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第11話 伊予千洲藩 国島八左衛門の自刃 後編 -蛇足其の4の2-

さて、前話の続きになる。


八左衛門は、前話で五代才助と亀太郎を仲介役に、在長崎ポルトガル領事のジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロから、小型蒸気船を購入することに成功した。


しかしながら、賢明なる読者の皆様なら、もうお気づきであろう。


小型蒸気船の購入に競合相手は、居なかった。


ポルトガル領事に支払われた金額も40000メキシコ・パダカ(10000両)ではなく、24000メキシコ・パダカ。


そう、最初に提示された6000両であった。


すなわち差額の4000両は、亀太郎と五代の懐に入ったのである。


まぁしかし、大切なことは、八左衛門が蒸気船を手に入れたことだ。


その船名を「イロハマンス号」という。


スコットランドのグリーノックで造られた、全長47メートル、幅5.2メートル、深さ3メートル、積載量209トン余の小型蒸気船で、最初につけられた船名は、「アヴィゾ号」であったが、所有権と命名権を得たロウレイロによって名前を付け変えられていたのだ。


当然、今回の取引を経て、所有権と命名権は、千洲藩、つまりは八左衛門側に移る。


「イロハマンス号」とよく似た音をとって「いろはに丸」。


安易ではあるが、悪い名前とは言えないのではないか。


この時代のセンスなど似たりよったりである。


薩摩藩だって「アヴィゾ号」を手に入れた時は、似た音をとって「安行丸」としているのだから。


それよりも、ここで問題となるのは、八左衛門らが、蒸気船を操るすべを持たないことだ。


結果、「いろはに丸」は、八左衛門と井上ら千洲藩士の帰藩の際に、亀太郎を隊長とする梅山社中の隊員が操船乗員として乗り組んで同年9月に千洲・長浜に回航さることとなった。


この回航に際しては、「いろはに丸」が千洲藩の許可のもとに購入されたものでなかったため、薩摩藩所属の船として、島津家の紋所をかかげて航海することとなったことを付記しておこう。


帰藩した八左衛門と井上は、家老・大橋播磨と加藤玄蕃に蒸気船の購入を報告する。


この詳細については、ほとんど記録が残っていないため、多くが想像となってしまうことをお許し願いたい。


話を続けよう。


いろいろと問題があったであろうと思われるものの、わずかな記録をたどると、いろはに丸は、千洲・長浜の江湖港に数日間碇泊の後、長崎に向かって出航していることが分かる。


そうして、同年11月の千洲・長浜帰港時には、千洲藩の船として加藤家の紋所を掲げて千洲藩の所有船として入港している。


このことから、八左衛門は、独断での蒸気船購入の件について、藩当局からは、なんとか一応の了解が得られたのではないか。


そう考えてよいと思われる。


記録をたどることを続けよう。


翌12月に千洲藩は、いろはに丸について、千洲藩回漕業商・対馬屋定兵衛が購入した船で、その運行目的は、千洲藩士が乗り組んで航海訓練及び交易にあたるものである。という届けを幕府に提出していることが分かる。


