人魚王子は泡にならねば 僕は裏切りの王女に恋をする
猫屋ちゃきさん主催の #片想い男子企画 参加作品です。
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『人魚』
人魚がどんな魔物なのかはあらためて言及するまでもないだろう。
海の王国の民は嫌になるほど知っている。彼らは巧みな話術と美しい歌で人間を惑わし、深海に引き摺り込む。食べるのでもなく、積極的に殺すのではなく、恋した人間を暗い海底に引き込んで、その命が絶えるのをうっとりと眺めるのだ。
人を惑わし、もがく人間の最後の歌を聴きながら、彼らはうっすらと微笑む……。
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◆
「ねえ、リト。人魚って本当に恐ろしい魔物だと思う?海の底に人間を引き摺り込むような」
海の王国と呼ばれる小さな国の、王城……と呼ぶにはいささか控えめな「屋敷」で、海の王国の末姫、ニーナは年若い執事の回答に可愛らしく口を尖らせた。
「どうして俺に聞くんです、姫様」
「だって。リトは漁師の息子なんでしょう?人魚を身近でよく見たと言っていたじゃない」
「姫様だって見たことあるでしょう、人魚くらい。飽きるほど」
「私は遠くから何度かみただけよ!よくは知らないわ」
楢の木でつくられた上品な椅子に腰掛け、侍女に髪を結われている。
豊かな金色の髪に薔薇色の頬、珊瑚の唇。青い瞳。
ニーナ姫はこの小さな国に置いたままにしておくのは惜しいほど、今日も可愛らしい。
「ええ、たしかに人魚はよく見ましたけど。彼らは魚と一緒ですよ」
笑いながらリトは言った。リトは三年近く前からこの王宮で執事という役目を仰せつかっている。しかし貴族ではなく至って普通の平民だ。
ニーナ姫の髪を結っているふくよかな中年女性も平民。
人口が三千人に満たないこの小さくて豊かでもないこの国に貴族なんて本当に数えるほどしかいない。
そもそも海の王国が「王国」を名乗っているのがおこがましいほどの規模なのだ。
「人魚は気ままに群れて海を泳いで、たまに、ぱちゃんって水面で撥ねる。人と同じ言葉は喋るし漁師の船の周りに遊びに来て勝手に引っかかっては文句垂れますけどね」
海の王国で人魚を見かけるのはそう珍しいことではない。
何せ三方が海に囲まれた半島、人魚が群れにしろ単独にしろ海を泳ぐ姿はみかける。漁師たちが投じた網に引っ掛かったら、語彙の限りを尽くして人間を罵倒する姿も珍しくない。
漁師はぐちぐちと人魚に文句を返しながらも、彼らを無事に放流するのが慣わしだった。
海の王国が建国した際に人魚の長が海の王国の国王に約束した。
人魚と海の王国の人間はお互いに傷つけない。裏切らない。
その約束を守る限り、人魚は荒波からこの海の王国を守り続けよう、と……。
人魚に危害を加えてはならない。
人魚に友愛を抱いてはならない。
人魚に約束を渡してはならない。
それが海の王国に生きる民が、歩ける年齢になったら親から口喧しく聞かされる常識で掟だった。
それに、彼らは一見温厚で親しげに見えるけれど、つきつめれば海の魔女の眷属。
魔物なのだから害すれば海の魔女の怒りを買うのだ、と。だから人魚と人間は遠くから互いを眺め、すれ違ったら挨拶を交わすだけの存在でなくてはならない。
リトは続けた。
「人魚が魚と違いは……、人魚は歌がすばらしく達者なことと――食ったらだめってことですかね」
「食べたりしないわよ!人魚の上半身は人間だもの。そんなおそろしいことはできないわ」
「あはは、そうですね」
「私も小さいころに、何度か人魚を間近で見たことがあるの。よくは覚えていないけれど。彼も、それは素晴らしい歌を歌っていたけれど……今思うと、やっぱり怖いわ」
「……どうしてです?」
「呪いの歌で人間をうっとりさせて、海底に引きずり込むというもの」
「風評被害ですね。人魚が聞いたら怒りますよ。――漁師が酔っ払って落ちた先に、人魚がいただけだっていうのに。で、どうしてそんな話を?人魚に会いたいんですか?」
「殿下が……、アイザック殿下がね。人魚に興味があるっていうの。どこで「観る」ことができるのかって」
リトは眉を顰めた。
「人魚を探してどうするんです?」
リトの問いにニーナはきゅ、と唇を噛む。
「殿下は人魚の能力に興味がお有りなの。人形の歌には不思議な力があるでしょう?だから殿下の国では人魚の心臓を食べれば人間の病がたちまちに癒えるって言い伝えがあるんですって……」
「ははあ、観光客にありがちな妄言だな。……単なる迷信です、って言ってやんなさい」
「だけど、人魚の歌を聞くと皆、幸せな心地になるわ」
「だけど、人魚が傷を癒せるってことはないでしょう?歌を聞いて心が落ち着くだけです」
「……本当に、人魚に不思議な能力はそれだけなのかしら。……不思議な生き物よね」
「そうですねえ……そういえば、人魚と言えばこんな話があります」
リトは言いながら姫様に茶を注いだ。
むかし……、と言葉を続ける。
「海の王国の王女様に恋をした人魚がいたそうです」
「あら、素敵。おとぎ話?」
「ええ。皆忘れてしまったおとぎ話です。姫様の名前を……ニーナ姫としましょう」
「ふふ、いい名前だわ」
