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第2話 『いろはに丸』は、海の藻屑に

慶応3年(1867)4月24日のことであった。


「おぉいっ、向こうに赤灯が見えよるわっ。船じゃっ。あれはデカいぞっ。」


夕闇の中、誰だか分らぬが、見張りの甲板部員の者だろう。


叫ぶ声が聞こえる。


間もなくして、才谷亀太郎がいる操だ室からも、赤色の舷灯が見えた。


相手の赤灯が、だんだん大きくなってゆく。


船舶が、こちらに向かってきているのだ。


やがて相手の船の波を切る音が聞こえ、それがさらに大きくなってきた。


「と・・・取舵いっぱぁいぃぃぃぃ。」


相手船舶の赤の舷灯の光以外、見えていたのは、高く跳ねる波の壁だけであった。


才谷の「梅山社中」が愛媛千洲藩より借り受けた「いろはに丸」に乗った船員たちにとっては、彼らよりひと回りいや、ふた回り大きな船舶が、突然あらわれたように見えたに違いない。


「いろはに丸」の操だ手は、慌てて舵を切ったものの間に合うはずもない。


こうして、相手船舶と、取舵を切って左折した「いろはに丸」は衝突した。


といっても、タイタニックのように真っ二つに折れ沈むことは無く、浸水しながらも、その場に浮かぶ「いろはに丸」。


乗っていた才谷たちは、相手船舶から出されたボートに助けられ、彼らの船へと救い出されたのであった。



*****



スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーは、死の商人と呼ばれる。


英国聖公会の信徒で、薩摩藩の五代才助と縁が深い。


彼は、五代の紹介で、日本人女性ツルと結婚。


長女ハナをもうけていることからも、その関係の深さがうかがえる。


さて、この「いろはに丸事件」の起こる2年前の慶応元年(1865)5月のことだ。


才谷亀太郎は、このグラバーの手足となって絵画や漆器の顔料や、刀の鞘や柄の材料である鮫皮、あるいは陶磁器類、そして武器弾薬の斡旋や運送などを行う会社「梅山社中」を設立した。


最初の仕事は、ミニエー銃4000余、ゲーベル銃3000をグラバー商会から薩摩藩の五代経由で買い付け、長州へ輸送することであった。


要は、何でも運ぶ死の商人の使いっ走りだ。


しかし、この使いっ走りがバカにならない儲けを生む。


亀太郎は、故郷の土佐をはじめとする脱藩浪人たちをこの儲けで養っただけでなく、プロセイン製の帆船ワイルウェフ号や、イギリス製の木製蒸気軍船ユニオン号を借り受けて運用することが可能になった。


しかし、先年の徳川幕府による長州征伐の戦いの時に、帆船ワイルウェフ号を荒天のための沈没で喪失。


旗艦であったユニオン号も、戦時の長州藩へ引き渡すことで、亀太郎は、運用する船をなくしてしまったのだ。


そうして困りきって相談した相手は、薩摩藩の五代才助であった。


「亀太郎殿、ちょうど良い者がござる。」


こうして五代に紹介されたのは、四国は愛媛千洲藩の国島八左衛門であった。


愛媛千洲藩は、重臣武田敬孝・森井千代之進・井上将策らの建白を入れ、慶応2年(1866)7月、ミニエー、ゲーベルなど新式銃器購入のため八左衛門を長崎に派遣した。


彼が選ばれた理由は、八左衛門が、心極流・正木流・荻野流の火砲術の達人として千洲藩内に知られた人物であったためだ。


しかし、かねてから蒸気船の必要を感じていた八左衛門に、才谷亀太郎は、囁く。


「八左衛門殿、ちょうど良い船がござる。」


こうして、八左衛門は、長崎到着後、藩の許可を得ることなく、その金銭で銃器にかえて蒸気船を購入することを計画することとなった。


さて、亀太郎が紹介した蒸気船は、どのようなものだったかご紹介しよう。


造船されたのは、文久2年(1862)。


それは、スコットランドのグリーノックで造られた、全長47メートル、幅5.2メートル、深さ3メートル、積載量209トン余の小型蒸気船であった。


船名を「アヴィゾ号」という。


翌年(1862)、薩摩藩が、前述の商人グラバーより、船名を「安行丸」と変えてこれを購入する。


しかしながら、小型であったことも影響したのだろう。


慶応元年(1866)、薩摩藩の五代才助と、マカオ生れのポルトガル領事ジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロとで船の売却交渉が行われ、翌年(1867)の正月、これが引き渡された。


