第12話『明輝丸』は、海の藻屑に 前編 -蛇足其の5の1-
慶応4年(1868)正月のことである。
彼は、土佐藩の参政・後藤象印郎に、やっかいな仕事を丸投げされたことにぶつぶつと不満をつぶやきながら、長崎の街を歩いていた。
男の名は、岩﨑菱太郎。
彼は、土佐国安芸郡井ノ口村に生まれ、元々の身分は、地下浪人(じげ-ろうにん)であった。
地下浪人という言葉を知るには、土佐藩の成り立ちを知らなければならない。
この藩は、関ヶ原の後、掛川12万石の山内一豊が、褒賞として家康より与えられた土佐国21万石に入封することによってはじまった。
この時できた特殊な身分制度が、上士(上級武士)と下士(下級武士)である。
基本的には、掛川からやって来た者が身分が上・・・上士(上級武士)であり、土佐の者たち・・・長宗我部旧家臣や土着の豪族・国人層が、下士(下級武士)である。
もちろん、有能であれば、長宗我部旧臣であっても、最初から上士として召抱えられる事例は、存在している。
また、長宗我部遺臣と掛川系家臣の間で、差別的な差があったように思われがちであるが、掛川系に属する板垣退助と長宗我部系の後藤象印郎は竹馬の友であり、大きな理解を示していたと言われていることから、これが贔屓をせず下士と良く交わると言われた板垣退助の個人的な資質からくるものでなければ、士分においては、身分や地位の差以上の大きな差別はなかったと思われる。
岩崎の家の話である。
岩崎家は、後に信玄輩出する鎌倉時代の甲斐武田家・武田信光を祖に持ち、土佐に流れて長宗我部氏に仕えた。
とすると、先に登場した板垣退助は、武田家臣・板垣信方の子孫であるからして、家臣の板垣家(乾家)が上級武士で、甲斐武田の岩崎家が下級武士という逆転現象が起きている。
おもしろいものだ。
それはさておき、岩崎家の祖先は、長宗我部滅亡後、しばらくは山野に隠れ国人として暮らすも、江戸中期に下級武士として、山内氏に仕えることとなる。
土佐の下士は、その下級武士内でも階級の序列があり、白札郷士>郷士>用人>徒士>足軽>組外>庄屋>それ以下の者と分けられることとなるが、この時の岩崎家の身分は、下級武士の中でも上位にあたる郷士であったらしい。
しかしながら、ひとつの事象が、岩崎家の命運を変える。
天明の大飢饉である。
天明2年(1782)から天明8年(1788)にかけて東北を中心に日本中を苦しめたこの飢饉は、江戸四大飢饉の1つにも数えられ、近世においては、日本最大の飢饉であった。
この時の将軍は、8代目・・・紀ノ国藩出身の吉宗である。
菱太郎は、紀ノ国藩の「明輝丸」が当り屋被害を受けた「いろはに丸事件」に大きく関りを持つ。
もしかすると、岩崎家と紀ノ国藩の奇縁は、この時から始まっていたのかもしれない。
それはともかくとして、この飢饉は、土佐にも影響を及ぼし、藩内でも一揆が発生、混乱におちいることとなった。
郷士ながら、小さな畑を持って生計をたていた岩崎家も、その影響を避けられず、菱太郎の曾祖父の代の頃、生活の困窮から、身分を名乗ることができる資格・・・郷士株を売却することとなる。
この身分資格を売却した下級武士こそ、地下浪人であった。
菱太郎の曾祖父は、士分の格式・・・つまりは、岩崎という苗字や、腰に刀をさす帯刀は許されるものの、無禄無役となり、半農として生活してゆくこととなったのである。
とはいっても、旧長宗我部家遺臣は、一領具足と呼ばれる半農半兵の系譜を引く者が多く、田畑を耕しながら武士として使える者は多い上、土佐山内家は、新田の開発などを行うたびに多くの者が下士として取り立てられており、半農生活は、さほど珍しいものではない。
菱太郎は、地下浪人ながら才覚のあふれる有望な若者として、周囲より期待をされていた。
そうして、安政元年(1854)、奥宮慥斎の従者として江戸へ行き、親戚の岩崎馬之助が筆頭塾生を務める朱子学・昌平坂学問所・安積艮斎の見山塾に入塾することとなる。
この艮斎に学んだ門人には、吉田松陰、高杉晋作、小栗忠順、清河八郎などがおり、菱太郎も含め、著名な塾生だけでも200人を超えると言われている。
さて、安政2年(1855)のことである。
土佐に戻った菱太郎は、事実を曲げた裁判の結果に「官は賄賂をもってなり、獄は愛憎によって決す」と奉行所の壁に大書きしたため投獄されることになる。
どうであろう?