「ニーナ姫と人魚の王子様は幼馴染で、小さなころからひっそりと会ってはおしゃべりを楽しんでいました。二人は大きくなって海辺で愛を語る仲になりました。ニーナ姫は王子の歌声をたいそう好いていました。人魚の歌には治癒の効果があって、大変良い心地になりますからね。ニーナ姫は『あなたとずっと一緒に居たい』と王子様に願いました。自分と添い遂げるために人間になってください、とニーナ姫は言ったんです」
「それで?」
リトは声を潜めた。
「人魚は姫の言葉を信じて、恋に浮かされて魔女にお願いすることにしました。――僕を人間にしてください、姫と夫婦になるためなら、何でもさしあげます、と。二人して魔女に頼みに行ったんです」
月のない夜。
海底からじわじわとクラゲのようにぷかりと浮き出てきた魔女は幼い恋人たちを見るとニヤつきながら言った。
『人魚の美しい歌声と見事な鱗がほしかったんだ。ちょうどね』
と。
それからついでに『姫君の恋心をよこせ』と追加した。
『あんた達には真実の愛があるんだろ?だったら!――今ある恋心をとりあげてもまた恋におちるだろう?さあ、どうする?』
魔女は二人から捧げものを奪い、かわりに人魚の青年に足を授けた。二人が再び恋に落ちなければ、青年は泡となって海に消える呪いを付け足して。
「青年は魔女のおかげで、無事に人間になることができました」
「それで?二人はどうなったの?」
ニーナが目を輝かせて続きをせがんだが、リトは首を振った。
「おとぎ話はそこでおしまいです、姫様。青年は人間になれました。めでたし、めでたし」
「そんなのちっともめでたくないわ!――二人が幸せになったのか、それとも青年は泡になって……、悲恋に終わったの?結末がわからない物語なんか、少しも面白くない!」
リトは苦笑した。
「彼がどうなるか本当に誰も知らないんです。――続きを仕入れたらまたお話しますよ」
姫はふぅん、と気のない返事をしてティーカップに口をつけて、水面にうつる己と目を合わせた。
「どうしたんです姫様。自分に見惚れて」
「そう、見惚れているのよ!私は可愛いわ」
自信満々に言い切ってからリトと侍女を見る潤んだ瞳で見た。同意が欲しいと懇願しながら繰り返す。
「ねえ、そうでしょう?」
リトと侍女は顔を見合わせて「その通りですね」と微笑んだ。
「姫は海の王国の誰よりもかわいくていらっしゃいますとも。きっと大陸の中でもとびっきりですよ」
「その可愛いお顔で王子様に会いに行くんでしょう?きっとめろめろですね」
侍女とリトが誉めそやすとニーナはふふ、と笑って立ち上がり平民二人に優雅にお辞儀をしてみせた。
「そう!きっと殿下も喜んでくださるわ。リト、またあとでね。――夜になったらハープを演奏してね、リト」
「はい」
リトは執事だがニーナ姫に重宝されているのには理由がある。
裕福な家の娘だった祖母から習ったと彼は自称していうのだが、ハープの名手なのだ。眠りが浅い姫や王妃に請われてその腕を披露する。
「リトが歌えたらいいのに。そうしたら私もお母様も、もっとぐっすり眠れるわ」
「無理ですよ」
リトは肩を竦めた。
彼の声は常に少し掠れている。話す分には支障はないが火事で喉を痛めたとかで大声を張り上げたり、歌を歌うこともできない。
「昔はそりゃあ美声だったんですけどね」
「聞いてみたかったな、リトの歌」
「海で歌う人魚の誰より俺が上手かったですよ。きっと心を奪われて海に落ちちゃいますね、姫も」
「あら怖い!」
ニーナはくるりと回ってスカートを翻してみせると足取りも軽く部屋を出ていった。
リトは頭を下げて少女を見送る。
――姫が消えたのを見計らって、執事は老いた侍女に話しかけた。
「姫様は今から王子様に会うって?」
「そう、アイザック殿下とお茶会の予定さ。美男美女でお似合いだけど……」
リトの問いに侍女は言葉を濁す。
半年ほど前、大陸の中央にある「剣の王国」の第三王子殿下が気晴らしに、とこの小さな王国にやってきた。
海の王国は半島とはいえ陸地から他国へ行くには険しい山を越えねばならない。船で海上から行くのが常だった。
線の細い印象はあるものの黒い髪と灰色の瞳をした都会の匂いがする美丈夫は、この小さな海の王国の話題の中心になった。そして、ニーナ姫の心の中心にも。
二人はたちまち恋仲になってアイザック殿下は王国に今もとどまっている。
「お二人はうまくいくのかしら」
侍女の声が期待と心配と半分半分に揺れる。
無理もない。
剣の王国は大国で大きな国だが、とかく……国の名前が示す通りに国民は血気盛んで血生臭い。血族間でも争いが絶えず、よく言えば明るく、悪くいえば世間知らずでのんびりとしたニーナにその国の王族としての責務が務まるかは国王でさえ危ぶんでいる。
それにアイザック殿下はニーナに甘い言葉を囁くけれど正式な婚姻の約束すらしていないのだ。
「姫様は、無事に剣の王国に嫁ぐことが出来るのかしら」
「どうだろうね。人間の心はうつろいやすいから……」
やがて、中庭から姫の鈴を転がすような笑い声が聞こえたのでリトと侍女は並んで窓辺に立つと中庭を無言で窺う。
美しい一組の恋人たちが腕を組み楽しそうに中庭を散歩している。
おとぎ話のような幸せな光景に、リトはため息をついて、そっと窓辺を離れた。
◆
アイザック殿下からニーナ姫への内々の婚約の申込があったのは、一月後のことだった。
半年後にニーナ姫は剣の王国に嫁ぐ。
