第3話 食い違う主張、進まぬ交渉
今にも沈みそうな「いろはに丸」は、紀ノ国藩の「明輝丸」に曳航され、ゆっくりと鞆の港へと向かっていた。
鞆の港は、広島県福山市にあり、有名な鞆の浦は、沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域のことをいう。
瀬戸内の海流は、満潮時に西は豊後水道から、東は紀伊水道から瀬戸内海に流れ込むことでおこる。
これが、瀬戸内海の中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。
鞆の浦を境にして潮の流れが逆転するこの現象は、壇ノ浦の戦いにおいて源義経が、潮流の反転を利用して、平家海軍を打ち破ったという説まで作られるほどであった。
もっとも、この話は間違いで、瀬戸内海の広い海域では、合戦に影響を与えるほどの速い潮流を見ることはできない。
特に、この鞆の沖合20kmほどのこの場所は非常に穏やか。
潮が速い時でも、水の流れが時速2kmを超えることはまずありえない。
才谷亀太郎は、救助された後、紀ノ国藩の「明輝丸」の甲板から曳航される「いろはに丸」を眺めていた。
船の損傷は、甚大。
このまま造船所へと運び入れても、修理が可能かどうかすら危うい。
亀太郎は、その唇をかみしめた。
それはそうだ。
手に入れたと思った新たな蒸気船を、借り受けた初操船の航海で失おうとしているのだから・・・。
時刻は、真夜中・・・2時を過ぎたばかり。
亀太郎は、土佐出身の水練が達者な男を手招きをして呼び寄せた。
口を相手の耳元に近づけてささやく。
紀ノ国藩の「明輝丸」は、大型である。
しかし、亀太郎とその土佐男は、救助用のボートに手斧を1つ積んだものを、周囲に気づかれぬよう海へおろすことに成功した。
場所は、鞆の沖合20kmだ。
真夜中で辺りは暗闇である。
航行する「明輝丸」引き波に巻き込まれれば、小さな救助ボートなどひとたまりもない。
命がけの作業に蒼白となった土佐男は、それでも勇敢にロープを伝い、ボートへと飛び降りる。
土佐男と小さな手斧を乗せたその救助ボートは、闇の中をすぅぅと移動し、やがて「いろはに丸」の陰に隠れた。
それから1時間ばかり経過した午前3時を過ぎた頃であった。
鞆の沖合15km。
そこは、本当に沖合15キロかと思われるくらい瀬戸内海でも穏やかな海域であった。
突然、大きな声が響く。
「ロープを切れぇぇぇぇ。沈むぞっ!」
紀ノ国藩の「明輝丸」当直の甲板部員だ。
その手に小さな斧を持ち、あわてて船員たちが飛び出してきた。
彼らは、暗闇の中で、曳航ロープを叩き切る。
やっとのことで幾本かのロープが切り落とされた瞬間であった。
曳航されていた「いろはに丸」の船尾が沈みはじめるのが、舷灯の薄暗い灯りの向こうに見えた。
「いかんっ。これは、沈むわ・・・全速っ。石炭を惜しむなぁぁぁ。」
声に反応するかのように、「明輝丸」の鉄製スクリューが猛回転し、速度を上げる。
船は、「いろはに丸」の残骸から距離を取り、やがて闇の向こうに沈みゆく「いろはに丸」の音だけが聞こえてきた。
有名な鞆の浦の港町である鞆には、古い町並みが今も残る。
そこには、江戸時代の港湾施設「波止場」や「船番所」が、いまだ残っており、江戸中期の町絵図が現代の地図としても通用するほどである。
つまりは、亀太郎が見た街並みも、これと同様であったということだ。
船が港に着いたのは、衝突の翌日・・・4月24日の午前8時頃。
「いろはに丸」の船員34名を乗せた「明輝丸」は、鞆の浦に上陸した。
鞆の港にたどり着いたのち、紀ノ国藩の者は円福寺に、亀太郎たちは、小曾根英四郎の仲介で桝屋清右衛門宅に身を寄せることとなる。
船舶の衝突責任をめぐっての交渉は、鞆の道越町にあった魚屋萬蔵宅において、その日の午後1時に開始された。
ただし、何時間経過しようと、亀太郎と「明輝丸」船長高柳楠之助との間の話し合いは、1ミリたりとも動くことが無かった。
