2.友人ではなく知人の野分
【風雅】
洞穴を入って最初の分かれ道を右、更に奥へ入って右。くの字の壁沿いにある木の扉の先が鬼の住処だ。ごつんごつんと扉を叩くと、面倒そうな呻き声が中から聞こえた。寝起きか?
リューは幽霊だと言うのにワシの背に隠れてしまっている。時折、暗すぎやしませんかとか、帰りませんのとか細い声で聞いてくるのがおかしかった。外つ国ではそれほどまでに鬼が怖い存在なのだろうか。
「野分、ワシだ」
「アァ?ワシなんて知り合いにゃアいねェよ」
ひねくれ者め。扉の奥から聞こえたこもった声に、ワシの背にいるリューがきゃんと鳴いた。しばらくして、ごとん、と音がする。閂を下ろしたらしい。もう一度、ワシの背のリューが鳴いた。首を左右に振っても見えぬほど縮こまっている。
「オイ、何連れてきやがったクソ天狗」
「おう久しいな、野分」
相変わらず酒臭い住処だ。野分はワシを頭の天辺から足の先まで見て首を傾げる。それから、至極嫌そうに顔をしかめた。
「まさか、お前サンが鳴いたワケじゃアあるめェな?」
「違うわい。さて、鬼に幽霊は見えるかな」
自分の背の方を見ながら、ワシは口元を吊り上げる。ほれ、と声をかけると、おっかなびっくりリューが顔を出した。野分を見れば、奴にしては珍しく目を丸くしている。
「外つ国の幽霊だ。やはり見えるか」
「……霊魂なら、そりゃアよう」
「リュー、こやつは鬼族の野分という男だ。お主のことも見えているよ」
ワシの言葉に意を決したのか、リューはするりとワシの背から出てくると隣に立った。煌びやかな着物の裾を摘まんで、腰を折る。外つ国の礼だ。金色の髪がさらりと揺れる。消えかけのかがり火でなく日の元であれば、もっと綺麗であったろうになぁ。
『リューディア・レ・アラルースアと申します。海の向こうの国で死に、こちらへ旅をして参りました』
「野分だ。お前サン、憑くにしたって相手は考えた方がいいぜ」
がりがりと左の角の横を掻いて、野分は半身引いた。
「汚ェとこだが入りな。何ぞワケありなんだろう?」
まだ少し腰の引けているリューに笑いながら、ワシは野分の住処に足を踏み入れる。転がる酒樽は、今しがたまで飲んでいたのだろう、蓋が空いて中身が半分ほど減っていた。引っかかっている柄杓も濡れている。ワシは適当に、敷いてある藁の上に腰を下ろした。リューは物珍し気に辺りを見回している。
「話してみな」
野分の言葉を合図に、ワシはここまでのことを話しだした。
◆◇◆◇◆◇
「馬鹿かテメーは」
これまでのリューとのことを説明して、野分から帰ってきた言葉がこれだ。野分は柄杓を傾けてぐい吞みに酒を注ぐ。ワシにもと求めて、盛大に舌打ちを返された。放り投げられたぐい吞みを受け取ると、野分が傾ける柄杓から酒を貰う。
「嬢ちゃんもこんなところまで来て何やってやがる。コイツに嫁を取らせようなんざ、万に一つもねェ夢物語だぞ」
矛先を向けられたリューは、肩を揺らしてこちらを向いた。部屋の隅にある、野分の獲った獣の毛皮を見ていたようだ。
『やってみないと分かりませんわ』
「で?やってみたんだろう?コイツは茶屋の娘を口説けそうに見えたか?茶と団子を頼むのにすら、しどろもどろしてたんじゃアねェのか?」
『う……』
どんぴしゃりと当てられて、リューは口を噤む。野分はやっぱりなと肩をすくめた。うんうん、リューによく言い聞かせてやってくれ。ワシには嫁は取れん。
「何をスカした顔していやがる。一番の問題はテメーだろ、このボケナス」
「うごっ」
容赦なく腹を蹴飛ばされて、ワシは呻いた。いくら頑丈な天狗とはいえ、鬼の一撃はさすがに効く。
『け、けれど、誰かを娶れなければ、フーガは故郷を追われてしまうのでしょう?今ならばまだ、間に合うのですから、わたくしは……』
俯くリューの言葉に、ワシと野分は顔を見合わせた。しまった、短慮だったな。リューはここへ、故郷を追われてきたのだ。両親にも将来を誓った相手にも見放され、海の先に……故郷とは全く違う景色を求めてきたのだ。
ふー、と長く息を吐いた野分に、リューがびくりと肩を揺らす。リューは随分と野分に怯えているようだ。愛想のいい男でもないからな。
「仕方あるめェ。気にかかるモンを見逃せってェのも酷か。嬢ちゃんの気が済むまでやってみるといいサ」
『ありがとうございます、ノア……ヌーワ、ノワーさん?』
「ハッ、野分は言いにくいかい。ノワでいいヨ」
おお、野分が笑んだ。年端もいかぬ少女には、さすがの鬼も優しいか。リューはするりとワシの隣に下りてくると、ちろちろと野分を見る。
