第10話 伊予千洲藩 国島八左衛門の自刃 前編 -蛇足其の4の1-
八左衛門は激怒した。
伊予千洲藩のような小藩が、後発で小銃を少し揃えたところで、相手に敵うわけがない。
軍事強化に先発し、西洋化した雄藩が攻め込んできたならば、直ぐに白旗を挙げてしまうか、斬り合いの白兵戦に持ち込み少しでも不利のない形での講和を目指す方が現実的である。
それをたった10000両余りの金で最新式の洋式銃を購入して来いとは・・・。
怒りをこらえながら体温を測ってみると、いつもの体温より0.3度ほど高い。
平静を失っていることが自身でも確認できる。
「ひっひっふぅひっひっふぅ」
荻野流の砲術の達人である国島八左衛門は、その特徴的な呼吸法で、心を整えるのであった。
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国島八左衛門は、伊予千洲藩加藤家の家臣だ。
愛媛県の南予地方に位置する千洲藩は、秀吉の家臣・加藤光泰を祖とする藩で、当時、千洲に入部した初代貞泰から数えて13代目・加藤泰秋の代。
この藩主加藤泰秋が、武田敬孝・森井千代之進・井上将策らより建白を受ける。
「西洋新式銃器で、藩の軍装備を一新すべきである。」
加藤家には好学の気風があり、自己錬成を藩風としている。
そして、藩主泰秋もその例外ではなかった。
この建白を入れ、軍装備の一新を命じたのだ。
家老・大橋播磨と加藤玄蕃は、藩の特産品である蝋や和紙の売買で得た、なけなしとまではいかぬが貴重な金子10000両ほどを用意し、八左衛門に命じた。
「長崎に向い、新式銃器を購入せよ。」
八左衛門は、心極流・正木流・荻野流の火砲術を修め、その達人として藩内に知られていた。
しかし、これは、火縄銃に毛が生えた和流砲術であり、たとえば、荻野流より出でた長崎の高島秋帆の高島流砲術のように西洋新式銃に対応できるようなものではない。
当時の最新式の西洋銃といえば、ミニエー銃であるが、この相場が銃1つにつき約100~150両。
125両として計算した時、大橋と加藤が用意した10000両では、わずか80ほどのミニエー銃が購入できるだけである。
実際のところ、ミニエー銃は出現当時としては桁外れに強力な銃であった。
ゲベールとも呼ばれる旧式マスケット洋式小銃では、精度を保って人を殺傷できる有効射程は、50~100ヤード・・・だいたい90メートルほどだ。
ところが、ミニエー銃は300ヤード・・・約270メートルもの有効射程をもち、精度はともかく殺傷なら可能な最大射程は1000ヤードにもなるのだ。
正確に当てることのできる距離が、100メートルと300メートルでは、どちらが戦闘で優位に立てるかなど考える余地もない。
実際、第2次長州征伐において、幕府が敗北した大きな要因が、長州のそろえた大量のミニエー銃であったことは有名である。
なるほど、うく某ライナが、西側に長距離射程の砲を求めるのも、うなずける。
しかしながら、八左衛門の技術や知識は、火縄銃に毛が生えた和流砲術に由来する。
わずか80ばかりの銃で、戦況を変えることができるなど、想像もできない。
たった10000両余りの金で最新式の洋式銃を購入して来いとは・・・。
長崎に向かう船の上で、そう憤るばかりであったのである。
さて、長崎に八左衛門の乗った船が着いたのは、慶応2年(1866)6月のはじめであった。
長崎の郊外にあった診療所の「鳴滝塾」には、オランダ人医師シーボルト最後の弟子で、のちにシーボルトの孫娘・高子と結婚した三瀬諸淵が在籍していた。
長崎についた八左衛門は、まず千洲藩と縁の深いこの三瀬より情報を得ようと接触する。
「それは、銃よりも汽船が良うございませぬか?」
三瀬の答えは、八左衛門の予想をはるかに超えたものであった。
しかしながら、言われてみたならば、もっともなことである。
細々と、千洲特産品である蝋や和紙を売っても、それほど利益が出るわけではない。
しかし、汽船を使えば、物を右から左に動かすだけで、その100倍200倍もの利益を得ることができるのだ。
金子さえできれば、新式銃器もより多く購入できる。
同行した数人の同志と相談はしたものの、八左衛門は、ほぼ独断で蒸気船購入の道を探り始めることとなった。
余談ではあるが、八左衛門の相談相手となった三瀬諸淵は、貴重な資料を千洲市に残しており、現在も千洲市立博物館においてそれを見ることができる。
それは、シーボルト筆の処方箋。
コレラなどの急性胃腸炎や胃酸過多症などに対する薬の処方が書かれシーボルト直筆の署名が記される。
