表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/13

第13話『明輝丸』は、海の藻屑に 後編 -蛇足其の5の2-

さて、前話の続きである。


慶応4年(1868)正月、岩﨑菱太郎は、土佐藩の政治トップである参政・後藤象印郎にある仕事を命じられる。


その内容は、「梅山社中」の解散処理と残務整理を担当し、これを成し遂げること。


これは、前年の11月に起こった近江屋事件により、隊長の才谷亀太郎が殺害されて求心力を失った「梅山社中」が、分裂ぎみとなり、土佐藩の外郭機関として運用するには不適となったことや、「いろはに丸事件」において「梅山社中」に分配された賠償金が、あまりに巨額であったため、この金を分散させずに土佐藩として適切に管理する目的のためであった。


要は、やっかいな仕事の丸投げである。


経理や商会の交渉ならともかく、菱太郎からすれば救国の志士気取りとしか思えない「梅山社中」の隊員たちを怒らせずに、解散処理と残務整理をするのは、とてつもなく面倒な仕事であった。


菱太郎は、細心の注意を払いながら、この仕事をやり遂げる。


例えば、明治2年(1869)、開成館大阪出張所(大阪商会)を発展させ、土佐開成社、後の九十八商会をを立ち上げるが、代表は、元梅山社中の土居市太郎としてメンツを保ち、菱太郎は事業監督を担当するかたちで、経営を握った。


経営は順調であった。


明治期当初、外国資本の運行する多くの船舶が日本の国内航路にまで進出しており、明治政府は、三井、鴻池、小野組などに船の援助、運航助成金などの支給など、多くの補助を行いながら国内組による航路の発展を図っていたが、はかばかしい結果を得ることができていなかった。


これに対して、菱太郎の商会が独自に運行する、高知—神戸間航路、東京—大阪間航路の輸送は、絶好調。


そうして、軌道に乗った菱太郎の商会は、明治6年(1873)、王菱商会へ社名変更し、翌明治7年(1874)には、本店を東京日本橋の南茅場町に移し、王菱蒸汽船会社へと社名変更した。


これが、現在も続く、王菱財閥の始まりである。


また、皆さまがご覧になったこともあると思われる4つのダイヤモンドが並ぶ、広く知られる王菱のマークが作られたのもこの時であった。


岩﨑菱太郎は、残務整理の結果、見事、梅山社中の事業を自ら引き継ぐことに成功したのだ。


そうして、いろはに丸事件の賠償金などを元手に、蒸汽船を運用する海運業を中心とした商会事業をはじめたのである。


そして、菱太郎がその地位を確固としたのは、明治政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことであった。


各藩が発行していた藩札を集約し、新政府が買い取る事業であるが、この情報を事前に察知した菱太郎は、10万両の資金を都合して藩札を安値で大量に買占めたのだ。


そして、買い集めた藩札を、新政府に買い取らせて莫大な利益を得ることとなる。


情報を流したのは明治新政府の高官となっていた後藤象印郎であり、完全なインサイダー取引。


もちろん、後藤にも多くの金が流れたと言われている。



*****



さて、みなさんお気づきであろうか?


第12話のタイトルは、「『明輝丸』は、海の藻屑に」である。


「明輝丸」といえば、「いろはに丸」と衝突した紀ノ国藩の大型の鉄製スクリュー推進蒸気船であるが、この第12話において、最初のタイトルに登場して以降、文中には、一度も登場していない。



これこそ、完全な「タイトル詐欺」である。



しかしながら、これをもって、タイトル詐欺をした作者の本日の夕食である「大葉のピリ辛明太子ピザ」と「かぼちゃのポタージュ」「海藻とタコのマリネサラダ」「アッサム・ストレートティ」を、1つずつ紹介していくことで「ある詐欺師、今日の晩餐」というオチをつけるのでは、いささか面白味に欠ける。


仕方がない。


話も長くなり、面倒でもあるのだが、最後に「明輝丸」のその後を紹介していこう。


「明輝丸」は、アメリカ南北戦争時の封鎖突破船で、イギリスのストックトンで建造され、1862年1月24日に進水した大型の鉄製スクリュー推進蒸気船である。


最初の名を「ハバマ号」といい、1864年12月にトーマス・ブレーク・グラバーより、紀ノ国藩が購入した際に、「明輝丸」と名を変えた。


代価は当時の金額で13万8500ドルであったが、支払いは延々とのばされ、いろはに丸と衝突した時点でも、かなりの額の未払いが残っていたと言われている。


そうして、衝突事件後も「明輝丸」は、紀ノ国藩御用船として使用された。


記録によると、鳥羽・伏見の戦いの会津敗残兵を東方に運ぶために使われるなどしたのち、民用へと下げ渡される形で、所有が紀ノ国屋萬蔵らに移り、神戸-横浜連絡船として運用されたりしたようだ。