たいした持参金も用意できない、と国王は娘に舞い込んだ不釣り合いな縁談に喜びながらも蒼褪めたらしいが、アイザック殿下は一笑に付したらしい。
(私は三男ですし持参金などは不要です。ニーナ姫が私のもとに来ていただければそれでいいのです)
(アイザック殿下)
ニーナ姫はアイザック殿下の言葉にいたく感激し、海のような青い瞳を潤ませて愛しい男を見上げたと言う。
彼女の表情をリトは容易に想像することができた。
「アイザック殿下は欲のないお方だなあ。持参金がいらないなんて」
休みの日には農夫として汗を流している筋骨隆々の、しかし純朴な顔立ちの騎士団長は、アイザック殿下にたいそう感心したが、その隣で貴族の壮年の男性――繰り返すが海の王国に貴族など数えるほどしかいない――ようするに彼は王族でニーナ姫の叔父だ――宰相閣下だけが苦々しい顔をした。
リトが二人から離れて、その場を去ったふりをして柱の陰に身を隠すと宰相閣下は声のトーンを落として続けた。
「欲がない、というが……本当だろうか?アイザック殿下は……姫の嫁入り道具に人魚を所望されたのだぞ……!一匹さらって剣の王国に献上してほしいと」
「に、人魚を?どうして……」
「剣の王国は内陸部で海がないから、人魚が珍しいらしい。剣の王国の国王へ献上して王宮に用意した水槽で歌わせるのだと言っていた」
「そんな事のために……?いや、しかし……そんなことをしたら魔女の怒りが……」
「やめてくれ、魔女なんかいるもんか!おとぎ話に過ぎない!」
宰相閣下は声を荒げて……それから肩を落とした。
「魔女は、私はいないとは思うが……しかし、国民は魔女の存在を信じている。人魚をさらったと知られたら……おきて破りだと私たちを責めるに違いない。それに、人魚たちは群れ成して怒るだろう。沖に出る船に穴を開けられて船を沈められるかもしれない」
「あたりまえだ!そんな申し出、断ればいいじゃないか!」
悲鳴に似た声を騎士団長はあげた。
「それができればどんなにいいか!できないから困っているのだろう」
宰相閣下は叫んでから、肩を落とす。
「人魚が献上できないならば、持参金で構わないとアイザック殿下は言ってきた」
「では、それで……」
「国家予算の半額にも当たる持参金をか?――払えるわけがないんだよ」
騎士団長は目に見えて狼狽えた。
これが大国同士の後継の婚姻ならば法外な価格ともいえまい。
だがアイザックは所詮は三男でニーナ姫は海の王国の末姫。出鱈目な金額に国王も宰相も息を呑んだという。
「ずいぶん無体なことをいう!じゃあ、この婚姻は無理だ。ニーナ姫には可哀そうだが諦めてもらうしか……」
「それも言った!」
「ニーナ姫は何と?」
宰相閣下は首を振った。
「アイザック殿下とニーナは真実の愛で結ばれているのだと。運命だと!引き裂かれるのなら死ぬというんだ」
「そんな……では、やはり人魚を捕まえるのか……大変だろう」
宰相閣下は人の悪い顔で騎士団長を見つめる。
「何を他人事のように言っている?――人魚を捉えるのはお前だよ。団長」
「ええっ?」
「そのための腕力だろう?――嫁入り前までに人魚を!お前と部下で秘密裏にとらえてこい!……任せたからな」
騎士団長は震えあがって、のけぞり、その場で尻餅をついた。
……リトはそっと二人の側から離れた。
夜になったので、言いつけられたとおりに姫の部屋にハープを持って赴く。姫の部屋からは楽しそうな男女の声が聞こえてきた。ニーナとアイザックだ。
リトがノックすると老いた侍女が扉を開けてくれた。
ニーナは微笑んでリトを迎えると「静かな曲をお願いね」と短く命じた。リトは余計なことを言わずに用意された椅子に座ってハープを弾く。リトが現れても家具か何かのように気にしないアイザック殿下は珍しくリトの演奏に聴き入って目を細めた。
「彼はいつもながら見事な腕だ。剣の王国の楽師にだって劣りはしない」
「ありがとう、殿下」
アイザックの褒め言葉にニーナが礼を言う。恋人たちは楽しげに肩をよせあった。
「不思議でしょう?リトは漁師の子なのにハープが上手いの。子供の頃から祖母に習っていたのですって。ええと、祖母の名前は……思い出せないわ。変ね。何だったかしら。でも、本当に上手なんです」
「海の王国には音楽に長けた者が多いのかな。……人魚の国だから」
「ふふ、そうかも。殿下は人魚の歌を聞いたことがある?」
「ありません。一度、近くで彼らをみたい、そばで歌を聞きたいと思っているのだが」
「私はあるわ。とても綺麗で……まるで夢の中にいるような心地になるの……」
リトのかき鳴らす音に目を細めながらニーナはつぶやいた。独り言のように。
「それは素晴らしい。私は芸術方面はからきし駄目で。――特に、歌はひどいものだとよく家族にも笑われたよ」
ニーナはくすくすと笑った。
「殿方に歌の上手さなんて、必要ないですわ。あの歌をどこで聞いたのだったかしら。思い出せないのだけれど……」
リトの曲が一曲終わるとアイザックは部屋を辞した。ニーナだけになった部屋の中でリトはふと演奏を止めた。不思議そうに首を傾げたニーナに、リトは微笑んでたずねた。
「ニーナ姫。殿下は人魚を欲しがっているとか。姫の持参金の代わりに」
「リト!それをどこで知ったの!?」
口元に手を当てたニーナ姫にリトは片目を瞑ってみせた。
「おしゃべりな叔父上にご注意を」
「宰相ったら!」
「ご安心ください、誰にも言いませんから。……それで本当に人魚を?」
