壱
惨劇が起こったのは、高く上った陽によって山林が熱され、連日のにわか雨で湿気も多く、しかし風と木陰のおかげで過ごしやすい、いかにも夏らしい日のことでした。
私、神宮はるひは、この山の神であらせられるアシバリ様のため金銭を稼ぐべく、旅館の仕事をしています。
アシバリ様は荒縛、悪縛とも書き、世に混乱を齎すものたちに裁きを与えるありがたい神様なのです。
都心からは近くなく、しかし遠すぎもしないここ崇暗山は、アシバリ様について語り継がれてきた神話の舞台であり、興味を持った学生さんや大学教授さんたちがほどほどの頻度で訪ねてきます。そんな方々に寝食を提供し、私の伝え聞いてきたアシバリ様の神話をお話しするのが、私のお仕事でありアシバリ様から与えられた使命なのです。
今日のお客様は全部で四人でした。
まずは東京から来た大学生の男女三人。柏木 真様、上野 紗良様、姫川 奈々(ひめかわ なな)様。
三人は大学で同じサークルに所属するご学友だそうで、旅行と創作の取材を兼ねて崇暗山にいらっしゃったそうです。大学生なので歳の頃は私と同じくらい。同年代の方とお話しできるのはこういう夏休みや春休みのシーズンくらいなので、あんな事にならなければたくさんお話を伺いたかったです。
柏木様は長身の男性で、三人の中で一番アシバリ様のお話に興味津々でした。大学のゼミでも民俗学を学ばれているそうで、私の知らないよその神様を例えに出しながら、他の二人に私の話を解説されてました。アシバリ様は唯一無二の存在なので、他の神様との類似点を挙げながら解説されるのは正直不服でした。
上野様はセミロングの茶髪の女性で、おそらく十人中八人は見かけたら視線を奪われてしまうような、大変な美人さんです。どうやら怖がりのようで、展示している神器にまつわるアシバリ様の恐ろしい伝説をお伝えしたら、目に見えて青ざめていらっしゃいました。美人がああやって分かりやすく私の語りにリアクションしてくださると、それだけで幸せな気持ちになれます。
姫川様は黒髪をツインテールにした女性です。大変暑がりなようで、ノースリーブで胸元を開けてお臍まで出している、女の私でも視線のやりどころに困る服装をされています。上野様とは対照的に、アシバリ様のお話を聞いてもあまり恐怖はされていない様子でしたが、話の山場ではわざとらしく悲鳴を上げて柏木様に身を寄せてました。きっと柏木様の事がお好きなんでしょうね。頑張ってほしいです。柏木様はメモと写真撮影に夢中でしたが。
お客様の最後の一人は、男性とも女性とも分からない、若そうだけれど年齢もよく分からない不思議な雰囲気のお方が一人。お名前は、御崎 心様と名乗っていらっしゃいました。旅館の中や近辺をよく散策されていて、アシバリ様ゆかりの物品をじーっと見つめてました。ただ、私が近づくとすぐどこかに立ち去ってしまわれるので、取材に来た学者さんとかではなさそうです。大抵の学者さんは地元民の私の話も真剣に記録されますからね。
昼間はまるで地上の私たちを焼き尽くそうとしてるかのように太陽が照っていたのですが、夕方になると急に空が厚い雲に覆われ、やがて凄まじい勢いの夕立が降り始めました。この時期ではよくある事ですが、今日のそれは雷すら伴う一段と凄まじいものでした。
そしておそらくその雷によるものなのでしょう、雨が止んだ後外の様子を見に行くと、アシバリ様の領域と外界を結ぶ唯一の橋が崩れ落ちていました。私の祖母が若い頃に作られた、五十年以上も昔の橋です。何年か前に耐久度検査をしていましたが、ついに限界を迎えてしまったのでしょう。お客様が橋の上にいる時に崩れなかったのは不幸中の幸いと言う他ありません。
ただ、外界から閉ざされたままではお客様は帰れませんし、私も買い出しにすら行けません。私の方から警察の方に連絡すると、夏とはいえ今日はもう暗くなり危険なため、緊急事態でないようなら救助が向かうのは明日の朝になる、とのお話をされました。お客様方も、どうせ今日は宿泊予定だったから、と救助が明日になるのを承諾してくださったので、警察の方にその旨をお伝えしました。