1868年にイギリス商会に売却され、日本国内の航路において運用される。


その後に日本国郵便蒸気船社に所有が移り、最後の所有者である郵便汽船王菱会社の所有となったころ、時は1884年となっていた。


郵便汽船王菱会社は、王菱財閥のグループ会社である。


そうなのだ。


「明輝丸」の最後の所有者は、・岩﨑菱太郎なのである。


誕生した時は、最新の鉄製スクリュー推進蒸気船であったこの船も、22歳を超え、かなりの老齢となっていた。


この頃の「明輝丸」は、蒸気船として航行するには、もはや船体が耐えきれぬ状態であったため、帆船として魔改造されて運用されていたという記録が残っている。


そうして、廃船寸前ではあるが、これでもかと酷使される「明輝丸」の、最後の航海は、横浜から長崎へ向かって航行する道筋。


順調に紀伊水道に入ることが出来れば、讃岐・箱の岬沖を通るあの航路だ。


1884年10月21日。


それは、三浦半島東岸金田村沖であった。


目の前にあらわれた船は、共同運輸社の運航する「山城丸」。


「明輝丸」が、讃岐・箱の岬沖にたどり着くことはなかった。


三浦半島沖で起こった事件は、「いろはに丸事件」とほぼ同様である。


「明輝丸」は、「山城丸」と衝突し、破船することとなった。


「いろはに丸」と衝突した時同様、この時も「明輝丸」は、航路を守り正しく運航していたらしい。


今回は、あの時と違い、事故検分の裁定で、この「明輝丸」の正しさが認められた。


「いろはに丸」と衝突したのが、1867年4月24日であるからして、17年ぶりの勝利である。


といっても、廃船の運命ではあるが・・・。


この事故で山城丸側から、菱太郎の王菱に当時の金額で賠償金2万円が支払われた。


そう、あの「明輝丸」は、2度目の衝突事故によって、激動の幕末時代劇から退場することとなったのだ。



*****



私は、運命といったものをそれほど信じてはいない。


しかし、「いろはに丸事件」の賠償金は、菱太郎の王菱財閥の元手となり、亀太郎の梅山社中の残骸が、王菱社の中核となる。


そして、「山城丸衝突事件」においては、このまま廃船となるはずの「明輝丸」が、菱太郎に多くはないながらも賠償金をもたらした。


結果を見ると、これらに何か繋がり・・・定めといったものを感してしまう。


いろはに丸事件・・・。


この事件の主役は、紀ノ国藩でもなく、五代才助でもなく、国島八左衛門でもない。


もちろん、才谷亀太郎でも軍鶏鍋料理でもなかった。


岩﨑菱太郎こそが、主役。


全ては、彼が現在に続く王菱財閥を作り上げるために、神によって用意されたシナリオである。


誰かに、このように告げられた時、思わずうなずいてしまいそうになる自分がいることを否定することはできない。


あぁ、歴史とは、誠に奇異なもの・・・不可思議であり、じつに面白い。

長い長い蛇足も、たぶんこれで終わります。


3週間で話を考えて書けと言われたら、これが限界だなぁと思いながら、最後の方の文章を書いていましたが、3か月いただいても、結局は、同じ水準の話しか書けないかも・・・と今は思っています。


プロットもなにもあったものではなく、忙しすぎて何も書くことができていない中、1か月ほど楽になったので、久しぶりにログインしたら、9月21日から秋の歴史企画が始まる・・・何を書こう?と、走りながら考えて書くような状態でしたので、話の矛盾や年代の間違いなどあるかもしれませんが、ご容赦いただければと思います。


また、作中において一部の団体や人物の名前を変えてあります。


これは、心の中で大切なものとなっている可能性がある偉人の悪口と感じられるであろうお話を長々と書かせていただいているため、そのイメージが崩れるのを少しでも軽減できたらという意図です。


引っかかりを感じて、読みにくく感じるかもしれませんが、どうぞお許しください。


それでは、お付き合いいただいた皆様、本当にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