ニーナは気まずそうに視線をさ迷わせた。
「アイザック殿下が……人魚を、欲しいというのよ」
リトは綺麗に整えられた爪で弦を弾く。
ポロん、と音が溢れる。
弾いたのは整えられた優美な爪。まるで王侯貴族のようなそれは、王国の漁師たちとはまるで違う。
力仕事を主にする彼らの爪は子供の頃から楕円にたくましく潰れて汚れている。リトは漁師の子だというのに、爪が美しいままだ。
だがニーナはそのことを一度も不思議に思わなかった。
だって知らないのだ。温室で育てられた彼女は漁師がどんな生活をするかなんて、ちっとも興味がないし、知りえない。
「人魚を歌わせるんですか?剣の国の王宮で」
「……いいえ」
「では、なぜ?」
ニーナはハープの音にぼうっとしながらぽろりと秘密をばらした。
「……国王陛下のお具合が悪いのですって。だから、アイザック殿下は……、人魚の心臓を捧げようと思っていらっしゃるの……」
リトはハープをかき鳴らした。音に呼応して二人の影がゆらゆらと揺れる。
「……人魚を殺すんですか?姫。海の王国の掟に背くことになりますよ」
かつて海の王国が建国した時に人魚の長が海の王国の国王に約束した。
人と人魚は海の王国において、お互いに傷つけない。裏切らない。
その約束を守る限り、人魚は荒波からこの海の王国を守り続けよう、と……。
海の王国と人魚の約束は有名な話だ。
ニーナは首を振った。
「……一匹だけだわ!それに、これは愛のためよ」
「……愛」
「ええ!アイザック殿下が父君に人魚の心臓を捧げたら、剣の王国で殿下は今よりいい地位をいただけるのですって」
地位とわずかな非難をこめて繰り返したリトにニーナは思わず声を荒げた。
「それに、リト、あなただって言ったわ」
「僕?」
「人魚は魚と一緒だって!そうでしょう?……病気で苦しんでいる国王陛下に、魚を一匹捧げることの、何がいけないの?」
言ってしまってから、ニーナはハッとして口を噤む。
掟を破るのは決して褒められたことではない。人魚と人間の約束を破るのは王族としては失格だ。伝承を信じていない国民でも、眉を顰めるだろう。
青ざめたニーナに向かってリトは微笑んだ。
「私は……悪くないわ……しかたない、のよ……リト……」
無言でハープの弦を爪弾く。悲しげな音色に誘われて、ニーナの瞼は急激に重くなってしまった。
「おやすみ、ニーナ。いい夢を」
ソファに倒れ込んだニーナを見つめて、リトは音もなく立ち上がる。
部屋にかざられた燭台の蝋燭がいっせいに消えた。
◆
王宮の中庭を抜け古びた裏門をくぐり夜道を迷うことなく足早に歩いていく。
夜、暗闇、月もない夜。黒い道。
――迷うことなく海近くの崖にたどり着いたリトは、笑いながらその場でうずくまると海面に向かって叫んだ。
「――真実の愛だって!!運命!!あっはは!おかしいや!」
不完全な笑い声を波の音が打ち消していく。
ニーナ、ニーナ、美しいニーナ。
金色の髪に海の色の目をした無邪気な王女。
今ならリトにだってわかる。王女の純粋さは浅はかさの裏返し。
耳に優しい愛の言葉は、責任を知らぬ愚かな少女が物語に書かれた台詞を心地よく紡いでみただけの薄っぺらさ。
かつて恋人だったリトには、わかる。
いつだってニーナ姫は恋に恋をしている。今もアイザックに恋なんかしていない。大陸の大きな国、剣の王国の王子様に恋される自分に恋をする自分に酔っているだけ。
だってリトにだって同じことを言ったのだ。
――人魚のリトにだって。
(これは真実の愛よ。私たちの出会いは運命だわ)
(あなたとの仲を引き裂かれるのならば死ぬ)
(あなたの歌が大好き!大好きよ、リト)
――愛しているのよ、リト、リト。大好きよ私の恋人。
かつて囁かれた言葉の数々を思い出して腹を抱えて笑う。
「あはは!誰にもでも同じことを言うんだな!あのアバズレ!」
慣れない言葉で罵倒して大声で笑ったつもりが、傷ついたのどからはひゅうひゅうと無様な笑い声が漏れただけだった。
掠れてお世辞にも美しいとは言えない声。昔の声とはまるで違う。
リトとニーナが出会ったのはニーナが十歳になった頃だった。
船遊びをして海に落ちたニーナを、リトは仲間の制止を振り切り助けて海辺に届けてやった。ニーナはリトに感謝して度々海辺に来てはリトを探すようになり……、リトを見つけて手を振るようになり、数年かけて距離を詰めてやがてこっそりと会うようになった。
リトは彼女の髪に触れるのが好きだった。太陽を集めたような金色の髪。髪の毛に触れてキスをすると、彼女はくすぐったそうに身をよじった。
彼女が望むままにリトは歌い、語り、彼女が望むままに人間になることを決意して……新月の夜に魔女に願った。
海底の魔女よ。僕たちの願いを叶えて。
僕を人間にしてくださいと。
魔女がリトの歌声を欲しがるのは想定内だった。
けれどニーナの恋心を、リトへの恋心と恋をした記憶まで欲しがるのは想定外だった。再会したリトが王女に正体を明かすことを魔女が禁じたのも、だ。
(私が恋心と記憶を失っても構わないじゃない。貴方と再会すればきっとすぐにあなたに恋をするわ)
再会して三年たっても王女がリトと恋に落ちなければリトは泡になって消える、と言われても少しも恐ろしくはなかった。リトが真実を告げることを禁じられても構わないと思った。
ニーナがリトに気づかないなんて、そんなことありえないと思ったからだ。