というのも、双方の主張が、あまりに食い違ったためである。
高柳楠之助が、「いろはに丸」は南西から北東へと航行していたはずだと主張したのに対し、亀太郎は、「いろはに丸」は、南東に向けて航行していたとして譲らなかったのだ。
また、金銭面においても両者の主張は、かみ合わなかった。
亀太郎は、急場の資金として金1万両を要求するも、紀ノ国藩高柳楠之助および勘定奉行茂田一二郎は、1000両を金一封として出す返答。
亀太郎は、話にならないとしてこれを拒否。
これが、4月27日の午後2時40分のことであった。
つまるところ、交渉は2日間で決裂したのだ。
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ここで、事故の原因となった航路などについて確認しておこう。
亀太郎は、「いろはに丸」は、北西(広島)から南東(四国)方向に航行しており、紀ノ国「明輝丸」は、東から西へと航行していたと主張した。
しかし、高柳楠之助は、「いろはに丸」は南西から北東へと航行していたはずで、その主張はおかしいし、航路としてあり得ないと首を振っている。
まぁ、実際には、来島海峡を経由していたとする「いろはに丸」に同乗していた千洲藩の人物の言葉が今日の記録に残っていることから、「明輝丸」側の主張通り、両船とも北上しながら東西から対向・・・つまり「いろはに丸」は南西から北東へと航行・・・していたと考えるのが自然であり、亀太郎側の非があったことが確定している。
また、衝突に至るまでの「いろはに丸」の操船も、国際ルール上、重大な過失があった。
まず、「いろはに丸」の操船における取舵は、右側通行を原則とする行き合い船の航法に違反している。
さらに、進路を横切る船になるため、「明輝丸」よりも小型の「いろはに丸」の方に回避義務が生じる。
逆に、進路の保持船に相当する「明輝丸」は、自身の進路を維持していれば問題ない。
実際の所、亀太郎の主張は、史録書『明輝丸と土佐藩伊呂波似丸の衝突事件応接筆記』や紀ノ国藩の歴史書『南紀徳川史』での記録と真っ向から対立しており、位置関係上、明光丸の赤灯が見えるべきところ緑灯を発見して舵を切ったとするなど不自然である。
つまり自己の立場を有利にするため、亀太郎が偽証したということである。
なお、紀ノ国藩側は「いろはに丸」が、舷灯を点灯していなかった(「いろはに丸」の無灯火)も主張している。
しかし、証拠となる「いろはに丸」船体が水没したために立証できない。
曳航途中、穏やかな海域で「いろはに丸」船体が、なぜか沈んでしまったことも、紀ノ国藩側に不利に働いた。
*****
そうこうして、話し合いは決裂し、交渉が難航したことで、紀ノ国藩側から、亀太郎にある提案が出される。
当時の記録を見てみると・・・
「長崎港ハ各国出入りモ夛キ儀ニ付類似例モ可相分
公平ノ御沙汰受可中候
同船シテ同港ニ到ル」
とある。
つまり、
「長崎港は、海外の船がいっぱい出入りしているから、海難事故の具体的な判例が多く集まっている。そこでなら、公平な判断で事故を裁けるので、私たちと一緒に船に乗って長崎港に行こう。」
と誘ったわけである。
きわめて紳士的で、さすがは、徳川御三家と言ったところであろうか。
といっても、この時点で、紀ノ国藩側は、自分たちが正しいことを確信しており、精神的に余裕があったことから出た行動であることは否めない。
結果的には、この余裕がアダとなる。
亀太郎は、長崎へ場所を移しての交渉する話は飲んだ。
しかし、一緒に船に乗って長崎港に向かうことを、なぜか断固として拒否したのだ。
結局、紀ノ国藩側は、「明輝丸」に乗り込み、自分たちだけで長崎港に向かうこととなった。
まとまった時間が取れず、24日の投稿になってしまいました。
とにかく、絵を作ることに異常に疲れました。
次話を25日9時に投稿できればと考えていますが、時間が取れない場合は、翌26日9時になるかもしれません。
・・・絵は、もう描きませんけど。