうつぶやくと、筆と新たな紙を取り出し、航海日誌を見ながらサラサラと、新たに文字を書き始めた。



*****



4月25日午後1時、鞆の道越町にあった魚屋萬蔵宅にて、交渉が始まった。


ほぼ徹夜であった亀太郎の頬はコケ、目は血走り、しかしそれが何とも言えぬ迫力をもち、非常の雰囲気を醸し出していた。


「万国公法に基づき、非は貴船「明輝丸」にあるっ。」


交渉が始まるや否や、亀太郎は、得意の一刀流が如く、上段から切り込んだ。


さすがは、北辰一刀流の桶町千葉道場で塾頭を務めた腕前である。


紀ノ国藩の高柳楠之助は、船長であり根っからの交渉人ではないとみるや、初手でずばりと上から大きく切り込むことで、場の流れを一気に手の内に入れたのだ。


そこから、亀太郎の独壇場であった。


「いろはに丸」の航海日誌は沈んだが、自分の書付が残っていると、取り出して見せたのだ。


数時間前に墨が乾いたばかりであったっが、幸いにも紙が良かった。


急の事態であったため、桝屋清右衛門が紙を揃える事が出来ず、数種類の和紙が使われていたのである。


見た目が違う数種類の和紙に書かれてあったため、この日の早朝に書き記したものであると相手方に疑われることがなかったのだ。


その紙には、北西(広島方面)から南東(四国方面)へと順に向かってゆくいわば日記というよりは、メモと言えばよいであろうか?


とにかく、亀太郎は「この書付けが「いろはに丸」の航路を示す。非は紀ノ国「明輝丸」が、正しく回避行動を取らなかったことにある。」とぐしゃりと紙を叩きつけたのだ。


もちろん、高柳楠之助は、これに同意しない。


「いろはに丸」は、南西から北東へと航行しており、原因はそちらにあると反論する。


しかしながら、お山の大将であれ、亀太郎は大将である。


それに対して、高柳楠之助は、紀ノ国藩の臣であり、最終決定権を持つ大将は紀州にありこの場に居ない。


しかも、この高柳、元々の紀ノ国藩の臣ではなく船を操るため中途採用された外様であった。


「すべては、藩命に従うものである。」


権限無き者の言葉は、交渉の場でその主張の勢いを削いでしまう。


あげくには、亀太郎に急場の難を救うための要金として1万両を要求されてしまう始末。


これも、その場で断固としてぴしゃりと撥ね付けてしまえばよかったものの、「明輝丸」に勘定奉行の茂田一二郎が同船していたことも運が良くない。


この2人、サササと別室にこもって相談を始めてしまう。


なぜ、紀ノ国藩「明輝丸」に藩の勘定奉行が乗船していたかというと、なんということもない。


長崎へ商談に向かう最中であったからだ。


余談ながら、皮肉であるのはこの紀ノ国藩が購入予定だった品は、蒸気船であった。


新たな蒸気船の商談最中にトラブルが起こり、その解決のため勘定奉行の茂田一二郎や御仕入れ頭の速水秀十郎らが船に乗り込んで長崎へ向かっていたのだが・・・その航海途中に当たり屋まがいの浪人集団というか結社というか・・・土佐藩の看板を掲げてはいるのだが・・・そのような連中に絡まれる。


紀ノ国藩は、徳川御三家の1つ・・・幕末の徳川の時勢の失い方、運の悪さが見て取れる。


そうして、別室から出た高柳の答えは「金一封として千両を出そう」というもの。


商談に向かうため、用意してあった金子から大きな無理をせず用立てることができ、しかしながら相手のメンツを立てることができる金額であった。


「話にならぬ。」


しかし、亀太郎はこれを突っぱねる。


当然である。


わずか千両では、蒸気船はもちろん、まともな帆船すら用意することは難しい。


しかも、このままでは、千洲藩にも船代を賠償せねばならぬのである。


亀太郎が出した、急場の難を救うための要金として1万両をだせという根拠は、「イロハマンス号」をあの国島八左衛門に購入させた代金4万メキシコ・パタカであるからして、千両では焼け石に水でしかない。


まったくもって、意味が無いのである。


折れぬ亀太郎に、高柳は、「1万両を立て替えよう、証文を作る。返済期限を決めよ。」と告げる。


「1万両は賠償金の一部。いわば確定前の前払い金である。返済期限とは何事かっ。」


逆ギレを続ける亀太郎。


こうして4月27日午後2時40分、交渉は決裂した。


それでも、高柳は解決のための案を出している。


「長崎港は、海外の船がいっぱい出入りしている。海難事故の具体的な判例も多く集まる。そこでなら、公平な判断で事故を裁けるので、私たちと一緒に船に乗って長崎港に行こう。」