二人はキスをして別れて。
――リトは魔女の魔法で城の役人を洗脳して執事として王宮で働くことになり、再会したニーナ姫はリトを見て花のような笑顔で微笑んだ。
期待したリトに向かって、ニーナは朗らかに命じた。
(――貴方がリトね!はじめまして。ハープが上手なんですって?どうか私のために弾いてちょうだい)
半年たっても彼女はリトを思い出さず。
一年たっても二人は主従のままで。
二年たって、ニーナ姫は恋心の宛先を別の男にかえた。
三年を迎えようとする今……、彼女は遠くへ嫁ぐという。
考えればすぐにわかることだ。
例え一度恋に落ちた相手でも同じことが再現されるわけではない。
恋なんて所詮は偶然と偶然の間で発生するものだ。奇跡に二度目はない。
そして何より、ニーナはリトを愛してなんかいなかった。
物語で読んだように人外の相手に恋に落ちる姫君になりたかっただけだ。
だから平民の、ただハープを弾くのが上手いだけの執事にニーナは何の興味も示さなかった。
一年前はニーナをひどく恨んだ。全てを捨ててそばに来たのに、己を裏切るのか!と。だが時が経つに連れ、次第に冷静になっていく。
ニーナは何も悪くない。夢みがちな姫に記憶はない。
何も知らないのだ。
それに、人魚でなくなった自分に何が残ったというのだ。
甘やかされ蝶よ花よと育てられた娘を拐って逃げる度胸ももない。養えるほどの財も器量もない。
単に、リトが考えなしの馬鹿だっただけだ。
愚かなことをした。
愚かな選択をした。
愚かな恋を…………。
次の満月にリトは消える。
ニーナは親しくしていた執事が死んで多少は悲しむだろうがそれだけだろう。
だが、それは仕方ない。しかし……
「人魚を捕らえて殺すだなんて」
リトの愚かな恋のせいで、罪のない同胞がアイザックに捕えられて心臓を抉られる。考えただけで悍ましい。
悲嘆に暮れているリトの耳に楽しげな声が飛び込んできた。
べちゃべちゃと海水が岩に落ちる音と共に彼女は現れた。
「ほら見たことか。きっとこうなると思っていたよ。リト!」
「……魔女……」
のろのろと顔を上げれば、海藻でできた黒いドレスと分厚いフードに身を包んだ年齢不詳の女が荒れ狂う海を背にして笑っている。白目部分のないどろりと黒い魚の目が楽しげに細められた。
彼女はキラキラと光る美しい人魚の鱗で飾られた腕で……リトが渡した鱗だ……リトを指差した。
「そんなに嘆き悲しんでどうしたんだい、ねえ?真実の愛を誓った王女は、オマエに何と言った?……なんでも、隣の国の王子に嫁ぐそうじゃないか!いい男だものねえ」
「……っ……何しにきたんだ」
「おお怖い、怖い。そんな目で睨んでもダメだよぉ、リト。私はあんたに人間の足をあげたじゃない?もっと感謝なさい」
「僕から歌を奪っただろう!鱗もやっただろう……!ニーナの恋心だって、あんたは取ったじゃないか」
「正式な取引だよ」
正論を言われて、ぐ、と推し黙る。
魔女の言う通りだ。
「あんたは足を手に入れて、人間になって、どうなった?……平民じゃあ王女には愛されないよねえ、それは王子様に行くよねえ。お姫様だもの!……あっさり裏切られて。ふはっ、馬鹿だこと」
「……僕の愚かさが、そんなに楽しいかよ」
「もちろんだとも!恋に浮かれた恋人たちの愚かな夢が破れる瞬間ほど、見ていて楽しものはないよ!いい暇つぶしになったよ!あー、たのし」
リトはしばらく沈黙していたが、カラカラと笑う魔女のドレスの裾を掴んだ。
「魔女、頼む。お願いだ。僕を人魚に戻してくれ。満月までで構わない。尾鰭を返してくれ」
「はあ?冗談じゃない。私は歌声もきらきら光る鱗も気に入っているんだ。返さないよ。……あんたはつまらない人間としてこの国で暮らすんだよ、次の満月に泡となって消えるまで」
「だけど、仲間に伝えなきゃいけないんだ!アイザックが人魚を捕らえたがっているんだ」
リトは切々と魔女に訴え、魔女はリトの悲痛な打ち明け話をきくと、ますます楽しそうに笑った。
「人魚の心臓に、そんな効能は果たしてあったかねえ、人間ってのはつくづく欲深い」
「頼む。お願いだ!!仲間が殺されてしまう」
「……馬鹿だねえ、リト。お前はもう人魚には戻れない。そもそも、そんなに簡単戻せるものではないんだよ」
「じゃあ、あんたが人魚たちに伝えてくれ、危険だからしばらく人間に近づくなと」
リトが人になってから仲間がリトの前に姿を現すことはなかった。遠目で気づいても、リトが近づくと逃げてしまう。
「やなこった!……と言いたいところだけど」
魔女は黒い目を動かして微笑むと懐から透明な刃を取り出した。ガラスの様に透明なそれは月のない夜でもうっすらと淡い光を放っている。
「余所者に私の縄張りを荒らされるのはごめんだからね。返してやってもいいよ。あんたをが死なないようにしてもいい。だけど対価をもらうよ」
「……何を望むんだ、魔女。僕はもうあんたと取引できるものを、何も持っていない」
嫌な予感にのけぞると、魔女はケタケタと歯を鳴らした。
それからリトの耳元にそっと囁く。リトは蒼褪めた。
「愚かな恋物語には、悲しい結末が必要だろう?……掟破りを罰するんだよ、リト。悪いことじゃあ、まったくない。その刃で心臓をひとつきだ!……人魚の平穏はずっと保たれ、姫さまも幸せに暮らしました。――めでたし、めでたし」
「……そんなこと、できるわけが……」