そうして、ロウレイロの元で、船名を「イロハマンス号」と変えて航海もせず、長崎の港に浮かんでいるという状態・・・。


この船に五代と亀太郎は、目を付けたのだ。


こうして薩摩の五代と組んだ亀太郎は、口先働きで、人の好い愛媛人、国島八左衛門に船を購入させた。


その額、4万メキシコ・パタカ。


当時の金額で、1万両ほど。


しかも、この交渉で亀太郎は、他にも購入希望の藩があるとけしかけ、2万パタカほどの船を、4万パタカに釣り上げることに成功している。


それはさておき、ポルトガル領事の元で、「イロハマンス号」と名付けられていた船名は、日本語の響きでよく似ている「いろはに丸」と名を変えられた。


そう、冒頭で衝突した船舶こそ、この「いろはに丸」である。


さてもって、実は、この購入時にひとつの問題が生じていた。


「いろはに丸」購入が、八左衛門の独断であり、愛媛千洲藩の許可のもとに購入されたものでなかったため、薩摩藩の船として島津家の紋所をかかげて航海することになったのだ。


名目上、島津家の船であるからして、薩摩藩五代と関係の深い才谷亀太郎を隊長とする「梅山社中」隊員が操船に携わることとなり、「いろはに丸」は、亀太郎たちによって、同年9月に愛媛長浜に回航されることとなった。


まぁそうは言っても、愛媛長浜に数日間碇泊の後、長崎に向かって出航し、同年11月の愛媛長浜帰港時には、藩主加藤家の紋所を掲げて愛媛千洲藩所有船として入港しているという記録が残っているため、無断購入の件については、藩当局からの一応の了解が得られたものと思われるが、哀れなのは、国島八左衛門。


「豊川悦日記抜抄」「千洲藩史料」といった当時の記録によると、この年のクリスマスイブ・・・つまり12月24日、長崎において愛媛千洲藩の郡中奉行、国島八左衛門が切腹したとの記述が残っている。


おそらくは、1万両あまりの金を使って、予定していた銃ではなく、船を無断購入した責を問われたのであろう。


さて、「いろはに丸」の話に戻ろう。


慶応3年(1868)4月、4度目の長崎への航海に出発し、その港に入港した。


ここで、亀太郎は、土佐藩の縁を使って「いろはに丸」を扱えるよう手段を講じる。


愛媛千洲藩に対し、長崎から大坂へ荷を輸送することを理由に、土佐藩の後藤象三郎を通じて「いろはに丸」貸与を求めたのだ。


そのため、同船は、一航海・・・15日間、貸与料500両の約束で、千洲藩より土佐藩に貸し出されることとなった。


「いろはに丸」には、千洲藩藩士にかわって、再び才谷亀太郎以下多くの「梅山社中」の隊員が乗り組み、4月19日、長崎を出港。


再び手に入れた蒸気船に、亀太郎は、上機嫌で、浮かれに浮かれたという。


なんと、甲板からあやうく海に転落しそうになったという逸話が残っているほどである。


船は、ゆうゆうと下関海峡から瀬戸内海、そうして千洲藩のある愛媛県の沿岸を通過し、香川県の讃岐箱の岬沖へと差し掛かった。


冒頭の悲劇が起こった日時は、慶応3年(1867)4月24日18時。


「いろはに丸」と衝突した船・・・その名を「明輝丸」。


それは、徳川御三家の1つ・・・紀ノ国藩所有、大型の鉄製スクリュー推進蒸気船であった。

次話は、9月23日9時を予定しておりますが、あまりに忙しい場合、24日9時になるかもしれません。

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