船を失い、荷を失い、宿借りの状態となっている亀太郎たちにとって救いの言葉となるものであったが、答えはNO。


亀太郎は、断固として同乗を断り首を縦に振ることは無かった。


当時の記録を見てみよう。


「才谷(亀太郎)固辞して曰く

 我、後ヨリ行ケシ」


亀太郎は、後から合流するの一点張り。


紀ノ国藩の者たちは、亀太郎たちを鞆に残し、「明輝丸」で長崎港に向かうことになるのであった。



*****



「甘いのぉ。交渉は、途中で席を立ってはならんのじゃ。」


亀太郎は、つぶやく。


世界大戦の直前、やや無法な行動をした極東アジアの島国が、国際連合の会議でその問題を突かれ、怒りに任せて会議の途中で席を立った例がある。


しかし、席を立ったが最後、その外交空白を残った国の者たちに自由にされるのは当然のこと。


会議において、席を立った国家に不利な方向に話が流れたのは、言うまでもないことであろう。


そして、この海難事故でも不利な情報操作をされたのは、紀ノ国藩側であった。


行われたのは、亀太郎による「お手紙大作戦」である。


このように書いてしまうと、なにかチャチな作戦であるかのように感じられるかもしれないが、家康も、秀吉も、足利義昭も使った由緒あると言ったらいいだろうか?とにかく効果的な作戦である。


各地の知人に当てた亀太郎のいくつもの手紙が今も残っている。


「紀ノ国人は、我々が船も荷も何もかもを

 失ってしまったにもかかわらず、

 我を鞆の港に残して長崎へと行ってしまった」


これは、手紙を受け取った者たちに対し、紀ノ国藩が、亀太郎や社中の人間を置き去りにして、あたかも現場から逃走してしまったかのような・・・いわばひき逃げの印象を持つよう仕向けるものであった。



本能寺の変直後、中国大返しの際に秀吉が、重要地点である摂津茨木城(大阪府茨木市)の中川清秀に対して書を送っている。


「上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候。」


「信長も嫡男信忠も、無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れた」


という記述であるが、秀吉は、続けて「聞いたところでは、そうらしいよ♪」と書き加え、伝聞・・・聞いた話として書き送ったのだ。



亀太郎の手紙は、これによく似ている。


船も荷も何もかもを失ったのも事実。


紀ノ国人が、我を鞆の港に残して長崎へと行ったのも事実。


ただ、全文を読むと、フェイクニュースといえばいいのか・・・なんとも巧妙な手口だが、現代でもこのようなことは珍しくはない。


例えば、処理水をちゅうご・・・


いや、東スポと言う新聞が存在する。


一昔前になるので、私も現物を見たことは無いのだが、昔は日付以外は全てウソなどと軽口を叩く人がいるくらいの内容であったらしい。


その一面の見出しがこうだ。


「綾子狂った」「バンカーでおしっこ」


確かに、岡本綾子選手のゴルフの大会で調子を崩し成績を落としたのも、事実。


そうして、猫が、バンカーにおしっこをしたのも事実であった。


なるほど、日付以外は全てウソとは、うまく言ったものである。



さて、話を戻そう。


亀太郎の手紙は、「紀ノ国人が船をぶつけて、我を鞆の港に残して長崎へと行った」といったものだけでは無かった。


「このままでは、戦争だ。」


「血を見なくてはならない。」


「紀ノ国人を切って、その後切腹する。」


とにかく大騒ぎをして、分かりやすく皆を巻き込む手法である。


シンプルな手法であるが、これは効果的であった。


紀ノ国藩お抱えに薬込役・・・くすりごめやく・・・という役人がいる。


徳川吉宗によって御庭番という幕府の役職となった、情勢や情報を報告する将軍直属の監察官の前身と言われる。


紀ノ国藩でも、御庭番と同じく奥向きの警備を表向きの職務とし、藩主の命を受けて情報収集を行っていたといわれる。


この薬込役が、紀ノ国藩の藩主にこの情報を複数の筋から伝えたのだ。


人間は、自分の手で調べ、かつ複数の方面からその情報を得た場合、それを真実と思い込みやすい。


亀太郎が流したフェイクニュースとプロパガンダは、世論を形成しただけでなく、交渉に置いて最終的な決定権を持つ紀ノ国藩の藩主にも影響を与えたのだ。

ごめんなさい。結局仕上がったのが、26日未明でした。亀太郎の書付同様、墨はたぶん乾いていません。おそらく次話投稿は、28日9時になると思います。あまりに忙しすぎて、時間が取れないのです。しかも、この第4話で、本当は、交渉決着してたはずなのに遅々として話が進んでいません。


お読みいただいて本当にありがとうございます。出来るだけ28日にはあげれるよう努力します。

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