首を振ったリトの額を魔女は軽くこづいた。
「じゃあ、王女を殺しな。そうしたらアイザックは私が殺して追い払ってあげるから」
「……そんな」
戸惑うリトの首筋に、魔女は刃を突きつけた。
「王女の胸を刺して殺すか、あんたが自分で心臓に刃を突き立てるか。好きな結末を選ぶといい。どっちになっても、笑ってあげる。次の満月までに選べないんならあんたは泡になって消える。同胞も死ぬ。無駄死にだ。別に、それでもいいけど、愚か者と罪のない同胞、どちらが大切なのさ」
「……それは」
「どんな結末にしろ、お話にはエンドマークをつけなくっちゃ。喜劇でも悲劇でも観客にとってはそれで、めでたし、めでたし……、だ!」
魔女は節をつけて歌いながら去る。リトはじっと刃を見つめた。
◆
海の王国の騎士団長はひどく疲弊していた。
人魚を秘密裏に捕えろと命じられた直後からなぜか一斉に海の王国の周辺から人魚が消えたからだ。いつもは船の側を囲んで泳ぎ、漁師たちと世間話に興じる若い群れもこの数日姿を現さない。
「ま、魔女に悪しき企みがバレたのではないか。やはり、掟に背くようなことは……」
「馬鹿を言うな!魔女などいるものか!おまえは国からいくらもらっているんだ。とっとと捕まえてこい!」
宰相に震えながら報告すると彼は馬鹿馬鹿しいと切って捨てた。
魔女など存在しない、人魚をさっさと捕まえてこいと繰り返すばかり。困りきった騎士団長が、宰相が無理ならばニーナ姫を説得しようかと彼女の部屋の前をうろついていると部屋からは何やら楽しげな声が聞こえてきた。アイザックにニーナ。それから……、誰だっただろう。妙に印象の薄い青年が姫たちと談笑している。何度も見たことが青年のはずなのになぜか、彼の人となりを思い出せない。
「じゃあ、リトも船遊びに行きましょう」
「僕もですか?」
「ええ、天気もいいし、舟遊びはきっと楽しいわ。甲板で楽器を演奏してちょうだい。そうしたら、人魚も観にくるかも!」
そうだ「リトだ」と団長は思い出した。
三年前にふらりとあらわれて……誰の紹介だったかもう思い出せないが……いきなり、ニーナ姫付きの執事になった青年。漁師の息子のくせに楽師並みに楽器の演奏が得意な妙な青年。
「人魚は最近、陸の近くに姿を現さないとか?」
アイザック殿下が声にほんの少しだけ苛立ちをにじませた。その声に団長は震えあがる。人魚一匹捉えられない自分を責められた気がしたからだ。アイザックの不機嫌には気づかなかったらしい執事の青年は微笑んだ。
「この季節、人魚はすこしだけ北西に遠出をするんです。陸地は熱いから。海流に乗って涼みに行くんです。漁師たちの船が行くような沖へ行けば若い群れに会えるかと思いますよ――殿下が望むならご案内しましょうか?」
「それがいいわ。リトが案内してくれるなら安心ね。あなたは人魚にくわしいもの」
「はい、そうですね。ねえ団長」
「……えっ……」
それから、いつの間に気付いたのか、青年が振り返って、その妙に穏やかな目が団長をとらえた。
「少し遠出をしても大丈夫ですか、団長さん。お二人のために、護衛で来てくれますよね?」
三人の視線が集中するので、団長は慌てて頷いた。人魚の群れがある場所を知っているのならばついていかない理由がない。団長は二つ返事で応じた。
人魚の群れがリトの案内する先にいるのならば、なんでもいいから理由をつけて、一匹捉えなければならない。
「もちろんだとも」
これでようやくなんとかなる、と団長はほっと胸をなでおろした。
◆
舟遊びの日はよく晴れていた。漁に使うあまり大きくはない船にアイザックとニーナ、それから幾人かの護衛とリトを乗せてゆっくりと進んでいく。
リトは目を細めて夏の日差しを反射する波間を見た。ぴちゃんと何かが撥ねる。人魚が来たかと覗きこめば、背後から硬質な声がする。
「人魚はいるのか」
剣の王国、大国の王子は硬い声で尋ねた。
「――アイザック殿下は、本当に人魚に興味があるんですね?どうしてです?」
リトが話かけると、王子は鼻に皺を寄せた。――大国の貴族然としたこの若者は平民から声をかけられるのを好まない。美しいニーナや宰相には礼儀正しいが、平民たちにはあからさまに素っ気ない態度をとる。リトの質問にも不快を隠しもせずに答えた。
「剣の王国にはいない珍しい魔物だ。持ち帰って国王陛下に献上したい――さぞや、お慶びになるだろう」
「人魚に危害を加えるのは掟破りだ」
「海の王国の人間にはそうだろう。私には関係がない」
「群れから離れた人魚を憐れには思わないのですか?」
「――魔物に同情など、するつもりなはない」
二人の会話に気付いたらしいニーナが視界の端でおろおろとしている。リトは自分よりも背が高く、貴族らしく美しい男に尋ねた。
「――人魚に病をいやす力などありませんよ。それでも心臓を抉ると?」
「リトっ!」
ニーナが咎めるような声を出したが、リトは口を閉ざさずに尋ねた。
「人魚が出来るのは歌って誰かの心を癒す事だけだ。――それに群れをはぐれた人魚は長く生きてはいけません。それでも人魚を捕らえると?」
アイザックは鼻で笑った。
「人魚の心臓を喰らったところで病が癒えることはない、か」
「ええ」
アイザックはリトの肩を小突いた。よろけたリトをせせら笑う。
「だからなんだと?病が癒えようが癒えまいが知った事ではない。私の贈り物を国王陛下が喜べばそれでいい」
