7.近付いて遠ざかる
【風雅】
一つ森の麓、野分の洞穴からは真逆の方にお絹の住まう村がある。お絹の案内で、一軒の茅葺の家を訪ねた。ワシは少し体を屈めて戸をくぐる。
「おっかあ、天狗様が来てくだすったぞ」
道中、おりゅうに放っておかれた時はどうなることかと思ったが、どうにかこうにかここまで来れた。とはいえワシはお絹が話すことに相槌を打つので精一杯だったがな。
土間に立って、奥を見やる。座敷を抜けたお絹が、こちらへと奥へ誘った。後ろの野分が、俺ァここにいるヨと土間で立ち止まる。ワシは覚悟を決めて奥の間へ向かった。
薄暗いそこには、老婆と呼ぶにはまだ若い女性が煎餅布団の上に横たわっている。痩せて窪んだ目が、ふらりとワシを捉えた。
「て、んぐ……さま……?」
体を起こそうとしたお絹の母を手で制す。ワシはお絹の母の横に腰を下ろして、懐から香木を一つ取り出した。疫病の気はない。今のところ、悪鬼の匂いもなかった。臓腑は弱っているようだが、活力を失っているせいもあるだろう。
これならば、ワシにもどうにかできる。ワシが司るものは気だ。人々の活気、土地の精気、様々のそれらを流し、留め、望むならば繁栄を、望むならば衰退を与える。
左手のひらに香木を乗せ、ワシは緩く瞼を下げた。
「急激なれば身を壊す。ゆるりと息を吸い、身の内に留め、吐き出せ」
ワシの言った通りに、二人の呼吸が聞こえる。お絹も疲労の色が濃く出ていたからついでだ。香を辿って、ワシの気を送る。
しばらく呼吸に合わせてそれを繰り返しているうち、お絹の母がああと息を吐いた。
「体が重かったのが噓のよう……。ああ天狗様、ありがたや、ありがたや」
体を起こしてワシを拝むお絹の母に、ワシは苦笑いを溢した。布団に戻るよう、そっと夜着を掛ける。
「身の内に力が戻るまではそう動くでない。お絹、しばらくは森から精のつくものを送ろ……ぅ」
涙目のお絹と目が合って、全身が硬直した。ありがとうごぜぇます、と頭を下げるお絹に、ぐ、と喉が詰まる。
「とっ、とにかく!よう食べ、よう眠るように!」
何も言えなくなる前に伝えるべきことを伝えて、ワシは奥の間から転がるように出た。土間まで戻ると、かまどを眺めるおりゅうがいる。戻ってきたワシに気付いて、あらと目を丸くした。
『フーガからすごく爽やかな香りがしますわ』
その言葉に、握り締める形になってしまっていた香木を思い出す。ああと頷きながら、おりゅうに合図をしてお絹の家から出た。
「これは香木と言ってな、香りも良いが、悪しきものを遠ざける効果もある」
ワシの左手に顔を近付けて、おりゅうが香りを楽しむ。ワシは森へ向かって歩きながら辺りを見回した。野分の姿がない。
「野分はどうした?」
『ノワは、山に鯨がいるってヨ、食われちゃア敵わねェからここで待ってな、と森に行きましたの。わたくしだって、鯨は海の生き物だって知っておりますわ!ノワはまた、わたくしをからかっているのです!』
拗ねたように口をへの字にするおりゅうに、ワシは苦笑いを浮かべた。野分の奴め、察しのいい。あと、悪い癖でもあるな。奴は気に入ったもので遊びたがる。
ワシは野分を庇うというよりもおりゅうの為に、山鯨とは何なのかを説明した。猪は知っていたようだ。山鯨は猪のことを指すのだと理解したおりゅうは、それでもやはりむっすりと頬を膨らませている。
『だったらそうおっしゃればいいのに。ノワは意地悪ですわ』
「おォ、意地がいい鬼がいると思うかい?」
猪を担いで現れた野分に、おりゅうが跳ね上がった。出会った頃のように、ワシの背に引っ込んでしまう。野分はワシの足元に猪を下ろした。
「血と臓腑は抜いてきてやったヨ。後はお前サンが捌いてやんな」
まぁ獣を狩るところなど、おりゅうのような娘御にはあまり見せたくないものよな。だからといってからかう必要などないし、もう少し言い様があると思うが。
「ホレ、山の鯨さネ」
『猪のことでしょう。フーガに窺いましたわ。わたくしは幽霊なのですから、猪に食べられるようなことはありませんのよ』
ワシの背からちょいと顔を出して、おりゅうが言う。野分は苦笑しながら肩をすくめた。ひゃあと声がして振り向けば、お絹がワシの足元を見て目を丸くしている。
「て、天狗様、いつの間に猪を……!?」
「あ、ああ、こりゃワシじゃなく、だな」
「山鯨の食い方は分かるかい、お絹サンヨ」
埒が明かないと思ったか、野分がお絹に尋ねた。お絹はへえと頷く。野分はこっそりとおりゅうに合図しながら、ワシとお絹に背を向けた。
「捌くのは天狗サマにやってもらやァいい。俺ァ帰ェるぜ」
『頑張ってくださいましね、フーガ!』
お、おい!待て!ワシを助けるという話はどうした、野分、おりゅう!猪を捌いている間、ワシはここに一人か!無理だ!
