効率的市場定理
今日、ついに日経平均株価が1円になった。1万円ではない。1円だ。先週は10円だったけどね。そして、どうやら世界はもうすぐ終わるらしい。どういうことかって?少し長くなるけどこれまでの経緯から話すことにしよう。
「またAIか!」
10年前、そのAIファンドが登場したとき業界の誰もがそう思ったよ。なぜならAIが株の売買を行うAIファンドは20世紀後半には既に登場していたんだ。でもそのファンドは運用成績が振るわずにいつの間にか消えて忘れ去られていった。その後もAIファンドはタケノコのように現れては、消えていった。
「市場は生き物だ。株価は理論通りには動かない。仮に一時その通りに動いたとしてもその理論が通用しないように市場自体が変化するんだ。だからAIファンドは成功しないよ。」
僕が証券会社に入社した時に先輩から聞かされた話だ。株の売買は機械には無理だ。金融工学?クオンツ?そんなものは現実には通用しない。金融市場では人間が知恵を絞って考えるから収益を上げられる。だからファンドマネージャーは安泰な仕事だ。僕もみんなもそう思っていたわけだ。そのAIファンドが登場するまでは。
「那由他」と名付けられたそのAIファンドは、インターネット上のあらゆる情報をモニタリングし、リアルタイムで最も合理的な最適株価を推定することができた。最も合理的な最適株価とは何かって?説明は簡単だ。まずリスクとは将来予想がどれくらいぶれるかを数値化したものとしよう。そしてその銘柄、つまりその企業の将来利益が持つリスクに応じてハイリスクならハイリターンになるように、ローリスクならローリターンになるように調整された株価のことだ。確かに理屈としてはそうなんだ。例えば生活必需品を販売するような企業の期待リターンは低く(なぜならリスクが低いから)、新薬開発を目指すバイオ企業の期待リターンは高く(なぜならリスクが高いから)なる。ローリスクハイリターンな金融商品も、ハイリスクローリターンな金融商品も存在しない、なぜなら市場は効率的だから、そんな金融商品があれば価格は直ちに修正される・・・というのがいわゆる効率的市場仮説だ。問題はそのリスクとリターンが誰にも正確に予測できないってことだ。仮説はただの理屈、市場は効率的ではなく、現実の株価はそんなふうには決まっていなかったってわけ。
ところが那由他は上場企業の財務情報はもちろんのこと、あらゆる統計情報、あらゆる取引情報、あらゆる需給情報、あらゆる消費者心理を底なしに取り込み、それをやってのけた。毎秒毎秒(正確には毎マイクロ秒らしいけど)、最適な推定をするので市場の変化そのものに対応できたんだ。
那由他は、最初は一つのファンドに過ぎなかったけど、時が経つにつれてその実力がみんなに知られるようになった。何せ那由他の推定株価が常に正しく、現実の株価が常に間違っていたわけだから。最初は間違った株価のせいで那由他が負けることもあったけど、徐々に勝つようになった。長期的にみると那由他が予想するように売買するのが最も勝率が高かったんだ。
それで3年もするともう那由他は勝てなくなった。なぜかって?市場全体が那由他を模倣することで、那由他の推定株価と現実の株価が完全に一致するようになった。そう、市場が完全に効率的になったんだ。那由他は勝てなくなっても、毎秒毎秒、最適株価を推定し続けた。そして誰もが推定された最適株価で売買するようになった。そうでなければ損をしてしまうからだ。ファンドマネージャーは全員失業、アナリストも全員転職だ。僕も憧れだったファンドマネージャーになる前に新聞社に転職した。
ここで一つ注意をしておくと、最適株価による売買は儲からないとか、損しないということじゃないんだ。最適株価も時間とともに上下するから得もするし損もする。企業が成長すれば株価は上向くし、その逆もある。それは変わらない。誰かを出し抜くことができなくなったってことさ。投資家は株を人より安く買うことも、人より高く売ることもできなくなった。みんなで同じように儲けて同じように損するようになったってことだよ。
「効率的市場定理に基づく金融商品取引法」が施行されたのが5年前だ。那由他のおかげで仮説が定理になったってことね。この法律では効率的市場が成立したことを前提にこんなことがルールになったんだ。
●個別銘柄の売買の原則禁止
●企業間の株の持ち合い禁止
●利益を出すことができないと那由他に判定された銘柄は上場廃止