「……人魚の命はどうなるんです。彼らにも痛みがあるのです」
リトの言葉にアイザックは肩を竦めた。
「命?魔物の命を気にせよ、と?しょせん知能の低い半分魚の事ではないか!気に掛ける価値すらない!」
リトは周囲を見渡した。護衛も皆、反論がない。
アイザックの言う通り彼らにとっては人魚など貴族の我儘で殺されてもどうでもいい存在なのだろう。
リトは笑った。海の上で弾けと持ってこられたハープを手に取る。ヘリに腰かけてリトは弦をつま弾いた。ぽろん、と小さいはずの音がやけに大きく響く。甲板にいた人間たちは思わず耳を塞いだ。ビュウ、と大きな風が吹く。
忽ちに大きな雲が青い空を覆い始めた。
「――ニーナ」
姫の名前を呼び捨てると彼女はびくりと肩を震わせた。
「姫も止めては下さらないんですか?あなたの婚約者は意味のない殺戮をしようとしているけれど、――それには目を瞑ると?」
ニーナは唇をわななかせたが、震える手をたくましいアイザックの肩に添えた。
「し、仕方ないわ――アイザック殿下がそうおっしゃるんだもの。仕方ないわ。仕方ないのよ。愛のためだもの!それにたった一匹だもの!」
そうですねと、リトは笑う。笑いながら弦をつま弾いた。およそひとつの楽器から出たとは思えないほどの不協和音が鳴らされて、それに呼応するように空から稲光が響いた。
「あ、雨?どうして急に」
「波がっ……」
急に揺れ出した船で人々がざわめく中、リトは笑った。まっすぐにニーナを見る。
「いつかのおとぎ話の終わりを教えてあげるよ、ニーナ姫。――昔、人間の女の子に恋をした人魚がいました。恋に落ちた二人は浅はかな夢を見て、王子は人間になりました。記憶を失った姫は人魚を二度とは愛さずに……愚かな人魚はひとり絶望しました。――そして今、自分を愛してくれない王女を殺してしまおうと思っている」
稲光。
「キャああっ!」
さきほどまでの快晴が嘘のように空も波も荒れ始め、近くの船への落雷にニーナは悲鳴を上げた。ビュウビュウとまるで人のうめき声のように聞こえる風に人々も悲鳴をあげる。いた、うめき声のような、ではない。人の声だ。何人も、何十人も船を取り囲んで怨嗟の歌を歌っている。水面かいくつも顔を出した人が――いいや、人魚が船を取り囲んで歌っているのだった。
――裏切者。
――沈めなきゃ。
――こちらへおいで。
「に、人魚っ!!」
団長が大波で揺れる甲板を転がりながら悲鳴をあげた。護衛の騎士達もそれにならう。
アイザックも急な横揺れにバランスを崩して強か体を打ち付けられる。
「やめて!やめて!」
「……海の王国の掟だ。人間は人魚を害してはならない。それなのに王族のニーナ姫がそれを許すなんて、ありえない」
リトだけが静かに人間たちを見ていた。打ち付けた雨に濡れて、魔女からもらった足は美しい鱗に覆われた尾ひれに戻っている。
アイザックとニーナが「人魚!」と悲鳴をあげた
横殴りの雨の中リトが弦をかき鳴らすと、それに合わせて楽し気に人魚たちも合唱した。
――おいで、おいで。人の子ら。
――海の中は静かで平和。
――すぐに楽になるよ。
ひとりの騎士がふらふらと飛び込みそうになるのを慌てて団長がとめる。団長はのどをからして叫んだ。
「許してくれ!許してくれ!――二度と掟を破ったりはしない!人魚を傷つけたりしない!誰も剣の王国に渡したりしない!許してくれっ!!」
落雷。
人々は再び悲鳴をあげた。
阿鼻叫喚の甲板の上で、リトはアイザックの腕の中でガタガタと震えるニーナを指さした。嵐の中だというのに彼の声はよく響く。いつものかすれた声ではなく、人魚は耳を澄ませて心を預けたくなるような、美しい声をしていた。
「アイザック殿下。僕はあまり欲深くはないのです。あなたが人魚を諦めて、あなたの腕の中にいる美しい姫をお詫びに我らに下されば、僕は海に帰って全部を忘れます。あなたをここで殺したりもしない。団長たちにも恨みはない……どうします?」
ニーナが震える。その震える姫の細い肩をぎゅっと抱きしめて、姫が安堵の息を漏らした次の瞬間、アイザックは彼女の両肩を掴むと、力いっぱい人魚の方向へ突き飛ばした。
「好きにしろ!魔物め!――こんな片田舎の王国で死んでたまるかっ!」
「きゃあ!あ、アイザック殿下」
アイザックの言葉が信じられないというようにずぶぬれになったニーナが恋人の名を呼ぶ。剣の王国の王子は駆けだして来ようとしたニーナを、剣を抜いて威嚇しながら叫んだ。
「近づくなっ!さっさとそこの魔物と海へ飛び込んでしまえっ!君が死ねばここにいる皆が助かるのだ、王族ならその義務を果たせっ!」
「……アイザック……」
呆然と呟くニーナの背後で、リトが悲しく笑った。
「ねえ、ニーナ。これが君の言った愛だよ。そしてこれが人魚の恋のおとぎ話の結末だ。どこにも……人魚と姫との間にも、美しい王子と王女の間にも、愛はありませんでした。何も」
「……リト……」
涙に濡れたニーナの青い目が大きく見開かれる。
その大きな目が好きだったな、とリトは思う。
視界の端で――隙を見せたリトを切り殺す好機だと思ったのだろう――アイザックが大きく剣を振りかぶる。
「死ね!魔物っ!」
「やめ、やめ……てっ!やめてっ!」
ニーナの叫び声と、人魚が海面で歌う声。それからどこかで魔女が高笑いをする声。全部が合わさった時、再び空一面が明るく光る。
――曇天を貫く、雷光――!