裁判の結果を不満に思い、権力者である奉行所を公然と批判する精神をもった菱太郎である。
才谷亀太郎が、事実を捻じ曲げた「いろはに丸」の事件の裁定について、どのような気持ちを抱いたか・・・非常に興味深いものがある。
それはさておき、塞翁が馬とはよく言ったものである。
菱太郎は、獄中において土佐商人と同房になった。
ここで、算術や商法の基本を学んだことが、後に大きな意味を持つこととなる。
出獄後、彼は、吉田東洋が開いていた少林塾に入塾し、その甥の後藤象印郎らの知遇を得ることとなった。
この後藤象印郎が、しばらくのちに土佐藩の政治トップである参政に任ぜられるのだから歴史とは面白い。
菱太郎は、東洋の少林塾で激動の幕末に土佐藩の中枢を握る人物たちと面識を持ち、深く関わりを持ったのだ。
しかし、それはしばらく後の世に影響してくる話だ。
先に少林塾の吉田東洋が、土佐藩の参政となる。
菱太郎は、これに仕え、土佐藩関係者として長崎に派遣されることとなった。
しかし、長崎の花街丸山において遊蕩し、藩の資金を使い込んだため、罷免されてしまう。
このころ、菱太郎は、借金をして郷士株を買い戻し、下士の身分を取り戻したと言われている。
そうして土佐に戻り郷士の身分を得たものの、罷免されたため無官となっており、前とほとんど変わらない半農半士としての生活であった。
この生活をひっくり返したのが、吉田東洋の甥である後藤象印郎だ。
土佐藩は当時、後藤らによって設けられた土佐藩御用商会・開成館を窓口に、死の商人グラバーらと取引をしていた。
後藤は、少林塾の縁をもって、開成館・長崎商会の主任に菱太郎を任じたのだ。
もちろん、獄中において学んだ算術や商法の知識が、塾で交友を持った後藤の目にとまったからである。
開成館・長崎商会における菱太郎には、有名な話がある。
ある時、長崎商会は、外国資本の新興商会と、銃や船舶と、樟脳の交換取引を行うこととなった。
ところが、市場価格変動がおき、樟脳価格が急上昇、土佐藩側に契約不履行が生じた。
この時、菱太郎が土佐藩の窓口となり、問題の決着をはかろうと努めたが、結局、明治政府成立後まで解決に至らなかったというものである。
この話が有名な理由は、取引相手の商会にある。
安政5年(1859)7月に、横浜・長崎で開店した商会がその相手なのだが、この会社、現在も名前を変えて、ドイツ・ハンブルクに本社を置く商社として存在する。
現存する在日外資系企業として最古。
その上、外資系でありながら日本の横浜・長崎で創業されたという日本人にとって非常に特別な感情を抱きやすい企業であるのだ。
さて、話が横道に逸れ過ぎたが、開成館・長崎商会の主任時代の岩﨑菱太郎に降りかかったもうひとつの大きな事件が、あの「いろはに丸事件」である。
積んでもいなかった銃や金塊など荷の金額計算しろ。
沈んだ船の価格を3倍以上に釣り上げて金額計算しろ。
このような無理難題を、才谷亀太郎や後藤象印郎に押し付けられることとなったのは、前述のとおり。
菱太郎が、どうにかこうにか無理難題をこなし、後藤より示談が成立したと聞いたのが、慶応4年(1868)正月であった。
しかし、彼は、その席で、後藤から新たな無理難題を押し付けられることとなったのであった。
長くなったので、前編後編に分けました。
明日13日の9時に後編の投稿を予定しています。
14日になったら、ごめんなさい。