全国でも長崎と千洲にしか残されていないもので、シーボルトが実際に日本人患者を診察した証拠ともなる幕末医学の重要資料だ。
(※実際には千洲市という名前ではありません。才谷亀太郎の名前同様、千洲という名は、お話の便宜上使っているものですのでご理解ください。)
まぁ、この三瀬諸淵もそうであるし、藩主加藤泰秋も、明治維新後に山草研究学者として、早池峰山でカトウハコベ(この名は加藤に由来する)という高山植物を発見しており、千洲藩・加藤家には好学の気風があり、研究者として自身の判断でその責任において行動す傾向がある。
この藩風を私は美点であると感じさせられてしまうが、八左衛門が、自己判断で蒸気船購入の道を探り始めてしまったことは、のちに問題を発生させてしまうこととなった。
さて、蒸気船を探し始めた八左衛門であったが、そう簡単に見つかるものではない。
シーボルトは、オランダ商館の医師として来日しており、三瀬諸淵の縁を使ってオランダの商会をあたるも、船はあれど、予算内に収まる丁度良いものがないのだ。
そんな折であった。
八左衛門は、情報収集の一環として同行していた井上将策と一緒に向かった花街丸山において、旧知のある人物に声をかけられる。
その名は、才谷亀太郎。
八左衛門が前に会った時は、彼は、土佐の脱藩浪人であった。
余談が多いことを申し訳なく思うが、またも余談である。
前述の千洲市立博物館には、吉村虎太郎の手紙が残っている。
吉村は、才谷亀太郎や中岡慎太郎同様、土佐の脱藩浪人だ。
手紙は、文久2(1862)年3月6日付。
脱藩する際、千洲・長浜の冨屋金兵衛へ宛てたもので、内容は、土佐藩を脱藩した宮地宜蔵や沢村惣之丞の両名が冨屋邸を訪ねた場合の取り計らいを頼み、自分は遅れて到着する旨を伝えるものであった。
この冨屋金兵衛邸、実は、才谷亀太郎が脱藩した際も、宿泊したとされており、吉村虎太郎の手紙は、千洲・長浜が土佐藩の志士たちが脱藩する際のルートであったとする証拠とされている。
そう、井上将策や八左衛門は、冨屋金兵衛邸にて、亀太郎と盃を交したことがあったのである。
「まことにございますか?その小型蒸気船の話は?」
なんということであろう。
亀太郎の知人に、蒸気船を手に入れる心当たりが1つあると言うではないか。
しかも、小型というのが良かった。
大型の蒸気船と違って、価格6000両ほどの安値で手に入れることが出来るという。
彼の予算内に収まるのだ。
才谷の仲介を得て、とんとんと話が進んでいく。
まずは、薩摩藩の御納戸奉公格、商事面を担っている五代才助を紹介された。
というのも、小型蒸気船が元々薩摩の所有であったからである。
売却を経て、現在の所有者は、在長崎ポルトガル領事のジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロ。
そうして、五代が親切にもその交渉役を買って出てくれ、あと購入に必要なのは、書面へのサインだけとなった6月21日のことであった。
才谷亀太郎が、苦しそうな表情をして八左衛門らの前に現れた。
「すまぬ。競合相手があらわれた。」
なんと、名は明かせぬが、この蒸気船を購入したいという藩や外国商人があらわれたというのだ。
24000メキシコ・パダカが、60000メキシコ・パダカに・・・つまり、6000両ほどであった価格は、15000両まで吊り上がってしまったとのこと。
「しかし、我が藩が出せるのは、10000両しか・・・。」
悔しそうに、顔をゆがめる八左衛門。
「分かった。わしが土佐から出た時に助けてくれた八左衛門殿との仲じゃ。なんとかして見せる。いましばらく待っちょくれ。」
亀太郎は、そのまま引き帰して行く。
そうして、6月22日の朝であった。
血走った目をした亀太郎が、八左衛門らの宿に飛び込んできた。
「金子は、今日用意できるか?」
部屋に駆けこむなり、そう言い放った亀太郎の話は、こうであった。
五代才助と亀太郎が、ロウレイロに掛け合った結果、今から30分以内のお電話であればもう1つ健康黄緑色青汁を・・・いや、違う。
本日中に契約書にサインし、金子を引き渡すことができるならば、40000メキシコ・パダカ・・・約10000両の価格で購入できるよう談判してきたというのだ。
八左衛門は、義理堅い土佐人の友情に感激した。
持つべきものは、友である。
その場に出された契約書に署名し、用意してあった10000両の金子を五代才助に引き渡したのであった。
たぶん長すぎる話になるので、前編・後編に分けることにしました。明日9日の9時に後編を投稿出来たら・・・と思っています。投稿が遅れて10日になったらごめんなさい。