つんざくような叫び声が聞こえて、船の帆柱に――いいや、アイザックの振りかぶった剣に大きな光が落ちる。
大波に船が大きく揺れ、続いて人々の叫び声が聞こえて一瞬後には、すべてが静かになった。
◆
「姫、ニーナ姫」
「――う……うぅん……」
ニーナが目を開けると、灰色の優し気な目が覗き込んでいた。アイザック。剣の王国の第三王子。美しくて貴族然としたニーナ自慢の婚約者だ。彼は心配そうに微笑むとニーナの半身を起こす手伝いをした。
いつの間にか気絶して、自室で眠ってしまったらしい。ニーナは記憶を辿って……。飛び起きると、悲鳴を上げた。
先ほどまでの悪夢を思い出したからだ。
「に、人魚は……っ!リト……!」
「どうしたのです?」
不思議そうにアイザックが首を傾げる。
ニーナは絶句した。だってさっきまでニーナは甲板にいて、人魚たちに囲まれて恐ろしい目に遭っていたのだ。そして何よりも恐ろしかったのは、アイザックが。この優しいアイザックがニーナを簡単に裏切ろうとしたことだった。
「ふ、舟遊びを……わ、私たち」
「ああ、天気も悪かったし姫の具合も悪かったし、切り上げて戻ってきたのです。姫が急に倒れたので驚きましたよ。舟遊びも人魚も、また次の機会にしましょう」
何でもないことのように言ってアイザックは微笑んだ。さきほどのような酷薄な表情はどこにもない。ニーナは息をついた。
結婚が不安で、それであんな夢を見たのだと理解する。
「――こ、怖い夢を見たんです。殿下」
「どんな夢です?」
「……い、いえ何でも……だけどその、人魚に会えず残念でした。申し訳ありません、殿下。人魚が見つからなければ、国王陛下はさぞやがっかりされるでしょう」
アイザックは首を振った。
「それなら、もういいのです。――実はこの王宮に人魚が紛れ込んでいたことが分かったので。リトと言うあの青年。――人間に姿を変えて、ニーナ姫の命を狙っていました」
びくり、とニーナは震えた。リト。……リト。覚えている。
夢の中で、美しい恐ろしい声で歌った人魚。彼が……。やはり先ほどのことは現実だったのか、いや、ここでアイザックが穏やかにしているからには夢なのか。
「……リトは、どうなったんですか?」
おそるおそる顔をあげると、アイザックは楽し気に言った。
「捕らえて心臓を抉りました。きっと国王陛下も喜ぶ――体は剥製にして王宮に飾りましょう。私たちの新居に」
ひゅっと息を呑んだニーナの髪に、そっとアイザックが触れた。
金色の髪にキスをする。――この仕草は誰のものだっただろう。思い出しそうだけれど、思い出してはいけない。思い出したらきっと……。
「そん、な。お、おそろしいことを……心臓を……え、抉るなんて……リトの……」
「あなたが気に病む理由なんて、何一つないんだ、ニーナ。――人魚は魚と一緒なんだから。あなたもそう言っていたじゃないか」
言葉を失ったニーナの額にアイザックが口づけると美しい声で言った。
安心させるように静かな声で言葉を重ねる。この人はこんな風に優しく笑う人だっただろうか。そしてこんな美しい声をしている人だっただろうか。いいや、深く考えてはいけない。何も考えてはいけない。この人は剣の王国の王子様でニーナが嫁ぐ人だ。それだけ、確かならばいいのだ……。
まどろみで、思考が溶けていく――。やさしい声が降り注いだ。
「熱のせいで、恐ろしい夢を見たんだね?――子守唄を歌ってあげるから、安心して眠るといい」
どこか懐かしい歌声を聴きながら、ニーナはゆっくりと目を閉じた。
◆
昔。海の王国に恋に落ちた人魚と姫がいました。
魔女との取引で姫は人魚を忘れ、彼女はやがて人間の、剣の王国の王子様に恋をしました。
――絶望した人魚は姫を逆恨みして姫を襲い、あえなく返り討ちにされて心臓を抉られて死んでしまいました。姫は可哀そうな人魚のために涙を流し王子様は人魚のために歌をおくりました。剣の王国に戻った二人は短い間夫婦になりましたが、ある日、姫の行方が知れなくなりました。一説には突然大声をあげて海の飛び込んだとのうわさもありました。残された王子は姫を思って悲しみにくれたと言います。遺された王子様は以後、二度と海に出ることも人魚に興味を持つこともありませんでした。
……この話は、なんのへんてつもない、つまらないおとぎ話のひとつとして海の王国に伝わっています。
悲劇でも。喜劇でも。
――おとぎ話に終わりがあれば、観客は満足してそれでいいのです。
◆
リハビリかねて、久々の投稿でした。滑り込みすいませんっ。
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