ですが、今思えばこの時にはもう惨劇は始まっていたのかもしれません。
夜になり、お客様方にお夕食を提供した後、私は受付横の待機室という名の私室で寛いでいました。たった一人の旅館従業員たるもの、お客様の急なご要望に対応するためにせめて十一時まで寝るわけにはいきませんし、そしてお客様がお目覚めになる前に起きなければなりません。そのため、部屋の外に聞き耳を立てながら、部屋の中で静かにジグソーパズルを組み立てていました。
パズルの四隅のピースが集まってきた頃でしょうか、部屋の外から複数人の足音が聞こえ、そして玄関から外に出る音が聞こえました。私はお客様のご要望には応えなければいけませんが、お客様のプライバシーを侵害するわけにもいきません。そのため、どなたが外に出たのかは確認しませんでした。
しばらくすると、恐らくお一人様だけ、外から帰ってきた音が聞こえました。待っていればもう一人の方も帰ってくるだろうと思っていたのですが、パズルの四辺が繋がっても一向にその気配はありません。
ふと気付くと、時計の針は十一時を回っていました。パズルに夢中になりすぎていた事に気付いた私は、片付けとお風呂の準備を始めたのですが、程なくして受付の呼び出しベルが鳴りました。お客様には対応は十一時までとお伝えしているのですが、それはお客様を無視していい理由にはなりません。ましてや今日は橋が崩落するという事故が起きています。受付に顔を出すと、そこには心配そうな顔をされた柏木様と姫川様がいらっしゃいました。
どうされましたかと私が尋ねたところ、どうやら上野様がどこかに行ったまま戻らないとの事でした。と言っても、私はずっと部屋に篭っていましたから、上野様がどこにいらっしゃるかは存じておりません。何人かが玄関から外に出て、その後一人だけ戻ってきたような音が聞こえたとお伝えすると、お二人から一緒に上野様を探してほしいと頼まれました。当然これを快諾し、普段使いの懐中電灯を私が持ち、予備の懐中電灯を柏木様にお渡しし、旅館近辺での捜索を始めました。
旅館では御崎様がお休みになられているため、出来るだけ大声は出さないでくださいとお願いしたのですが、柏木様はお構いなしに上野様のお名前を大声で呼ばれてました。ただこれは無理もない事です。私としては最低限のお願いはしましたので、御崎様からクレームをいただいても崇暗旅館とは関係のない事です。免責事項にもお客様トラブルに旅館は関与しないと記載しています。
しかし、上野様はなかなか見つかりませんでした。
探しているうちに、柏木様の声で目を覚まされた御崎様も屋外にやってきました。事情をお話しすると、御崎様も捜索に協力してくださりました。御崎様は、懐中電灯も、その代わりになるスマートフォンも持っていないとの事でしたので、私の懐中電灯をお渡しし、私は自分のスマートフォンでライトを点け捜索しました。
やがて、旅館の敷地内で目につくところは探し尽くしてしまったので、私たち四人は一度合流して情報を交換しました。全員、有力な情報は特に得ていなかったのですが、姫川様は目に見えて顔色を悪くされていました。状況が状況ですので、無理もない事です。
もしかしたら旅館の建物内にいるのかもしれないという話になり、私たちは一度旅館に戻る事にしました。
そして、旅館の玄関の戸に手を掛けた時の事です。
私は何故だか、猛烈に嫌な予感がしました。いつもと違う、言葉に出来ない何かを感じ取ったのです。私が働くこの旅館に、得体の知れない事態が起こっているのだと。
震える手で戸を開け、玄関を灯りで照らすと、人間の脚が見えました。玄関に横たわっている人がいたのです。灯りを身体に沿わせて行くと、その横たわっている人の顔が見えました。
上野様です。口も瞳孔も開き、苦悶の表情を浮かべたまま、彼女はぴくりとも動きませんでした。