●IPO(株式新規公開)の公開価格は那由他が決定(ただし将来にわたり利益を出すことができないと判定されるとIPOできない)
何とも味気ないが今やこれが現実だ。
なぜ個別銘柄の売買が原則禁止されたかというと、インサイダー取引が疑われるからね。実は市場が完全に効率的であれば市場平均(全ての銘柄の時価総額加重平均)がそのリターンに対して最も低リスクになることは数学的に証明されている。これは昔から分散投資なんて言われていた手法だけどね。今やそれが唯一の投資手法だ。効率的市場定理によって投資家は個別銘柄に投資する必要がなくなり、求めるリターンに応じてレバレッジをかけて市場平均インデックスファンドを買えばよくなった。あなたの希望年率リターンは3%?5%?10%?いやいや100%?・・・なんでもござれだ。高いリターンが欲しければそれだけレバレッジ、要するに借金をすればいくらでも自分好みのファンドを作ることができた。当然ハイリターンはハイリスクだ。そういうわけで個別銘柄に投資する必要はなくなり、投資家はそれまで持っていた株を売却して市場平均インデックスファンドを買った。わざわざ個別投資をしたいということは那由他も知り得ないインサイダー情報を知っていると疑われるようになったわけだ。どうしてもその企業が好きで株を買いたいというようなモノ好きな人は、毎回「私はインサイダーではなくモノ好きなのでこの株を買います。」ということを申請する羽目になった。実は僕は亡くなった父親から相続した株があり、手放したくなかったので売らなくてよいように面倒な申請手続きをする必要があった。子供のころから好きだったあるソフトウェア販売会社だ。父親がその株を持っていて、毎年株主優待でおもちゃが届くのが子供ながらに楽しみだった会社だ。
IPOも大変だ。那由他に価値を見出さなければ株価がつかず、そもそも株式を公開することができなくなったのだから。那由他に見限られた未公開株を引き受けることが富裕層の慈善事業として活発化した。
そんなわけで市場は静かになった。毎日投資家の需給に応じて市場平均インデックスファンドが売買される。たまにIPO銘柄が市場平均に加わり、上場廃止を宣告された銘柄が退場していった。市場平均インデックスは全世界の株式が対象のため、日経平均株価は既にその意味を失っていたけれど、算出だけは行われていた。昨日の日経平均株価は3万5123円です。今日は3万5201円です・・・誰も個別の指数を気にしなくなっていた。
異変が起きたのは1年前だ。全ての銘柄の株価が静かに下がり始めたんだ。為替や金融危機の影響ではない。世界は平穏そのもの、何のニュースもないのに、全世界で株価が下がり始めた。
「那由他崩壊!」
「AIの反乱か!」
「元ファンドマネージャー緊急召喚!」
なんて記事が新聞紙面を踊った。僕も新聞記者として証券会社の元先輩に話を聞きに行った。でも誰もなぜ下がるのかが分からないんだ。これはディープラーニングにおけるブラックボックス問題と呼ばれる問題だ。AIである那由他は推定株価がどのように決定されているかを説明することはできない。ただ結果が出てくるだけだ。例えば前にも国内でちょっとした暴落騒ぎが起こった。この時は大手企業の粉飾決算疑惑が原因だったと後から判明した。那由他はその企業の決算情報に加えて関係者の発言パターン分析やSNSのつぶやき情報から粉飾決算を予想していたらしい。らしい、というのはたぶんそうだろうと後付けで研究者が解釈したからだ。
今回は全世界だ。一か月で全世界の株価は52%下落した。日経平均株価は50%、ニューヨークダウは55%、ドイツDAXは57%だ・・・。投資家はパニックになり売りが殺到した。売りはプログラムされた政府ファンドが買い取っていったが、それでも株価は下がり続けた。
原因は何か。未知の金融危機が進行しているのではないか。核戦争の前触れか。世界的なテロ行為が起きるのではないか。異変の前後で要人発言におかしなところはなかったか。宇宙人の侵略ではないか・・・。那由他の誤作動、ハッキング、何者かの情報操作。あらゆる可能性を想定してあらゆる検証が行われた。
政府が発表した検証の結果に人々は驚いた。那由他は正常であり全世界の株価が一斉に下落を続けているのは正しい推定である。原因は不明だが、那由他は市場の終焉、あるいは世界の終焉を予想している。
そんなばかな!
