後
二〇二二年、八月二十日。XX県崇暗山の旅館にて、旅館の従業員と宿泊客を含む三体の死体が発見された。死体の内訳は、旅館の女将である神宮はるひ、当時旅館に宿泊していたと思われる大学生の姫川奈々、そして身元不明の白骨化死体。また、付近の崖下にて、姫川と同じ大学に通っていた柏木真が落下死していたのが発見された。
旅館内にいた人間のうち唯一の生存者が、姫川と柏木と共に旅館に来ていた上野紗良だった。生存者と言っても、上野は神宮、姫川の両名とともに、首を何か紐状のもので締め付けられた跡が残っており、その影響か発見されて三日間は意識を失っていた。また、上野本人は崇暗旅館を訪れてからの記憶がないと供述している。
旅館に残された宿泊者名簿には、同日に宿泊していたと思わしき御崎心という人物の名前が記されており、警察は事件との関与を疑ったが、いくら情報を洗い出しても、この人物がどこの誰なのか、突き止める事は出来なかった。白骨化死体が御崎心だとすると人数の辻褄だけは合うが、人間の死体は数日程度で白骨化しない。
時効にはまだ遠いため、一応捜査は続いていることになっているが、このまま真相は暴かれることはないのだろう、というのが大方の見方である。
しかし、そんな事で僕の好奇心は止まらない。
霊験あらたかな山奥で起こった、犯人不明の殺人事件。オカルト好きにとって、これほど興味をそそられる出来事は滅多にない。
僕はあの手をこの手を使い、唯一の生存者である上野紗良の連絡先をなんとかして手に入れ、しかも取材の約束まで取り付けてみせた。
取材を行う上で、上野紗良は一つ条件を出した。それは、取材を崇暗旅館にて行う事。
普通の旅館であれば、あのような凄惨な事件が起これば閉鎖されるものだが、崇暗旅館は今でも営業を続けている。事件当時の女将であった神宮はるひの親戚が、その営業を引き継いだとのことだ。事件以来、崇暗旅館はオカルト好きたちの間でたちまち現代日本屈指のスピリチュアルスポットとして話題になり、SNSでは年中誰かが崇暗旅館を訪れたという報告を投稿している。
取材交渉を行う中で、上野紗良は興味深い事を言っていた。彼女は本当は、事件当時の記憶をなくしていないらしい。元々、事件に至るまでの情報が直に得られれば重畳と考えていたのだが、もし彼女が本当に記憶をなくしていないのなら、最高の情報を手に入れて間違いなく凄い記事を書ける。僕の評価もうなぎ登りだ。
実際に出会った上野紗良は、噂に違わぬ美人だった。寒い時期ではないのに首にマフラーを巻いているが、もしや事件の時の跡が残っているのだろうか。
人気になったとはいえ、連休でもなんでもない、週の真ん中水曜日の崇暗旅館に僕たち以外の客はいなかった。僕たちは夕暮れの旅館の一室で、ちゃぶ台を挟んで座布団に座り向かい合った。
「つまり、警察はあなたの話を信じなかったんですね?」
「ええ。まあ当然の事でしょう。超常の存在である神が事件に介入しただなんて、普通の人なら信じません」
彼女の淹れてくれたお茶を啜りながら、僕は彼女の話を仔細にメモした。
上野紗良の語ったところによると、彼女が姫川に首を絞められ“殺された”のが事件の始まりだったらしい。その後、彼女は長い夢を見ていたそうだが、その中でこの山の神であるアシバリ様と出会った。アシバリ様は彼女に事のあらましを説明した。そして神の慈悲として、純然たる被害者である彼女を生き返らせたのだという。
「私も初めは不思議な夢くらいに思っていたんです。でも、警察の方から説明された状況が、夢の中でアシバリ様が語っていた内容とぴったり辻褄が合って。アシバリ様の言葉は真実なんだって確信したんです」
その後も僕はさらに彼女に質問を投げ続けた。
アシバリ様はどんな姿をしていたのか。
御崎心とは何者だったのか。
彼女はアシバリ様という存在をどう感じたのか。
その一つ一つに、彼女は丁寧に、言葉を惜しまずに答えてくれた。
「あの……口からよだれが垂れていますよ?」
彼女に指摘されて初めて、僕は自分の口が開きっぱなしになっていた事に気付いた。慌てて口を閉じようとしたが、口に全く力が入らず、それどころか感覚がほとんどなくなっていた。
様子がおかしいのは口だけではない。
ペンを握っていた手も、もうほとんど力が入らず、手帳に書かれていたのはもはや文字と呼べるものではなかった。
「あ……あぅ……」
言葉すらロクに発する事が出来ない。僕の身体には明らかに異常が起きていた。
そんな僕の様子を見て、上野紗良はニッコリと笑った。
「そういえば、今日私が取材に応じた理由をまだ教えていませんでしたよね。先ほどお伝えしたように、私はアシバリ様に蘇らせていただいたのです。女将の神宮さんの命を代償として。それで、事件の後からずーっと考えていたんです。アシバリ様に新たな代償を差し出せば、もしかしたら真くんを蘇らせてくれるんじゃないかって」
もはや身体全体に力が入らず、僕は机に突っ伏していた。助けを呼びたいのに、まともに声を出すことすらできない。
「だから私、探していたんです。この崇暗旅館に、人のあまり来れない平日でも来れて、私と二人きりで会ってくれる人を。記者さんと会えて、私本当に嬉しかったんです。この出会いに感謝して、記者さんにお出しするお薬は奮発しちゃったんです。その様子だと、とてもよく効いているみたいですね?」
きっとあのお茶に薬が盛られていたのだろう。
でもまさか、事件の被害者が僕なんかに危害を加えようとするなんて、警戒できるはずがない……!
「ここでなら、アシバリ様も見ていてくれるはずです。アシバリ様、あの時の神宮さんと同じ方法で生け贄を捧げます。どうか、真くんを蘇らせてください……!! 奈々ちゃんと違って、彼は誰も殺そうとはしていないんです……!!」
上野紗良は僕の後ろに回り、隠し持っていたのであろう縄を僕の首に巻きつけた。きっとその美しい顔には、主の奇跡に触れた信仰者そのものの、恍惚の表情が浮かんでいたのだろう。