声に出すわけにもいかず、必死に視線で訴えるとおりゅうが困ったように野分を見る。しかし野分はもうすでに住処へ向かって歩き出していて、おりゅうに何かを言ってやる様子もなかった。おりゅうはひらひらと野分の元へ飛んで行ってしまう。
「こがな立派な猪を……、さすがだなぁ天狗様」
「ん、ぐ、こ、これは、先程の鬼、がだな……、ワシではなく……」
小首を傾げるお絹に、ワシの喉がキュッとなった。と、とっとと捌いてしまおう。そして森に帰ろう。ああ、外になど出るからこんなことになるのだ。一つ森の縄張りは捨てて、どこか籠っていられる場所を探さねば。
『ほらまた!背が丸まっておりますわよ!』
「!」
いきなり響いたおりゅうの声に、びくりと体が揺れた。おりゅうはワシと猪の間にするりと入ってくる。の、野分の方へ行ったのではないのか?
『貴方をお手伝いすると言ったのはわたくしですわ。さあ、顔を上げて。おキヌさんにきちんとご説明しましょう』
「む……、こ、これは、先程の鬼が、……お絹の母の為に、だな……」
「鬼神様が?」
不思議そうなお絹に頷いてみせる。頑張れとおりゅうの声に、ワシは腹に力をこめた。
「奴は気のいい鬼、だ。これも、有難く受け取り、……お絹の母の、滋養を……その……わ、ワシが、捌くから……、お絹は、湯の用意を……」
「へえ、任してくんろ」
お絹は頷いて、土間へ引っ込んでいく。す、少しは話せただろうか。ちらりとおりゅうに目をやると、少女はふんわりと宙に浮いていた。
『お茶屋の時よりは頑張ってらっしゃいますわ』
まだ随分とカチコチですけれど、と困ったように笑う。ワシは言ってくれるなと首を振りながら、猪を担ぎ上げた。吊った方が勝手がいいが、ここでは無理そうだな。台を借りるとお絹に声をかけて、ワシは猪をそこへ下ろした。懐に手をやって、はてと思う。
「おりゅう、野分のところへ行くといい」
『……どうしてですの?』
「ああ、これより猪を捌くでな。獣の皮を剝ぐところなぞ、見たくもなかろう?」
『あ、……ええ、そうですわね』
おりゅうは歯切れ悪く頷いて、しかしその場から動かなかった。懐にしまい込んであった山刀を出しつつ、おりゅうの様子を窺う。
『背を向けておりますから、ここにいてもよろしいですか?』
「ん……、構わんが、何かあったか?」
あれほど野分に懐いているのだ。野分の方へ行けと言えば喜んでいくものと思っていた。おりゅうはワシに背を向けて、まるで膝を抱えるように宙に腰かける。
『……わたくし、将来を誓った婚約者がおりましたの。わたくしが赤ん坊のころに誓われた将来ですわ』
ワシはおりゅうの話を聞きながら、猪に刃を入れた。この幽霊の少女は、慕っていた様々な者に裏切られてここにいる。それは、ワシも野分も重々承知していた。野分とは人生の半分以上の付き合いなのだ。奴に出来うる最大限で、おりゅうを甘やかしてやっているように見える。からかいはするものの、奴に悪意がないことくらいおりゅうも分かっているだろう。となると、野分に何か言われたとは考えにくいが……。
『淑女として教育を受け、隣に立つにふさわしい女性になれるよう、尽力いたしました。国を、国王を支えるため、……彼も同じ考えだと思っておりました』
猪の皮を剥ぎながら聞くには少々、据わりが悪いというか。本来なら膝を突き合わせて聞くべきなのだろう。だが、おりゅうは構わないとばかりに話を続けた。
『彼に恋をしていたかと問われれば、首を振らざるを得ないでしょう。友人、仲間、同志……わたくしからの想いはそのようなものであったと、今ならば分かります。だから彼は他の女性を選んだのだ、ということも』
ワシはどう言ってやることも出来ずに、うむ、と間抜けな相槌を打つ。
『婚約者には……、彼にはこんな気持ちになったことはありませんでした。……わたくしは、幽霊なのに……なのに、今更……』
……ん?
『どうしましょう、フーガ。こんな邪な心を抱く幽霊は、正しく悪霊でしょう?わたくし、どうしたらっ……』
「ま、待て待て」
『フーガ!どうか、わたくしを祓ってくださいませんか。これ以上、やさしいあの方に執着してしまいたくはありません。幽霊などに好かれても、ただ困らせるだけ。どうせ終わるなら綺麗なまま、醜い悪霊になった姿など見せたくはないのです……!』
んん!?
「天狗様ぁ、湯が沸いたよぅ」
「あ、お、おう!いや、うむ、なんだ、おりゅう、少々待て、な?」
あちらとこちらとでウロウロしながら、ワシはとりあえず、おりゅうをその場に留めさせた。な、何から説明すればいいのだ!?ええい、野分の奴、肝心要な時ばかりおらんで!と、とにかくこの猪をお絹に渡して、おりゅうには、ああ、ええと、どうすればよいのだ!
ワシは天を仰ぎたい心持ちで、捌いた山鯨を抱えるのだった。