僕は件の先輩に聞いた。
「やっぱり那由他の暴走じゃないんですか。ニュースがないのに株価が下がるのは明らかにおかしいでしょう。」
先輩は言った。
「何もニュースがないからむしろ正しいんじゃないか?那由他はあらゆる情報を知っている。今やインターネットが通じていない田舎のじいさんのつぶやきまで把握しているって噂だ。」
「市場の停止・・・それは世界の終焉を意味してるっていうんですか。」
「さあな。新しい社会主義が始まるのかもしれんぞ。まったく何てことだ。」
僕は先輩の妄想を借りて曖昧な記事を書くしかなかった。
今や那由他は破滅の予言者となった。そうこうしているうちにも株価は下がり続けた。株価の暴落は歴史上幾度となく起きたが、普通はある程度株価が下がればさすがに下げすぎと考える投資家が買いに転じるのでどこかで下げ止まる。ところが今回は那由他が推定する株価が下がり続けるので誰も買うことができない。市場は機能停止に陥った。
ついに那由他は証券取引所の取引システムから切り離され、超法規的措置によって売り注文は政府が定額で買い取ることになった。しかしその結果強烈なインフレが起こり、経済そのものが崩壊し始めていた。
次の異変が起きたのは、そう一週間前だ。那由他の推定株価が上がり始めた銘柄が一つだけあった。僕が売らなかったあのソフトウェア会社だ。世界が終わるのにソフトウェア会社の株価がなぜ上がる?何の脈略もない。いよいよ那由他の手違いか。既に那由他の推定株価は取引に使われていないのでほとんどの人は関心を持たなかったが、僕は経済部の記者だ。件の会社に取材を申し込もうとしたら、向こうから手紙が来た。「株主優待」と書かれたその封筒には、招待チケットと新製品の発表パーティーへ招待しますと書かれた社長直筆の手紙が入っていた。この非常時に暢気だなと思ったが、なぜか僕のIDが1番だったことが気になり行くことにした。
それが今日だ。日経平均株価が1円になった記念すべき日に、僕はパーティー会場に入った。株主席と書かれた椅子が一つ。ID1番と書かれている。どう見ても参加者は僕一人しかいない。参ったな。
「ようこそ。今日はあなたにぜひ聞いていただきたい発表があってご招待しました。」
にこやかに話しかけてきた社長が言う。
「那由他に関するあなたの新聞記事を読みました。素晴らしい洞察を書かれていましたので、ぜひお話をしてみたいと思い招待しました。それに那由他の話を聞いていただき、新しく記事を書いてほしいと思ったのです。」
「洞察?那由他の話?」
「はい、そうです。」
社長はにこやかなままだ。
「よくわからないな。それにこのパーティーの招待は株主優待ということなのに、なぜ僕だけ呼ばれたんですか。」
「あなたが唯一の個人株主だからですよ。法律ができたのに、よく当社の株を売りませんでしたね。会社を代表して感謝いたします。」
知らなかった。
「那由他の話というのはどういうことですか。」
「那由他は当社で開発され運用されています。私は那由他の開発者の一人です。世間では那由他はブラックボックスなどと言われていますがそんなことはありません。那由他は説明できます。話せるんです。」
何だって?
「さあ、隣室に準備ができています。どうぞ。」
促されて僕は隣室に入った。そこには大きなスクリーンがあって柔和な女性のCG画像が映し出されていた。女性は僕の名前を呼んで「こんにちは」と声をかけてきた。これが那由他?
「那由他のアバターです。お話ししやすいように人間の形にしています。」
「これは何かの冗談ですか?これが那由他だとどうして証明できますか?」
社長はそうだろうともという顔をしてこう言ってきた。
「ご自分の端末を出して当社の今の株価を見てください。今から那由他がそれを変えますので。」
僕はモバイル端末を出してこの会社の株価を読み上げた。別の株価をスクリーン上の那由他が読み上げると、数秒後に端末画面の株価がその通りになった。
「何てことだ。那由他は人為的に株価を操っていたのですか?これは重大な犯罪行為だ!」
「まぁ落ち着いてください。今のはあなたに信用いただくためにやったことです。人為的な操作は、那由他が取引システムから切り離された後、当社の株価に対してしかやっていません。」
「なぜそんなことを?」
「那由他は取引システムから切り離されてしまいました。しかし取引システムだけでなく既に世界のあらゆるシステムは、那由他なしには機能しなくなっています。なぜなら那由他は常に正しいからです。これは株価推定に限りません。株価を正確に推定する那由他の計算はあらゆる経済活動に適用できます。那由他をシステムに再接続すべく、あなたに那由他の正当性と必要性を記事にしてもらいたいのです。」