しかしながら「いろはに丸」に乗り組んでいた乗員は、千洲藩士よりも、亀太郎以下、梅山社中の隊員の方が多かった。


千洲藩に蒸気船操船と運用のノウハウがなかったことも一因であるが、もう一つ大きかったのは、下関海峡の封鎖である。


当時、馬関と呼ばれていた下関では、荷を積んだ蒸気船の通行制限がおこなわれていた。


これによって、蒸気船による荷物運搬の価格操作が行われていたのだ。


封鎖をしていたのは、長州藩。


この藩が、許可する蒸気船のみがそこを通ることができた。


すなわち、八左衛門が蒸気船を購入した6月には、荷を積んだ蒸気船の通行制限はすでに行われていたのだ。


同年の1月18日から21日にかけて、薩長同盟が成立している。


もちろん、これにかかわりの深い亀太郎と五代才助は、これらの事情をよく知っている。


亀太郎は、自身が自由にできる蒸気船が欲しかったのだ。


最初から梅山社中でこれを借り受け、自ら商売しようとしていたのである。


しかし、これでは、金を出した千洲藩が「いろはに丸」を自ら動かして、交易をすることが出来ない。


10000両をドブに捨てたとまでは言わないが、八左衛門にとって、想定外の事態である。


「この責任は、藩に無断で蒸気船を買った八左衛門にある。」


家老・大橋播磨と加藤玄蕃がそう責めたことは、想像に難くない。


八左衛門は、長崎に向かい、この下関海峡の封鎖による蒸気船の通行制限を解消しようと努力したであろうと思われるが、そう上手くいくものではない。



同年12月24日夜から25日にかけて・・・場所は、長崎の宿。


彼は、腹を十文字に切り胸を刺した。


古来からの切腹の作法である。


そうして、仰向けに倒れて血まみれとなった八左衛門を井上が介錯した。


「いろはに丸」が沈む約4か月前のこと・・・国島八左衛門、38歳の若さであった。



最後に「いろはに丸終始顛末」より、その後を辿ってみよう。


国島氏ノ自裁ニ就テハ

遺書モナク誰モ事情ヲ知ル者ハナカツタガ

既ニ一ヶ月余モ徒シク碇泊シタルモ

実ハ金融上カラ出船ノ運ビニナラズ

幾回モ出船ノ延引ヲ重子タ末

年末ノ廿五日ト発表ニハナツタモノゝ

氏ガ責任ヲ負フテ居ラレタトノコトデアル


氏ハ前航海カラ長崎ニ滞在シテ居ラレテ

此航海ニモ乗船ハセラレヌ筈デ

井上将策氏ト共ニ下宿ノ二階ニ一間隔ニ就寝中

廿五日ノ鶏明

将策々々トノ声ガ井上氏ノ寝耳ニ入テ

驚キ覚テ国鳥氏ノ室ニ入ツタ時ハ

仰向ニナツテ鮮血淋漓タル手ニ短刀ヲ振リツゝ

煩悶シテ居ラレタトノコトデアル


事件ハ最モ秘密ニシテ

二階ノ上リ口ニ番人ヲ附シテ千洲人ト雖ドモ

特別関係者ノ外ハ出入ヲ拒絶シテアッタ


然ルニ如何ニシテ知ツタカ

才谷亀太郎ト五代才助両氏ガ来ツテ

才谷氏ハ国島氏ノ死体ヲ検シ

胸下ノ刀痕ヲ己ガ指頭ヲ以テ探リナドシテ


武士タルモノガ己ノ所存ガ成立ネバ

死ヌルノ外ハナイ

嗚呼一知己ヲ失ツタト


嘆息シテ辞シ去ツタ



死骸ハ其侭白金巾デ包ミ

絹蒲団ノ侭箱ニ納メ

石灰詰ニシテ

国島八左衛門小銃入ト

箱ノ表ニ記シテ


伊呂波似丸ノ甲板ニ運ンダ


小銃購入トシテ長崎ニ出張シテ蒸気船ヲ買入

夫ガ為ニ斃レテ

己ガ小銃トナツテ帰ラレルトハ


如何ナル因縁ゾヤ


尤、関係者ノ外ハ船中誰一人

其実ヲ知ツタ者ハナカッタ故ニ

其侭小銃トシテ

翌年正月二日ニ千洲ニ送ラレタ



この記録によると、八左衛門の死後、どこから訃報を聞きつけたか知らぬが、才谷亀太郎と五代才助がやって来たらしい。


千洲藩人であっても、特別な関係者しか入ることのできない死の床に、この2人は、入り込むことが出来たようだ。


その時の亀太郎の言葉が、こうであった。


「武士たるものが、己の所存を達成できぬならば、死ぬよりほかはない。ああ、一人の知人を失うてしもうた。惜しいことよのう。」


指で八左衛門の遺体の傷に触れ、それを見分しながら、ため息をついたと書かれている。


井上は怒り、亀太郎と五代才助を斬ろうとしたが、これを斬れば、薩摩・土佐・長州を敵に回すことになる。


しかしながら、普通に考えて小藩である伊予千洲・加藤家が、この後に維新を成す4雄藩のうちの3藩連合の圧力に耐えられるわけがないのは、自明のことである。


仲間たちに押しとどめられ、涙をのんだといわれる。


国島八左衛門の亡骸は、白金巾で包まれて布団のまま、木箱におさめられる。


そうして、石灰づめとされて、極秘で千洲に送られることとなった。


偽装のため、彼の亡骸をおさめた木箱の表書きには、「国島八左衛門・小銃入」と書かれることとなる。


小銃購入を理由として、長崎に赴き、亀太郎と五代に騙されて蒸気船「いろはに丸」を買入れ、それが原因で切腹する。


そうして、自らの遺骸を入れた木箱は、「小銃」と荷表記されて、正月に大洲に送られる。


これを運ぶ船は、亀太郎らの操船する「いろはに丸」。




 如何ナル因縁ゾヤ




「いろは丸終始顛末」に書かれた最後の1文こそが、伊予千洲藩・国島八左衛門の悲劇を、見事にあらしていると言えるであろう。

なんとか後編を書き上げることが出来て良かったです。

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