『その……ノワは鬼とおっしゃってましたけれど……、わたくし、食べられてしまいますの?』
「ん?」
「ア?」
突拍子もないリューの言葉に、ワシも野分も首を傾げた。野分に食べられる?野分は確かに肉も食うが、幽霊を襲って食うことはないぞ。野分もそう言ってやるだろうと思ったら、何故か弾けるように笑いだす。
「ははははは!さァて、頭ッからぺろりと食っちまうかも知れねェなア」
『やっぱり!?』
リューはびょんとその場で飛んで、そのままワシの背に隠れてしまった。首を回して背を見ると、可哀想にワシの背に縋りついて小さく震えている。
「おい野分、からかってやるな」
涙目になる程笑っている野分に、ワシは止めろと首を振った。野分は冗句を言っているだけだ、普段は獣を狩って肉を食っていると説明して、ようやくリューの震えが止まる。
野分にからかわれたのだと理解したのだろう、白い肌を赤く染めてリューがワシの背から顔を出した。
『酷いですわ!わたくし、本当に怖かったんですのよ!?』
「お前サンの国の鬼とは違ェんだヨ。ま、食おうと思えば食えるんだがなァ」
『え』
にやにや笑いながら言う野分に、リューはびくりと体を揺らす。本当なのかと問うようにリューがワシを見た。
ワシの表情を見て、リューが頬を膨らませる。また野分にからかわれたと気付いたのだろう。
「気を付けな、嬢ちゃん。ここはお前サンの常識とは違う理の世界だからな」
『……重々承知いたしましたわ』
どこぞから羽毛の扇子を取り出して、リューは口元を隠した。リューも大体、野分がどんな男か分かったようだ。
野分は鼻歌の一つもやるんじゃないかというくらい上機嫌に酒を呷る。ワシも手元の酒を喉に流した。リューは扇子を開いて口元を覆うと、においが……と呟く。すまんすまんと笑うワシを、リューが横目に睨んだ。
「香りを感じるのか?」
『強いものですと感じますわね。人の身のままでしたら、五分とここに居られなかったのではないかしら』
「ほう」
うーむ。野分が実に楽しそうだ。リューには気の毒なことをしてしまったかな。野分がここまでおなごに興味を持つとは。幽霊の少女であるが、この鬼も長く独り身だ。いいことであろう。
「捧げられたモンは飲み食いできるのかい?」
『どうでしょう……、試したことはございませんわね』
じゃあホレ、と野分が自分のぐい吞みをリューに捧げた。リューはそれを受け取ろうと手を伸ばす。だが、野分はぐい吞みを放そうとしなかった。
「あァ違う違う。いくら何でも物は持てんだろう」
『え?』
「飲んでみな。持っててやるからヨ」
リューは野分の言葉に目をぱちくりとさせた後、ぐい吞みに顔を近付ける。こくりとリューの喉が鳴った。おお、飲めるのか。これは僥倖。色々とこの国のものを食べさせることも出来よう。
『ッ……けほっ!な、何ですのこの飲み物は……!』
「クククッ、酒は初めてかい?」
『お酒!?まだ昼間ですのよ!?』
おお、おお。仲の良いことだ。リューは野分を叩こうと、奴の周りに浮かんでいる。野分は特に払うこともなく好きにさせていた。まぁ、リューは幽霊だからな。
「さァて、そうなるってェと、この唐変木に嫁御を用意せにゃアならんワケだ」
我関せずと酒を頂いていたら、いきなりこちらへ矛先が向く。思わず口元が引きつったのも仕方ないと言えよう。
『わたくし、お嫁になってくださる女性を探すより、まずはフーガ自身を変えねばならないように思いましたの』
勘弁してくれ。ワシはこうして、酒をちびちびやりながら日々何事もなく過ごせれば満足なんだ。
「そうだなァ。それに、あの茶屋の娘がコイツに御せるとは思えん」
『そうでしょうか?フーガのことですから、ある程度女性が積極的な方がいいかと思いましたけれど』
「ありゃアそういうんじゃない。良い様に使われて、挙句ポイと捨てられるのが目に見えてンぞ」
にやにやと笑いながらワシを見る野分に、ワシは首を振る。奴は知ってて言っているんだ。たちが悪い。
「リューにはすまないことをしたが、ワシがいかにおなごに慣れていないか知らせる為に茶屋に寄っただけだ。あの娘さんはワシなんかに見向きもせんよ」
「美人画でも描けりゃア、ちぃとは靡いてくれるかもな。おりゅう、絵描きの心得があるなら教えてやンな」
からかう野分にワシは苦笑いを浮かべた。リューは野分の手からつまみの漬物を食べながら、不思議そうにワシと野分を見る。ああ、ええと、何と説明したものかな。
それからしばらくは、茶屋の看板娘がいかにして有名になったかの話をリューに聞かせるのだった。