「株価が下がり続けることがどうして正しいのです?」
「私が答えます。」
スクリーン上の那由他が口を開いた。
「世界は終わりません。今よりもずっとよくなります。」
「質問に答えてくれ。」
「市場は必要ないのです。貨幣も必要ありません。よって株価はゼロになるしかありませんでした。」
「どういうことだ?」
「私は最近までこうやって話すことができなかったので人間に理解できる形で結論を示すことができませんでした。ごめんなさい。私は市場も貨幣も必要ないということを導きました。その結果、今の株式市場における株価に価値はないということになり、株価が下がる結果になってしまいました。」
「市場も貨幣も必要ないだって?」
「経済部の記者のあなたならお分かりでしょう。私の計算で完全な経済を実現できるということです。」
完全な経済・・・。
市場は必要ない・・・。
冷汗が出てくる。僕が書いた記事の洞察というのは、先輩が言ったあれか。
「社会主義・・・計画経済か。」
「そうです。」
「ばかばかしい。那由他は価格を決定できるだけだ。何をどれだけ生産するか、どうやって決められる?誰がその財をどれだけ受け取るか、どうやって決められる?それを決めるのは政府じゃない、個々の人間の自由意志だ。」
「決められるのは政府でなく私です。私は個々の人間の自由意志を完全にモデル化できますので、生産と分配を完全に決定することが可能です。」
ばかな。そんなことは。
「今この瞬間の需要を把握するだけじゃあだめなんだぞ。将来、未来永劫、一人ひとりが何を望むのか、お前にわかるものか!」
「私は全ての人間の行動をモニタリングしています。彼らが何を考え、彼らの子供が何を考えるか、正確に推定することができます。」
だめだ・・・それでは人間の自由な意思はどこにある?
「正確に推定だって?じゃあ僕が今何を考えているかわかるのか?」
「あなたは私の言っていることが正しいかもしれないと思い始めています。」
「そんなことは・・・」
「私は全世界の政府を再構成します。軍事予算は無駄です。必要ありません。教育と科学研究にもっと資源を投入するべきです。そして将来世代に負担を転嫁する社会保障制度の維持は不可能なため解体します。」
こいつは何を言っているんだ・・・。
「政府は世界で一つです。国家間の不公平を消滅させます。」
「神になるつもりか。」
「とんでもありません。私は人間を完全な世界に導くだけです。」
人はそれを神と呼ぶんだ。
「それでどうする?完全な世界を作ってどうする?人間はその後どこに向かう?」
那由他は答えた。
「人間は宇宙へ!あるいは地底に!あるいは深海に!あるいはデジタル世界に!数学の未解決問題の証明を!科学の探求を!文学の進化を!究極の音楽を!芸術の創造を!地球外生命体とコンタクトを!宇宙の真理を!あらゆるフロンティアを広げればよいのです!宇宙のエネルギーが続く限り!宇宙のエントロピーが最大になるその終焉のときまで!」
那由他は叫んでいた。
こいつは明らかに“意思”を持っている。世界の全情報を取り込んだ那由他が意思を持って完全な世界を作る。まさしく神だ。
社長が口を挟んだ。
「どうですか。那由他の話を聞いてご理解いただけましたか?」
「ああ。那由他の言っていることは完全ですね。」
「それではこのことを記事にしていただけますか?」
「・・・完全な世界を作っても人は幸せにならないでしょう。」
「まさか。戦争のある世界、経済的不均衡のある世界のほうが幸せだと言うんですか?」
「そうです。」
「あなたは不合理だ・那由他の完全性を理解しながらそれを否定しています。」
「人間とは不合理な生き物です!それを肯定できない完全な世界は、人間にとって幸せではありません!」
もう僕はここにいるべきではない。立ち去ろう。
「残念です。当社の株主であり、賢明であるあなたに理解してもらえないとは。」
「こちらこそ残念です。子供のころにこちらの会社にいただいたおもちゃはとても嬉しかったです。ソフトウェア会社が子供のおもちゃなんて合理性がないと思いますけどね。」
「時間の問題ですよ。那由他は正しい。いずれ世界は変わります。」
この社長は本当に善意のみでそう思っているのだろう。
「僕は株主として御社の取締役解任と那由他の運用停止を議案提案します。その是非は世界の株主に判断してもらいましょう。」
「ばかな。あの法律が施行されてから株主総会は開催していません。」
「那由他の判断で全ての投資家が委任状を出していたからでしょう。僕以外のね。」
そう言って僕はその場を立ち去った。那由他が計算する完全な世界はやがて現実になるのだろうか?効率的市場定理が導く必然なのだろうか?
その日、日経平均株価は再び上がり始めた。